第25話 踏みしめた、その先へ
セーフレスト。15階層と16階層の狭間に設けられた、その静かな広場にて、フィンは装備の最終点検を終えると、仲間たちをゆっくりと見渡した。
ティエナは弓の弦を確かめ、オーキィはストレッチをしながら呼吸を整えている。イグネアは腰のベルトを直しながら、丁寧に装備の位置を調整していた。ノクはふわふわと肩の上に乗りながら、小さく尻尾を揺らしている。
「じゃあ、先へ進むぞ」
フィンが背負い袋を持ち直し、静かに口を開いた。
「……イグネア、ティエナ。お前たちが強いことは、もう十分に理解してる。けど、ここから先は“未知の領域”だ。敵の動きも、構造の癖も、通用しないことが増えてくる。油断だけは、するな」
その言葉に、ティエナはぐっと拳を握って頷いた。
「うん、気を引き締めていく!」
「頼りにしてちょうだいね」
オーキィがやわらかく微笑みながら言う。母性すら感じさせるその言葉には、どこか安心感があった。
「承知しておりますわ。……いざとなれば、わたくしの炎で道を拓きます」
イグネアは穏やかに笑みを浮かべながら、腰のレイピアにそっと指を添えた。
ノクがふよふよと浮かび、転移装置の中央へ飛び込んだ。
「さぁ、行こう行こう!」
フィンは転移装置の側面にそっと手をかざす。掌から魔力が流れ込むと、床に刻まれた文様が淡く光を帯び始めた。
光が広がり、音もなく五人の身体を包み込む。
そして――。
足元の感触が変わり、視界がぼやけたのち、徐々に暗い岩壁と湿った空気に満ちた空間へと変わっていく。
16階層。
通路は狭く、天井は低く、所々に段差やくぼみが見える。
それでも空気は澄んでいて、どこか静謐な緊張感が満ちていた。
「……何度来てても、毎回違う顔を見せてくるな」
フィンがぼそりと呟き、警戒するようにあたりを見回す。
どれほど潜っても、未知は尽きない――それが、このダンジョンだ。
「さて。ここからが、本当の冒険だ」
その声を合図に、誰もが自然と歩を進める。
*
わずかな起伏が続く通路を抜けた先で――段差を越えた瞬間だった。
「あたっ……!」
ティエナが足を滑らせ、小石に膝をぶつけた。すぐに立ち上がったものの、足元にうっすらと血がにじんでいるのが見えた。
「大丈夫?」
オーキィが駆け寄り、心配そうにのぞき込む。
「平気平気、ちょっと擦っただけ。でも……地味にしみる~」
ティエナが苦笑いを浮かべると、オーキィがふと笑みを見せた。
「……ねえ、ティエナ。回復魔法、練習してみる?」
「え、あたしが?」
「うん、ちょうどいい機会だし。軽傷なら、成功しても失敗しても問題ないでしょ?」
ティエナは驚いた表情を見せつつも、興味が勝ったようでこくりと頷いた。
「でも……どうやって“癒す”ってイメージすればいいの?」
その問いに、オーキィは優しく目を細め、ほんの少しだけ声のトーンを落とした。
「そうね……傷口を“水で包む”っていう感覚でイメージしてみて。水の膜みたいなものが、傷をやさしくなでて、汚れや痛みを洗い流していくの。そうして浄化して、じわじわと細胞を癒していくのよ。……水は、そういう“寄り添う”魔法だから。ティエナにはきっと合ってる」
「……なるほど、やってみる!」
ティエナは膝を見つめながら、そっと手をかざした。
「……水よ。流れ、包み、清めて……癒しとなれ」
その声に応じるように、手元から淡い水色の光が滲み出し、小さな水膜がふわりと傷口を包んだ。
まるで、泉の水がそっと肌をなでるような……そんな優しい魔法だった。
「うそ……めっちゃ綺麗……」
オーキィが目を丸くして、ぽつりと呟いた。
そのあまりの完成度に、思わず苦笑しながら付け加える。
「……ヒーラーの座は渡さないからね!?」
「えっ!? そんな争いするつもりないけど!」
ティエナがあたふたと手を引っ込めると、オーキィがくすくすと笑った。
「でも、ちゃんと治ってるよ。すごいじゃない、ティエナ」
「ほんと……できたんだ……!」
ティエナが自分の膝を見つめ、目を輝かせる。
「水属性って、やっぱり回復と相性いいんだな」
フィンが感心したように言うと、ティエナが首をかしげながら尋ねた。
「そういえばさ、火属性の人って、やっぱり回復しにくいの?」
「ええ……火は“焼く”というイメージが強すぎて、癒しとは相性が悪いのですわ」
イグネアが少し苦笑するように言った。
「前にね、“焼き切って治す”って言いながら、自分に大やけど負ってた人、いたのよ」
オーキィが肩をすくめて、冗談まじりに笑う。
「それだけ難しいということですわ。……でもカイネス兄様は回復魔法もお使いになりますの」
ノクが「おぉ……」とでも言いたげに、ふよふよと宙を一回転した。
そして、興味をひかれたように、イグネアの肩で首をかしげながら口を開く。
「ねぇねぇ。火で回復って、どうやるの?」
イグネアはふっと目を伏せた。
「さぁ……カイネス兄様は、色々と器用でいらっしゃるので……」
それだけ言って、静かに微笑んだ。
