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もと女神は冒険者はじめます!  作者: さわやかシムラ
◇◇ 第一章 ◇◇
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第28話 氷の彫像

 霧が蠢いていた。


 肌にざらつくような冷気。息をするたび、喉の奥まで凍てついていく気がする。


(……来る)


 ティエナはすぐに察した。霧の奥、視線の先。はっきりと姿は見えないのに、こちらを睨むような気配だけが、強く鋭く突き刺さってくる。


「っ、イグネア!」


 叫ぶと同時に、氷槍が放たれた。音はなく、ただ一直線に走る殺意。


 ティエナが跳躍。空を裂く冷気の刃が、ほんの刹那前まで彼女がいた場所を貫く。背後で、氷槍が壁に突き刺さり、即座に凍てついた音が響いた。


「援護いたしますわ!」


 イグネアの声。すぐさま火球が放たれ、霧の一角を炎が焼く。


 爆発。冷気と熱気がぶつかり合い、白く閉ざされていた世界に一瞬だけ、風穴が開いた。


(今だ――!)


 ティエナはすでに弓を番えていた。足を止めることなく、滑る床を踏みしめるようにして、姿勢を低く。


 引く。深く、しっかりと。

 背中が軋むほどに弓を引き絞り、狙いを定める。


 敵の姿は見えない。けれど、わかる。そこに“いる”。


「――っ!」


 矢が放たれた。


 霧を切り裂き、音すら置き去りにして一直線に走る。


 そして――氷鏡の盾に命中した。


 ガキィン、と高い破砕音。鋭い金属音が辺りに響き、次いで砕けた氷片が宙に舞う。


「……抜けた、やった……!」


 息を呑むように呟く。矢が届いた。確かに、あの分厚い盾を貫いた。


 けれど。


 破片が霧に溶けるように消えていったそのすぐ後に――霧が、動いた。


 まるで呼吸をするように、霧がその空白に吸い込まれていく。


(……え?)


 目を凝らす。


 霧が集まる。粒子のように。集まり、凝固し、形を成し……

 そこに、同じ“氷鏡の盾”が、また浮かび上がっていた。


「あーもー! また再生したっ!」


 さっきと、まったく同じ位置。まったく同じ形で。

 まるで、何事もなかったかのように。


「ティエナ、霧の流れ……見えたか?」


 背後からフィンの声。ティエナは小さく頷いた。


「うん。壊したのに……なんか、霧が吸い込まれて……」


「……もしかすると、再生には冷気を使ってるかもな。周囲の霧が、少し動いた気がする」


 フィンの目が鋭く細められる。


「もしそうなら……再生してる間、冷気の制御が甘くなるかもな。仮説に過ぎないけど」


 その言葉を聞きながら、ティエナは霧の奥――再生した盾の向こうを見つめた。


 もし、フィンの仮説が正しいのなら。あの瞬間、あの再生の“隙”を突けるのなら――


「……一枚割るだけなら、簡単なんだけどな」


 視線の先。本体のまわりには、六枚の氷鏡が、等間隔にゆっくりと回転しながら浮かんでいた。

 まるで砕かれることすら計算済みであるかのように、どれも同じ距離感を保ち、静かに、しかし不気味なまでの規則性で陣を組んでいる。


(……でも、試すだけ試してみよっか)


 彼女は弓を引き絞る。狙うは、本体――


 放たれた矢は、一枚の盾を貫き、砕いた。――だが次の瞬間、残る盾のひとつが、まるで“次は自分の番”だと言わんばかりに軌道へと滑り込む。霧を裂いて入り込んできたその動きは、まるで敵の意思がそこに宿っているかのように精密で――無慈悲だった。


「やっぱり、防がれるよね……」


 ナイフを手に、接近戦で叩き込めれば話は早い。


 けれど――ティエナは、足元を見やった。


 凍りついた床。冷気に覆われた地面では、踏み込むことさえままならない。


(今は……無理)


