第28話 氷の彫像
霧が蠢いていた。
肌にざらつくような冷気。息をするたび、喉の奥まで凍てついていく気がする。
(……来る)
ティエナはすぐに察した。霧の奥、視線の先。はっきりと姿は見えないのに、こちらを睨むような気配だけが、強く鋭く突き刺さってくる。
「っ、イグネア!」
叫ぶと同時に、氷槍が放たれた。音はなく、ただ一直線に走る殺意。
ティエナが跳躍。空を裂く冷気の刃が、ほんの刹那前まで彼女がいた場所を貫く。背後で、氷槍が壁に突き刺さり、即座に凍てついた音が響いた。
「援護いたしますわ!」
イグネアの声。すぐさま火球が放たれ、霧の一角を炎が焼く。
爆発。冷気と熱気がぶつかり合い、白く閉ざされていた世界に一瞬だけ、風穴が開いた。
(今だ――!)
ティエナはすでに弓を番えていた。足を止めることなく、滑る床を踏みしめるようにして、姿勢を低く。
引く。深く、しっかりと。
背中が軋むほどに弓を引き絞り、狙いを定める。
敵の姿は見えない。けれど、わかる。そこに“いる”。
「――っ!」
矢が放たれた。
霧を切り裂き、音すら置き去りにして一直線に走る。
そして――氷鏡の盾に命中した。
ガキィン、と高い破砕音。鋭い金属音が辺りに響き、次いで砕けた氷片が宙に舞う。
「……抜けた、やった……!」
息を呑むように呟く。矢が届いた。確かに、あの分厚い盾を貫いた。
けれど。
破片が霧に溶けるように消えていったそのすぐ後に――霧が、動いた。
まるで呼吸をするように、霧がその空白に吸い込まれていく。
(……え?)
目を凝らす。
霧が集まる。粒子のように。集まり、凝固し、形を成し……
そこに、同じ“氷鏡の盾”が、また浮かび上がっていた。
「あーもー! また再生したっ!」
さっきと、まったく同じ位置。まったく同じ形で。
まるで、何事もなかったかのように。
「ティエナ、霧の流れ……見えたか?」
背後からフィンの声。ティエナは小さく頷いた。
「うん。壊したのに……なんか、霧が吸い込まれて……」
「……もしかすると、再生には冷気を使ってるかもな。周囲の霧が、少し動いた気がする」
フィンの目が鋭く細められる。
「もしそうなら……再生してる間、冷気の制御が甘くなるかもな。仮説に過ぎないけど」
その言葉を聞きながら、ティエナは霧の奥――再生した盾の向こうを見つめた。
もし、フィンの仮説が正しいのなら。あの瞬間、あの再生の“隙”を突けるのなら――
「……一枚割るだけなら、簡単なんだけどな」
視線の先。本体のまわりには、六枚の氷鏡が、等間隔にゆっくりと回転しながら浮かんでいた。
まるで砕かれることすら計算済みであるかのように、どれも同じ距離感を保ち、静かに、しかし不気味なまでの規則性で陣を組んでいる。
(……でも、試すだけ試してみよっか)
彼女は弓を引き絞る。狙うは、本体――
放たれた矢は、一枚の盾を貫き、砕いた。――だが次の瞬間、残る盾のひとつが、まるで“次は自分の番”だと言わんばかりに軌道へと滑り込む。霧を裂いて入り込んできたその動きは、まるで敵の意思がそこに宿っているかのように精密で――無慈悲だった。
「やっぱり、防がれるよね……」
ナイフを手に、接近戦で叩き込めれば話は早い。
けれど――ティエナは、足元を見やった。
凍りついた床。冷気に覆われた地面では、踏み込むことさえままならない。
(今は……無理)
矢を放ったティエナは、再び霧の奥を睨みつける。
その横顔を見たフィンが、わずかに口元を引き締めた。
二人の視線が、無言のまま交差する。
霧が、静かに揺れていた。
それは冷気のせいか。それとも――
確かに、何かが動き始めていた。
敵の氷槍が飛び交う中、オーキィが声を上げた。
「イグネアさま! この床、溶かせないですか? 踏み込めないんです!」
「何度か火球を放ってみましたが……すぐに再凍結してしまいますの」
イグネアは冷静に返しつつも、眉間にわずかな皺を寄せていた。
「……さっきも盾を壊した時――少し、霧が薄れた気がした」
ティエナが弓を構えながら呟く。
フィンがすぐに反応する。
「……やっぱり、盾の再生中は、冷気がそっちに集中するってことか?」
言いながら、彼は足元の氷に目を落とす。
「イグネア、次に奴が盾を再生したら、もう一度火を頼む」
「ええ。試してみましょう」
イグネアが頷くと、再び指先に炎を灯した。
霧の中で、氷鏡がひとつ砕け――再生が始まる。
イグネアの火球が、床を正確に叩く。
ジュッ、と音を立てて氷面が解けた。
