第26話 霧に潜む、殺意の核
セーフレスト2――通称“アンダー”が目前という安心感が、空気をゆるませていた。
長丁場の五日目。罠や魔物にも慣れ、会話にも余裕が生まれていた。
だが、それは、ほんの数歩先に潜んでいた異常を前に、音もなく崩れ落ちた。
──足元から、白いもやが立ち上る。
それはまるで、何かの封印が解けたかのように。
空気が瞬時に変わった。肺に入る息が凍りつくほど冷たい。肌を刺す感覚では足りない。皮膚の奥、骨の内側から凍てついていくような冷気だった。
「……これ、まさか……」
ティエナが顔をこわばらせ、かすれた声で呟く。彼女の脳裏には、あの酒場で聞いた噂話がよみがえっていた。
『三十階手前で、冷気ヤバい魔物に遭ったってパーティがいてさ』
『ポーションも凍ったらしい』
『でも、同じ魔物に出くわす確率は低いけどな』
確率など、今となっては何の意味もなかった。
──キィ……キィィ……
微かな、しかし不気味な音が響く。氷が軋む音だ。
その音に意識を奪われているうちに、床に走る白い筋が視界を切り裂いた。
「……あれ、床……?」
ノクが呟く。視線の先、暗がりの通路に何かが這ってくる。
冷気が、霧が、まるで意志を持つかのようにゆっくりと流れ込んでくる。蛇のように這い、壁を登り、天井へと染み込んでいく。石壁に薄氷が張り、結晶が鈍く光を返す。
通路全体が、静かに、しかし確実に“凍って”いく。
「……は? おい、なんでだよ……ランダム構造だろ!? なんで出会っちまうんだよ!?」
フィンの叫びは、恐怖を塗りつぶすように響いた。
だが、誰も返さない。ただ、視線が、じり……と彼に向けられていく。
(あー……そういえば……)ティエナもふと考え込む。
(…………これは……見過ごしていましたわねぇ…)イグネアも一つの風景を思い起こす。
全員が同時に、あの光景を思い出していた。 ──五日前。セーフレストの転移装置の前。 フィンが無造作に手をかざし、魔力を流し込んだあの瞬間を。
じわじわと集まる視線。
「……ちょっと待て。なあ。なんで、みんな、俺を見てんだ……?」
誰も答えない。
「おい、やめろ。おいってば……やめろ! 俺が悪いのか!? 転移起動しただけだろ!」
ティエナが困ったように笑い、「うん、でもなんか……ね?」 ノクが真顔でうんうんと頷いている。
イグネアが神妙な顔で「不思議と、納得がいきますわね」
オーキィが、いたずらっぽく肩をすくめながら、「フィンくんは悪くないよ……運が、悪いんだよ」
「言ってる場合かよ!」
──カッ、カッ、カッ。
硬質な爪が、凍った床を叩く音が響いた。
霧の向こう、世界が白銀に染まる中、それは音もなく姿を現す。
氷晶に覆われた獣。
蜘蛛に似た多脚を持ち、ねじれたような脚が、滑る床をゆっくりと歩く。
背中の中央に埋め込まれた魔力核が、蒼く脈動していた。
空気が、さらに冷えた。
皮膚が裂けそうなほどの寒さ。
「構えろ、来るぞ!」
その言葉が響いた瞬間、空間に氷の粒子がざわめいた。
氷晶の獣が低く身を沈めると、宙に浮かぶ氷晶の盾とは別に、前脚の間に冷気が凝縮されていく。
──シュゥゥ……ッ!