 矢を放ったティエナは、再び霧の奥を睨みつける。


 その横顔を見たフィンが、わずかに口元を引き締めた。


 二人の視線が、無言のまま交差する。


 霧が、静かに揺れていた。


 それは冷気のせいか。それとも――


 確かに、何かが動き始めていた。


 敵の氷槍が飛び交う中、オーキィが声を上げた。


「イグネアさま! この床、溶かせないですか? 踏み込めないんです!」


「何度か火球を放ってみましたが……すぐに再凍結してしまいますの」


 イグネアは冷静に返しつつも、眉間にわずかな皺を寄せていた。


「……さっきも盾を壊した時――少し、霧が薄れた気がした」


 ティエナが弓を構えながら呟く。


 フィンがすぐに反応する。


「……やっぱり、盾の再生中は、冷気がそっちに集中するってことか?」


 言いながら、彼は足元の氷に目を落とす。


「イグネア、次に奴が盾を再生したら、もう一度火を頼む」


「ええ。試してみましょう」


 イグネアが頷くと、再び指先に炎を灯した。


 霧の中で、氷鏡がひとつ砕け――再生が始まる。


 イグネアの火球が、床を正確に叩く。


 ジュッ、と音を立てて氷面が解けた。


「オーキィ、今だ!」


「わかったわ!」


 オーキィが駆け出す。溶けた床を蹴り、勢いのまま前方へ跳ぶ。


「せぇいっ!」


 メイスを振り下ろす。盾の一枚が砕け散った。


 だがその直後――


「わっ、床が――!?」


 割った盾の隙を補うように、別の氷鏡が滑り込む。 しかもその足元では、すでに再び氷が広がっていた。


「やっぱり、時間が足りないっ……!」


 オーキィは氷に足を取られながらも、なんとか体勢を戻して下がる。


 再突入はできない。ほんの一瞬の“間”しか得られない――その厳しさを、痛感する。


 砕けた盾が、再び姿を見せるのを誰もが待った。だが――その気配は、どこにもなかった。。


「……あれ、再生しない……?」


 ノクがぽつりと呟いた。


「まさか、壊しすぎて限界きたとか……?」


 オーキィが軽く笑いながら言うが、誰もそれに同調しない。


「じゃあこれで残り五枚?」


 ティエナが呟く。だが、その言葉に違和感が混じった。


「……ん? 一枚しか割ってないのに……なんで、三枚しか残ってないの?」


 視線の先。クラックフリーズの周囲に浮かぶ氷鏡は、確かに“三枚”。


 フィンは、霧の奥を睨んだまま呟く。


「……何かがおかしい。空気が、さっきより冷たい」

フィンがそう呟いた直後、砕けた氷片が霧に溶け――その瞬間、背筋を撫でるような冷気が、ぞくりと這い寄ってきた。


「……っ、攻撃が来ますわ」


 イグネアの声が鋭く響く。


 その言葉を皮切りに、霧の奥から氷槍が奔った。


 氷の刃が一直線に駆け抜け、先ほどよりも鋭く、速い。


 イグネアが手を掲げ、すかさず火球を放つ。 火の奔流が氷槍の進路を焼き尽くし、空中で砕けた霜が霧の中に散った。 それでも、冷気の余波だけで空気が数度は下がったように感じられた。


 ダンジョン内の空気が――明らかに、変わった。


 ピキッ、と氷が軋むような音が床のあちこちから響く。 まるで生き物が息を潜めたかのように、霧が音もなく濃度を増していた。


「……あれ、体温、保ってるはずなのに……寒い……」


 ノクが眉をひそめ、腕をさすった。 適温を維持するはずの魔法が、冷たさを遮りきれない。 まるで、外気そのものが魔法の効果を貫いて、体内にまで染み込んできたかのようだった。


 それは、この迷宮に蔓延する冷気が――明らかに、段違いの“領域”へと踏み込んだ証だった。


 クラックフリーズの周囲に残る氷鏡は、たった三枚。


 最初は六枚あった盾。そのうち一枚しか砕いていないはずなのに、残っているのは半分しかない。


 フィンの目が細くなる。


(……再生しないんじゃない。あえて、捨てたか)


 敵は、明確に“選択”したのだ。守りを削ぎ、そのぶんの冷気を攻撃に振る――それだけの余力を残しているということ。


 フィンは、その空気の異常さを肌で感じ取ると、すぐに言葉を絞り出した。


「……クソ。もう目と鼻の先だってのに」


 低く唸るように吐き捨て、顔を上げる。


「……悔しいが、ここは退く。引き際を見誤るな。状況が変わった」


 誰も反論しなかった。誰もが、これ以上の無理は危険だと察していた。


 ティエナも黙って頷く。冷たい視線のまま、敵の気配を見据えたまま、すぐに身体を反転させた。


「オーキィ、ノク、後退準備。イグネア、援護を頼む」


「了解っ!」


 オーキィが頷きかけた、その時だった。


 ピシュ――ッ!


 鋭い風切り音が霧を裂いた。


「……っ、来る!」


 ノクの声と同時に、再び氷槍が放たれる。


 今度は、真正面。オーキィの立つ場所を、狙いすましたように一直線に――


「えっ――」


 オーキィが動こうとした。だがその足元が、凍っていた。


 ブーツの裏が、床と凍結している。半歩も動けない。


(――まずいっ!)


 フィンが駆けた。躊躇いなど、なかった。


 霧を裂く勢いで飛び出し、凍結に気を取られたオーキィの前へ――割り込む。


 氷の槍が、その肩を貫いた。


「……がっ」


 鮮血が霧に飛び散った。だが、フィンは一歩も引かなかった。


 氷が、肩から一気に広がっていく。腕が、胴が、脚が。音もなく、凍結が進行していく。


 動きが止まる直前、彼は、静かに口を開いた。


「……仲間が死んだときは、置いていけ。そう――講義したよな」


 その言葉には、どこか懐かしい教室の気配があった。


「……撤退しろ……」


 最後の声が、霧の中に溶けた。


 


「――っ、フィンくん!!」


 オーキィの悲鳴が響く。


 目の前で、自分を庇って凍った少年の姿に、全身が強張る。


 凍結の波が去ったあと、そこに立っていたのは、氷の彫像と化したフィンだった。

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