第23話 ダンジョンの底で、命を拾った
明るく声を張ったその翌朝。ティエナたちは、転移装置を使って再びダンジョンへと足を踏み入れた。
目の前に広がるのは、初めて見るはずなのに、どこか見覚えのあるような――そんな岩の壁とうす暗い苔の光。
ダンジョンという異質な空間に、ティエナの感覚が少しずつ慣れてきたのかもしれない。
足元に張りつく冷たい湿気が、膝下からじわじわと体温を奪っていく。
息を吐けば、ほんのわずかに白くなった。
――緊張してないわけじゃない。でも、怖くはない。
ティエナはそっと掌を前に差し出した。権能の気配が、水の揺らめきとなって指先にまとわりつく。
小さく息を吸って、一歩、前へ。
彼女の足元を中心に、透き通った水の膜が静かに展開される。
《清涼の環》。空気中に漂う瘴気を浄化し、一定範囲を澄んだ空間へと変える水属性の結界――権能による働きだ。
「おぉ、すご……」 ノクが素直に感嘆の声を漏らした。 「……息苦しさがマシになるね。……やっぱティエナは頼りになるなー」
背後からフィンの足音。
「気を抜くなよ。順調なときほど、足元すくわれるぞ」
ティエナは小さく頷きながらも、内心にはほんの少しの誇らしさが灯っていた。
進路は暗く淀んでいたが、どこか明るく感じられた。
けれどそれは、《清涼の環》によって空気が澄んでいるだけで、本来のこの階層はもっと重苦しく、じめっとしていたに違いない。
もう、“ただの初心者”ではない。
この仲間となら、ちゃんと進める――そんな確信が、胸の奥でしっかり根を張っていた。
そして十三階層までは、特にこれといったトラブルもなく、順調に進めていた。
だが、その静けさを破るように、小さな音が岩陰から響いた。
ガラ……カタッ。
反射的に全員が足を止める。
このダンジョンは構造が毎回変わる“ランダム構造”で、他のパーティと遭遇すること自体が非常に稀だ。
そのため、思いがけない気配に、全員が一瞬だけ驚きを浮かべた。
ティエナが弓に手をかけ、ノクが光球を浮かべる。
イグネアが後衛に目を配り、オーキィはメイスを構えた。
気配は――敵ではなかった。
「……だれか、いませんか」
かすれた声が届く。岩陰の隙間に、小さな人影がふたつ。
年の近い兄妹だ。兄は妹を庇うようにして座り込み、こちらに気づいて怯えたように目を見開いていた。
ティエナが弓を下ろし、そっと声をかける。
「大丈夫、もう安心して。……怪我してるの?」
兄が小さく頷き、妹の足首を見せる。ねんざか、強く捻ったのか、腫れて赤くなっていた。
その足元には、割れたポーション瓶の破片。
「手が滑っちゃったのかな? でももう大丈夫だよ」
オーキィが苦笑しつつしゃがみ込むと、妹に向かってにっこり笑いかけた。
「すぐに癒すからね。もうちょっとだけ我慢してね~」
掌に宿る柔らかな光が、ゆっくりと足元を包み込む。
光が染みるようにして皮膚の熱を吸い、赤みがすうっと引いていく。
「わ、あったかい……」
妹が目を丸くしながら呟いた。
兄もまた、ほっとしたように頭を下げる。「ありがとうございます……。まさか助けが来るなんて思っていませんでした。仲間とはぐれて、気づいたら妹とふたりきりで……」
ノクがフィンの地図をのぞき込みながら呟く
「道具も少ないし、回復手段もなかったんだ。あの様子だと……他のメンバーは途中で離脱したか、もっと深くで動けなくなってるかも」
イグネアが静かに言う。
「このまま進むのは危険ですわね。……仲間の方々がまだ動けずに残っている可能性があるなら、探すべきです」
フィンが眉をひそめ、ちらりと周囲を見回す。
「……時間は取られるが、ほっとくわけにもいかんな」
ティエナが、癒された妹の手を軽く握ってにっこり笑いかけた。
「うん、一緒に探そう。ここまで来れたんだもん、大丈夫だよ」
