第27話 凍てつく迷宮、突破口を求めて
視界の先、霧の向こうに氷晶の影があった。 いくつもの鏡のような盾がその周囲を巡り、静かに、しかし確実にこちらを見据えている。 簡単には崩せない、と感じさせる存在感にティエナは唇を引き結んだ。
「なんなの、あいつ……」
その呟きに応えるように、すぐ近くから声が返る。
フィンだった。彼の目が、霧の切れ間から敵を見据えている。
「やっとわかった。こいつは……“クラックフリーズ”!」
その声には、驚きと焦り、そしてわずかな震えがにじんでいた。
「魔晶クラスの魔物。……四十層でも普通は出会わん。
エルデンバルの記録にも、断片的にしか載ってない未知種だ」
「魔晶って……魔鉄とか魔銀より、もっと上のランクだよね!? そんなのが、なんでここに……?」
ティエナの胸がざわめく。
「知らねぇよ。……くそっ、マジでどうなってんだ……」
その時、イグネアが静かに問いかける。 「倒し方の糸口などはございますの?」
「……知らん! 情報がなさすぎる……っ!」
そんな叫びが交錯する中、再び放たれた氷の矢は、まるで咲き乱れる氷の花弁のようだった。
鋭い軌道で全方位を薙ぎ払う無数の矢が、霧の中を切り裂いていく。
「っ、く――!」
ティエナは瞬時に身を沈めた。床の冷気に足裏を取られかけながらも、反射的に横へ跳ねる。氷に覆われつつある地面を蹴っての跳躍――氷矢を紙一重でかわしたその身は、まるで風のように滑らかだった。
着地と同時に、足を取られて尻もちをつきかける。だがそこで立ち止まるわけにはいかない。ティエナは即座に体勢を立て直し、背中の矢筒に手を伸ばした。
視界の先には、白いもやに包まれた氷晶の影――クラックフリーズ。かすかに見えるその輪郭には、依然として幾枚もの鏡の盾が浮かんでいた。
またやっかいなのが、この場の気温だ。
クラックフリーズの出現以降、空気そのものが冷えはじめている。周囲の床が凍りつくたび、じわじわと寒さが肌を刺すように増していく。
「……寒……っ」
声が震えた。矢をつがえようとする指が、かすかに強ばっている。冷気が肌に食い込むような感覚に、ティエナは無意識に歯を食いしばった。
もやの上空を滑空する小さな白竜が、か細く鳴く。ティエナの目がそちらに向いた。
ノクが一回転しながらふわりと輝き、小さく声をあげた。
「体温を保護する魔法、かけたよ!」
次の瞬間、ノクの身体から淡い光がふわりと広がる。
その光は、冷え切った肌をやわらかく包み込むようだった。芯から凍えるような寒さが、ほんの少しだけ和らいでいく。
「ノク、助かりますわ!」
「ノクくん、器用だねー!ありがとう!」
「良い判断だ、ノク!」
それぞれの声が、霧の向こうから静かに響いた。ノクは軽く鳴くと、もう一度旋回して仲間たちにその光を行き渡らせる。
ティエナは唇をかみしめ、再び矢をつがえた。指先の感覚が戻ってきた。まだ動ける。
足元の氷に気をつけながら、素早く弓を引き、霧の向こうへ放つ。 音を裂いて飛んだ矢が、鏡面の一枚にかすり、「ガィン!」という金属音を立てた。 (欠けた? ……ちゃんと当たった)
その手応えに、彼女は一歩前へ踏み出す。
諦めるのではなく、抗うために。
直後、霧の奥でクラックフリーズの輪郭が動いた。
次の瞬間、氷の弾丸が数発、唸りを上げて放たれる。
「来ますわ、皆さま気をつけて――!」
氷弾は狙いを定めたものではなく、足元や側面を埋めるように撃ち込まれてくる。
命中させるよりも、前に出る隙を潰すような配置。
それらが地面に着弾するたび、床は凍てつき、足場はさらに滑りやすくなっていった。
ティエナはすかさず転がってかわし、イグネアも霧の切れ間を読んで回避する。
フィンは低く伏せ、氷弾が頭上をかすめるのをやり過ごした。
クラックフリーズは、着実にこちらの動きを制限している。
静かに、だが確実に追い詰めるような戦い方だった。
「盾が……面倒だな」 霧の向こうから、フィンの声が届いた。お互いの位置はなんとか把握できるが、視界も足場も悪く、連携が難しい距離感だった。
イグネアは視線を霧に向けながら、詠唱を始めた。
本体を狙って放った火球が、盾の一枚に吸い寄せられるように割り込まれ、空中で逸らされて霧散する。すぐに、熱で生じた水蒸気が霧と混ざり、視界をさらに濁らせた。
「盾が……自動で本体を守っているようですわね。魔法は通らない……」 小さく息を吐いて、次の構えに移る。
今度は明確に狙いを逸らし、本体ではなく壁際へ向けて火球を撃つ。
炎は鏡盾に干渉されることなくそのまま着弾し、氷の壁をジュウ、と音を立てて溶かしていく。
(全てを防いでいるわけではない。盾が反応するのは、本体を狙ったときだけ――)
イグネアは目を細める。すぐには答えは出ないが、小さな観察結果を心に留めておく。
フィンは霧の濃さに目を細めながら、ティエナに声をかけた。 「ティエナ、さっきの感触どうだった?」 「うん……盾には当たったけど…。でも、本体を狙うには盾が邪魔だね」
ティエナは矢筒から素早く次の矢を引き抜き、構え直す。
霧の中、かすかに動いた何かに向けて――彼女はすぐに放たなかった。
一歩、踏み込む。もう一度角度を変え、気配を探る。
(……さっきの矢、確かにかすって――鏡の表面が、欠けた)
魔法は逸らされていた。だが、自分の矢は“通じた”。それを思い返し、彼女は目の奥に熱を灯す。
(だったら……)
(やっかいなのは、あの鏡の盾……! なら、まずは――)
(あの盾の“芯”を、射抜く!)
決意とともに、ティエナは再び弓を引き絞る。
空気の揺らぎの先――盾の縁ではなく、中心部。わずかに煌めく一点を狙い、息を殺して放つ。
音を裂いて飛んだ矢が、鏡面の中心を貫いた。
「パキィン!」と甲高い音とともに、鏡の一枚が砕け、霧に砕片が舞う。
「……よし、今ので一枚割れたか?」
フィンが身を乗り出し、オーキィが一瞬、手を止めて息を呑む。
だが――。
砕けた鏡の断片が、静かに空中で粒子へと変わる。周囲の冷気を吸い寄せるように、淡い光がその軌道を辿り、空間に同じ形を描いていく。まるで時間が巻き戻るかのように――凍気の力を逆流させるかのように。
「えっ……戻った?」
オーキィが呟いた。すぐに霧の奥に、かすかに再び整った盾の姿が現れる。
「……壊したのに、再生した?」
冷気がさらに濃くなっていく。氷の床が白く染まり、再び地を這うもやが広がっていく。
イグネアは静かに呟いた。
「自動再生……かもしれませんわね。ですが――」
言い切るには、まだ材料が足りない。
何かがおかしい。だが、それが何かは、まだ見えていない。
ティエナは歯を食いしばり、再び弓を構える。
通じた、のは確か。だけど、この敵はそれすら“帳消し”にしてくる。
(……でも、今のは無駄じゃなかった。絶対に)
矢を射る指に、迷いはなかった。