空気を震わせて、一条の氷の槍が発射される。
「避けろッ!」
全員が反応し、身をかわす。氷槍は一直線に飛び、石床に突き刺さる──
その瞬間、着弾点を中心に、白い霜が爆発的に広がった。
石が軋み、床一面が瞬時に凍りつく。
「なに、今の……っ!」
ティエナが目を見張る。
広がった氷が床を覆い、彼女たちの足元へと迫ってくる。
フィンの号令とともに、全員が即座に陣形を組む。
ティエナが《水流の刃》を繰り出す。水が弓状にしなり、鋭い刃となって敵へと走る。
だがその刹那、空中に浮かぶ鏡面の盾──凹面に湾曲した氷晶の板が、音もなく割り込んだ。
水流の刃は盾に接触した瞬間、音もなく弾かれ、霧散。
水滴が霧と交わり、冷気をさらに濃くした。
「跳ね返された……!?」
ティエナの目が大きく見開かれる。
魔法が……通らない? それだけで、身体の芯に氷を流し込まれたようだった。
「相手が氷などというのなら──この炎で、応えて差し上げますわ!」
イグネアが手を掲げ、炎の球を生成する。赤熱を放つそれを、一直線に撃ち出した。
──が、それは迎え撃つように口元から氷の塊を吐き出した。
氷弾と火球が空中で衝突。
爆音とともに爆ぜ、灼熱と冷気が混ざり合い、霧が濃くなる。
雪のような粒子が降り、視界をほぼ奪う。
その雪は止むことなく降り続き、霧が視界を削る。全員が、輪郭のぼやけた影に向かって感覚を研ぎ澄ませる──
「……なんなの、これ……見えないっ!」
ティエナが叫ぶ。
その叫びがこだまする中でも、床の凍結はじわじわと広がり続けていた。
「近づいて確かめるしかないか……!」
オーキィがメイスを構え、駆け出す。
「効くかどうか、試してみるよっ!」
踏み込む──が、足が滑った。
床一面が薄く凍りつき、見た目では分からないが、接地感が消える。
オーキィの身体がぐらつき、メイスの一撃は空を切った。
そこへ、鏡氷盾がふわりと旋回して飛来する。
空中に舞い、静かに、しかし正確に彼女の前に割り込むと、盾の縁が鋭く前方へと突き出され、オーキィの胸元に勢いよく叩きつけられる。
「──ぐっ!?」
彼女の背がのけ反り、石床に踵を引きずる音が響く。氷の床を三歩、四歩と滑り、勢いを殺しきれずに膝をつく。だが、すぐに彼女は顔をしかめた。
ついた膝が、キィ、と甲高い音を立てて凍りつき始めたのだ。
「うわっ、ちょっと……これ!」
オーキィは慌てて後方へバックステップし、凍結の波から逃れる。
滑る床、動く盾──この状況で、まともな接近戦などできるはずもない。
「魔法もダメ、物理も届かない……っ」
ティエナの声が震えていた。
フィンの左腕には、簡素な小型のボウガンが固定されていた。近〜中距離に対応した軽装備で、威力は控えめだが、判断と精度次第で隙を突くには十分だった。
フィンが静かにそのボウガンに手をかけた。
「反応を見る……」
小型のボウガンから放たれた矢は、霧の中の輪郭に向けて放たれた。 視界は悪いが、敵の“反応”を見るには十分だった。 だがその前に、再び氷晶の盾が割り込んだ。音もなく、機械のような精密さで矢を受け止める。
「……魔法だけじゃねぇな。物理にも反応してる。あの盾、勝手に動いてるぞ」
吐き捨てるようにそう言って、フィンは矢筒から次の矢を抜いた。
イグネアも表情を引き締め、唇を噛む。
「この冷気……わたくしの炎まで拒むなんて……!」
その中で、フィンが一歩前に出た。
装着した小型のボウガンが、わずかに震えていた。
「……クソ、こいつ……やっかいだぞ」
その瞬間だった。
──パキィィンッ!
甲高い音が響き、霧の中から無数の氷の矢が放たれる。
狙いは一人ではなかった──パーティ全員を一斉に狙った攻撃だった。
「避けろッ!」
フィンの叫びと同時に、彼の小型ボウガンが火を噴く。
一本の氷矢の軌道をわずかに逸らし、それはノクを掠めてすぐそばの石壁へ──
「っ、ありがと……今の、マジでヤバかった……!」
オーキィはノクを掴み、懐に抱えるようにかばうと、メイスを全力で振るって迫る氷矢を迎え撃つ。鋭い衝突音とともに、氷の矢は砕け散った。 「っ、重っ……! 今の、一発でもまともに食らったら……」 オーキィが歯を食いしばる。
ティエナは次々に迫る氷矢を軽やかにステップで回避する。
「ひゃっ、ちょ、ちょっと多くない!?」
イグネアは「させませんわ!」と声を上げると、レイピアを素早く振るい、飛来した氷矢の軌道を斬り払うように逸らした。
それた氷矢は、石壁や床に突き刺さる。…が、
──ズズ……ッ!
突き刺さった氷矢からは、まるで生き物のように霜が這い、石を裂きながら壁面全体を飲み込んでいく。
その凍結音は、骨の奥まで響くようだった。
「今の、当たってたら……」
ティエナが青ざめた顔で呟く。
ティエナは目を伏せ、震える声で言った。
「……これ、冗談じゃないよ。本気で、殺しにきてる……」
フィンの顔にも緊張が走る。
「……ああ。守るだけのやつじゃねぇ。こいつ、間違いなく殺意を持ってる」
あの氷の魔物の輪郭が、再び白銀の中に溶けていく。 だが、確かに聞こえた──氷を裂くような、次の一手の音。 まだ、戦いは始まったばかりだった。