「すごっ……やっぱり出来る人なんだね」
ティエナが素直に感嘆すると、フィンも肩をすくめる。
「なんか、余裕ある強者感ある人だったもんなぁ。しゃべってても隙がなかった」
イグネアはほんのりと頬を染め、恥じらうように笑った。
「ふふ……妹としては、少し誇らしいですわ」
*
ダンジョンに入って五日目の朝を迎えた。
崩れかけた石柱の影に腰を下ろしながら、フィンが周囲を見回す。
「……もう五日目か。順調すぎて、逆に怖いな」
「でも、この先にセーフレスト2――通称“アンダー”があるんだよね?」
ティエナがパンをかじりながら、楽しげに言う。
「そう。だからこそ、油断は禁物だ。特にこの辺りは、強化された魔物が出ることもあるからな」
フィンが言葉を引き締めると、オーキィが頷いた。
「わかってるわ。とはいえ、ここまでは上出来よね。夜もちゃんと寝れてるし、食料もまだまだあるし」
「……まさか、あれほど快適だとは……お布団の魔力、侮れませんわね」
イグネアが小さくため息をつきながら、胸元に手を当てた。
そんな談笑のあと、彼らは再び進み始める。慎重に、けれども着実に階層を下へと踏みしめていった。
そして、昼を過ぎた頃。
「お、宝箱だ。よし、確認する」
フィンが目を細めて前に出る。埃をかぶった木箱が、崩れた瓦礫の中にひっそりと眠っていた。
お馴染みの手順で罠の確認を進めるフィン。だが──。
「……っと」
カチ、と乾いた音がした瞬間、フィンの足元から針のような小さな杭が飛び出した。
「うわっ、しまった……!」
咄嗟に避けたが、脛に擦過傷が走った。
「フィン!? 大丈夫!?」
ティエナが駆け寄る。
「かすっただけだ。……くそ、順調すぎて油断したな」
「珍しいー。フィンが罠で失敗するなんて」
「俺だって人間なんだよ……」
苦笑するフィンの足元に、オーキィがすぐさましゃがみ込む。
「はいはい、どいてどいて~。こういう時の出番です! ヒールチャンスです!」
彼女はすでに嬉しそうな顔をしていた。
「……オーキィ、いつも思うけどさ」
ティエナが、何気ない口調で言った。
「いつも回復するとき、めっちゃ楽しそうだよねー」
「え? え、ううん? そうでもないけど?」
オーキィが汗をかきながら曖昧に笑う。そこに、フィンが見下ろすようにぼそりと呟いた。
「……こいつ、ヒールで快感おぼえるヒールジャンキーだからな」
「ちょっ、フィンくん!?」
オーキィが顔を真っ赤にして手をぶんぶん振る。
「でもなんか納得ー。確かに、いつも嬉しそうだもんね」
ティエナが無邪気に笑いながら、ぽんとオーキィの肩を叩いた。
「え、違うのよ? ちょっと使命感というか、こう……好きっていうか……ああもう!」
やりとりを聞きながらイグネアはオーキィと出会った炭鉱の事故を思い出す──
あの時の、“目の前で誰かが傷ついていたら、放っておけなくて”って……そ、そういう意味……!?
イグネアの頬がひくりと震えた。
「……やはり、そういう趣向だったのですわね」
イグネアが目を伏せ、わずかに後ずさると、ティエナの背後にすっと隠れるように移動した。
「イグネアさま、そんな離れないで~! ちゃんとヒールしてますから~! ちょっとゾクゾクするだけですっ!」
オーキィが半泣きで叫ぶ。
その様子に、イグネアはさらに身を縮め、ティエナの背中にぴたりと身を寄せるようにして隠れた。
「わたくし、オーキィのことを勘違いしていたようですわ」
「やめてやめてください!心のダメージはヒールできないんですよぉぉ」
ひとしきり叫んだあと、オーキィはふるふると肩を震わせながらも、そっとフィンの足元に手を伸ばし、静かに回復を終えた。その横顔には、羞恥と混乱、そしてどこか吹っ切れたような覚悟が浮かんでいた。
「でも、もうこれで包み隠さず全力でヒールしてもいいってことよね?」
オーキィは勢いよく立ち上がると、両手をにぎにぎしながらティエナへと詰め寄った。
「怪我したら……気持ちよく治療させてもらうからね~? 覚悟してねティエナちゃん」
「ええ? えええええーーーー?」
そんな彼女たちの様子に、皆がつられるように小さく笑い声を漏らす。 長丁場の探索の中で、ほんのひととき、心の緩む場面だった。
──だが。
ふと、ティエナが足を止めた。
「……ん? なんか、冷たくない?」
言われてみれば、肌に感じる空気の温度が下がった気がする。
イグネアが眉をひそめ、ティエナの背後にすっと移動し、床に視線を落とす。
「これは……」
地面を這うように、白いもやがゆっくりと流れていた。
まるでドライアイスの煙のように、静かに、静かに。
「気のせいじゃ……ないよな」
フィンの声が、先ほどまでとは打って変わって低い。
もやは、通路の奥からじわりじわりと這い寄ってくる。
「……構えとけ。これは、ただの冷気じゃない」
その一言で、笑っていた空気が一瞬で引き締まる。 ふざけあっていたはずの通路が、急に無音の世界へと変わっていく。──冷気は、静かに、確実に迫っていた。