「オーキィ、今だ!」
「わかったわ!」
オーキィが駆け出す。溶けた床を蹴り、勢いのまま前方へ跳ぶ。
「せぇいっ!」
メイスを振り下ろす。盾の一枚が砕け散った。
だがその直後――
「わっ、床が――!?」
割った盾の隙を補うように、別の氷鏡が滑り込む。 しかもその足元では、すでに再び氷が広がっていた。
「やっぱり、時間が足りないっ……!」
オーキィは氷に足を取られながらも、なんとか体勢を戻して下がる。
再突入はできない。ほんの一瞬の“間”しか得られない――その厳しさを、痛感する。
砕けた盾が、再び姿を見せるのを誰もが待った。だが――その気配は、どこにもなかった。。
「……あれ、再生しない……?」
ノクがぽつりと呟いた。
「まさか、壊しすぎて限界きたとか……?」
オーキィが軽く笑いながら言うが、誰もそれに同調しない。
「じゃあこれで残り五枚?」
ティエナが呟く。だが、その言葉に違和感が混じった。
「……ん? 一枚しか割ってないのに……なんで、三枚しか残ってないの?」
視線の先。クラックフリーズの周囲に浮かぶ氷鏡は、確かに“三枚”。
フィンは、霧の奥を睨んだまま呟く。
「……何かがおかしい。空気が、さっきより冷たい」
フィンがそう呟いた直後、砕けた氷片が霧に溶け――その瞬間、背筋を撫でるような冷気が、ぞくりと這い寄ってきた。
「……っ、攻撃が来ますわ」
イグネアの声が鋭く響く。
その言葉を皮切りに、霧の奥から氷槍が奔った。
氷の刃が一直線に駆け抜け、先ほどよりも鋭く、速い。
イグネアが手を掲げ、すかさず火球を放つ。 火の奔流が氷槍の進路を焼き尽くし、空中で砕けた霜が霧の中に散った。 それでも、冷気の余波だけで空気が数度は下がったように感じられた。
ダンジョン内の空気が――明らかに、変わった。
ピキッ、と氷が軋むような音が床のあちこちから響く。 まるで生き物が息を潜めたかのように、霧が音もなく濃度を増していた。
「……あれ、体温、保ってるはずなのに……寒い……」
ノクが眉をひそめ、腕をさすった。 適温を維持するはずの魔法が、冷たさを遮りきれない。 まるで、外気そのものが魔法の効果を貫いて、体内にまで染み込んできたかのようだった。
それは、この迷宮に蔓延する冷気が――明らかに、段違いの“領域”へと踏み込んだ証だった。
クラックフリーズの周囲に残る氷鏡は、たった三枚。
最初は六枚あった盾。そのうち一枚しか砕いていないはずなのに、残っているのは半分しかない。
フィンの目が細くなる。
(……再生しないんじゃない。あえて、捨てたか)
敵は、明確に“選択”したのだ。守りを削ぎ、そのぶんの冷気を攻撃に振る――それだけの余力を残しているということ。
フィンは、その空気の異常さを肌で感じ取ると、すぐに言葉を絞り出した。
「……クソ。もう目と鼻の先だってのに」
低く唸るように吐き捨て、顔を上げる。
「……悔しいが、ここは退く。引き際を見誤るな。状況が変わった」
誰も反論しなかった。誰もが、これ以上の無理は危険だと察していた。
ティエナも黙って頷く。冷たい視線のまま、敵の気配を見据えたまま、すぐに身体を反転させた。
「オーキィ、ノク、後退準備。イグネア、援護を頼む」
「了解っ!」
オーキィが頷きかけた、その時だった。
ピシュ――ッ!
鋭い風切り音が霧を裂いた。
「……っ、来る!」
ノクの声と同時に、再び氷槍が放たれる。
今度は、真正面。オーキィの立つ場所を、狙いすましたように一直線に――
「えっ――」
オーキィが動こうとした。だがその足元が、凍っていた。
ブーツの裏が、床と凍結している。半歩も動けない。
(――まずいっ!)
フィンが駆けた。躊躇いなど、なかった。
霧を裂く勢いで飛び出し、凍結に気を取られたオーキィの前へ――割り込む。
氷の槍が、その肩を貫いた。
「……がっ」
鮮血が霧に飛び散った。だが、フィンは一歩も引かなかった。
氷が、肩から一気に広がっていく。腕が、胴が、脚が。音もなく、凍結が進行していく。
動きが止まる直前、彼は、静かに口を開いた。
「……仲間が死んだときは、置いていけ。そう――講義したよな」
その言葉には、どこか懐かしい教室の気配があった。
「……撤退しろ……」
最後の声が、霧の中に溶けた。
「――っ、フィンくん!!」
オーキィの悲鳴が響く。
目の前で、自分を庇って凍った少年の姿に、全身が強張る。
凍結の波が去ったあと、そこに立っていたのは、氷の彫像と化したフィンだった。




