第21話 祈りの答え -その後、わたしたちは笑った-
夜明け前の静寂が、すっかり明けた朝だった。
ティエナはゆっくりとまぶたを開けた。 昨夜の涙の余韻はまだ残っているはずなのに、目の奥が不思議と軽かった。 泣いた分だけ、胸のもやがすこし晴れた気がしている。
ふと視線を向けると、ノクが枕元で小さく丸くなっていた。 その背中をそっと撫でながら、ティエナは少しだけ笑みをこぼす。
「……そろそろ、行こうか」
宿の一室。 イグネアの部屋では、淡い香の香りが空気に溶けていた。
ティエナが軽く頭を下げて部屋に入ると、イグネアはすでに準備を整え、椅子に腰掛けていた。 「おはよう、イグネア。……昨日は、ありがとう」
「ええ。少しは落ち着かれましたか?」
「……うん。たくさん泣いたら、ちょっとスッキリした」
ティエナがソファに腰を下ろすと、ノクも隣にぴょこんと飛び乗り、静かに座った。 ティエナは両手を膝の上で組んだ。 その指先はほんの少しだけ震えていたが、顔つきは昨夜とは違っていた。
「今日は、その……どうしたらいいか、相談させてほしくて」
イグネアは、頷きながら一口ハーブティーを飲んだ。
「わたくしの個人的な意見としては――すべてを話す必要は、ありませんわ」
ティエナが顔を上げると、イグネアは静かに微笑んでいた。
「“リヴァードの特訓によって、無詠唱で水魔法を扱えるようになった”――それだけでは、いけませんこと?」
ティエナは少しだけ目を伏せて、唇をかむ。
「……でも、それって、嘘になる」
と吐息を漏らす。
「実際のところティエナが教わったのは狩人の技術だけだもんねぇ」とノクも肩をすくめ、ちょこんと尻尾を揺らした。
「どうして使えるのか、自分でもよくわからないけど……水が、思うように動いてくれるの」
「神様だった頃の何かが残ってるのかな、って思うこともある。でも、それも確かめようがないし……」
「うーん……」
と唸りながら、ティエナは無意識に隣のノクに体を預けるようにもたれかかった。 ノクが軽く身じろぎして、「重いよ」と小さく抗議しながらも、まんざらでもなさそうに尻尾を揺らす。
イグネアは反論せず、ただ待ってくれていた。
「神様ってことは……言えない。でも、それでも――」 「“何ができるか”だけでも、ちゃんと伝えたいなって思ってる」
ノクはまぶたを伏せ、静かに頷いた。
「それで、わかってもらえなかったら……しょうがないかなぁ、って」
言葉とは裏腹に、ティエナの顔には、ひとつの決意が宿っていた。
イグネアはその瞳を見て、そっと言葉を添える。
「……では、応援しておりますわ。あなたのその“意志”が、何よりも尊いものですから」
*
数刻後。ティエナは身支度を終え、いつもより少しきりっとした表情で階段を下りていた。
ノクがぱたぱたと小走りで後ろをついてくる。
「いってきます、って言うべきかな?」
「そうだね、それが覚悟の表れってものだよ」
ノクの一言に、ティエナはくすっと笑って、イグネアの部屋の前で立ち止まる。
軽くノックをすると、中から「どうぞ」と上品な声が返ってきた。
部屋を開けると、イグネアは読書中の手を止め、そっと顔を上げた。ノクもティエナと一緒に部屋に入り、ティエナの足元にぴたりとついて座る。
「二人は……応接室、来ないの?」
ティエナがそう尋ねると、イグネアは静かに笑った。
「必要ありませんわ。あなたはもう、十分お一人でやれる」
ノクはその場で尻尾を振りながら、「終わったら合流しよ!」と元気よく声をかけた。
ティエナは少し驚きながらも、しっかりと頷いた。
「……うん、行ってきます」
*
一方その頃、フィンとオーキィも応接室へ向かっていた。
「……思ったより早い呼び出しだったな」
フィンは軽く息をつきながら呟く。
「でもまあ、満足できる回答がなかったら、パーティ結成はしないけど――」
ダンジョン内で楽しそうにしていたオーキィの様子を思い返す。少し沈黙のあと、ぽつりと続けた。
「……そうしたら、お前は、あっちと組んできてもいいぜ」
オーキィは小さく目を瞬かせて、それからふふっと笑う。
「随分、思いやりあるじゃない。フィンくんにしては」
「別に、そういうんじゃねぇよ」
「でも、ありがと。……その気持ち、受け取っておくわ」
オーキィはそう言って、少しだけフィンの肩に寄せるように歩幅を合わせた。
「でもね――やっぱり私がいないと、フィンくん、運が悪いから擦り傷だらけになっちゃうもの」
「……そんなにか?」
*
応接室の前に着くと、フィンはドアの前で足を止めた。