兄の案内と妹の記憶を頼りに、彼らが来たという道を逆にたどる。
フフィンを先頭に、ティエナが《清涼の環》で空気を澄ませながら進み、ノクとイグネアが後衛を警戒。
途中で軽度の罠をいくつか見つけたが、フィンがすぐに解除し、戦闘になるような敵とも出会わなかった。
そして数十分後、細い通路の先で、崩れたように座り込んでいる三人の姿を見つける。
「リュー!」と兄が声を上げた。
その呼びかけに、ぐったりとしていた青年がかすかに目を開けた。どうやら他のふたりも軽傷ながら意識はあるようだ。
「無事だったか……よかった」
回復と支援の魔法を施し、三人の状態を安定させたあと、一行は兄妹とその仲間たちを連れてセーフレストへ向かった。
その道のりもまた、危なげはなかった。
セーフレストが目前に迫ったころ、フィンがふと兄の装備に目をやってぼそりと呟いた。
「……よくその装備で十三層まで来たな。下手すりゃ途中でやられててもおかしくない」
兄はばつが悪そうにうつむき、小さく答える。
「……街の外れで買った、安い中古の品ばかりで……」
イグネアが、それまで黙っていた口を静かに開いた。
「事情はあるのでしょうけれど。……命を賭けてまで、ここで糧を得なければならなかったのですか?」
兄はしばし迷っていたが、ぽつりぽつりと口を開いた。
「……それでも、稼がないと。僕たち、帰る場所がなくなってしまうから……」
その声はか細く、それでもしっかりとした意志を感じさせた。
彼と妹は、もともと戦闘要員ではなかった。
荷物を運び、魔核を拾う――いわゆる“拾い専”として、パーティに加わっていたのだ。
戦闘はリューという青年と、他の二人が担当していたという。
自分たちはその後ろをついていくだけ。それでも役に立てると思っていた。
「……でも、十三層で魔物に襲われて……戦いの途中で混乱して……。気づいたら、妹とふたりきりで逃げていて……」
そこまで語って、兄は唇を噛みしめた。
その顔に、悔しさも、自責も、恐怖も混ざっていた。
イグネアがそっと視線を落とし、静かに口を開く。
「……命を軽んじる気持ちはなかったのですね」
兄は、小さく首を横に振った。
その答えに、誰も言葉を返さなかった。だがその沈黙が、軽くはない何かを確かに受け止めていた。
やがて一行は、転移装置のある広間へと辿り着いた。
起動の儀式を終えると、光が床から立ち上り、ティエナたちを包み込む。
瞬間、視界が反転するような浮遊感。
そして次の瞬間、足元がしっかりとした石畳に変わり、目の前にセーフレストの街並みが現れた。
兄妹とその仲間たちは、到着後にギルドへ無事を報告し、そこで別れを告げた。
兄は何度も何度も頭を下げ、妹は小さな声で「ありがとう」と言って手を振った。
それを見届けてから、ティエナたちは酒場へ向かうことにした。
歩き出しながら、ティエナはふと足を止め、そっと掌を見つめた。
あの兄妹と、その仲間たち――命をかけて、ただ魔核を拾うためだけにこの場所を歩いていた人たち。
(……冒険って、楽しいだけのものじゃないんだ)
ぽつりと、胸の奥にそんな言葉が浮かんだ。
これまで“楽しい”と思っていた感情に、違う色が混ざり始めている。
フィンに叱られたときも、頭ではわかっていた。
でも今は、それがもっと深く、自分の胸に染みてくる。
(……私の力で、守れる命があるなら)
(それを“楽しい”なんて言葉で曇らせたくない)
あの兄も、きっと誰かのために動こうとしていた。
なら、わたしの力も――きっと、誰かを支えるためにある。
水と命の神であったという自分。
その意味を、ようやく一歩、見つめ始めた気がした。
彼らがまた歩き出せるように。 小さくとも、その命が前を向けるように。
ティエナは小さく息を吐いて、仲間たちの背を追いかけて歩き出した。