「……先に来てたのか。やる気じゃん」
扉の向こうには、いつもより少しだけ背筋を伸ばしたティエナの姿があった。彼女は部屋の中央に静かに立ち、どこか“覚悟”のようなものが滲んでいる。
フィンとオーキィがドアを開けて中に入ると、その視線の先でティエナが微かにうなずいた。
ティエナの姿を見るなり、オーキィが軽く目を細める。
「ごきげんよう。ずいぶん気合い入ってるわね?」
「……今日はちゃんと、伝えにきたの」
ティエナは静かに深呼吸をして、部屋の中央まで歩みを進めた。
「今まで隠してたこと、ごめん。ちゃんと話すって、決めたから」
フィンはソファに背を預けたまま、あえて無言でティエナを見ている。
ティエナは小さな瓶を取り出した。中には透明な水が入っている。
「じゃあ、まず――これ、見て」
手をかざすと、水が瓶の中からふわりと浮かび上がる。細い糸のように揺れながら、宙を舞い、ティエナの指先で小さく弾ける。
「これが、《清流の手》」
フィンの眉がぴくりと動いた。
オーキィがぽつりと呟く。
「……無詠唱、なのね」
ティエナはこくんと頷いた。
「魔法というより、もっと身体から湧き出る……そんな特殊な“力”」
そう言って、ティエナはもうひとつ、指先に水を集める。
「次は……《水流の刃》」
水が渦を巻くように回転し、細い螺旋となって前方に放たれ、空中で散った。
「さっきの《清流の手》の応用なんだけど、強く当てれば敵の外殻も削れる」
フィンは腕を組みながらも、真剣な目で見つめていた。
ティエナは続けて、手のひらを軽く回転させるように空をなぞる。
その瞬間、部屋の空気がすうっと澄んだように感じられた。
「《清涼の環》。……周囲の空間を浄化する力」
オーキィが目を細め、ふっと頬をなでるように手をあてた。
「……たしかに、これは心地いいわね」
ティエナは最後に、小瓶から再び水を取り出し、いくつかの“泡”をつくり出す。
それがひとつ、またひとつと弾けると、そこから収納された旅道具や布が現れる。
「《水葬の泡》。これは、収納用の力」
驚いたようにフィンが身を乗り出した。
「おい、それ、収納袋の代わりになるのか?」
「……うん。量に限りはあるけど、意識で出し入れできるよ」
ティエナはそっとフィンの手元を見た。
「あと、もうひとつだけ。これ……」
そう言って、フィンの手に巻かれた細い紐に手をかざす。
ティエナの指先から、淡く光る水の粒がにじみ、その紐を包み込むように広がった。
「……これは、《泡涙のさざ波》。物に込められた想いを読む力」
数秒の沈黙ののち、ティエナはそっと言った。
「これは……すごくあったかい気持ち。誰かに応援されてるみたいな……贈り物、だと思う」
フィンが少し頬を染めながら言う。
「孤児院の子たちにもらったんだ」
オーキィが茶目っ気を込めて笑う。
「フィンくん、収入のほとんどを寄付してるのよ。ほんっとお人好し」
「余計なこと言うな!」
ティエナがくすっと笑った。
空気が、少しだけやわらかくなる。
「でも……ひとつだけ、言っておくね」
ふっと真剣な目でフィンを見る。
「なんでこの力が使えるのか……それは、今は話せない」 「でも、できることは全部見せた。だから――ここまでが、今のわたしの“正直”」
しばらく沈黙が落ちたあと――
フィンはわずかに目線をそらし、懐から紙とペンを取り出した。
なにやら考え込むようにカリカリとペンを走らせながら、ぽつりと言葉をこぼす。
「……わけあって水の力がある。魔法じゃない。使ってると身バレするかもしれねぇ――ってことで、あってるか?」
ティエナは目を丸くして、そしてすぐに頷いた。
「うん。そういうこと」
フィンはしばし沈黙のまま紙を睨み、やがてペンを止め、静かに顔を上げる。
「……まあ、わかった。今見せてくれたのが全部なんだろ? なら、それで充分だ」
ティエナが小さく息を飲んだ。
「それと――」
フィンはまっすぐティエナを見据えたあと、不意に振り返り、そばにいたオーキィに真面目な話を茶化すように声をかける。
「おいオーキィ、俺たちは鈍感だし、例え今後ティエナが何者かもし気付いたとしても、それを誰かに言うことなんて絶対にないよな!?」
オーキィはにこりと笑って言った。 「もちろんよ。私はティエナちゃんのこと、妹みたいに可愛がりたいもの。……隠したいことがあるなら、わたしはそれを無理に聞いたりしないし、誰かに話すつもりもないわ」
「ってことで、俺たちはどうやらカンが悪いらしい。だから、お前の力は俺たちの前じゃ気にせず使ってくれ」
そこで一息切って、思案をめぐらせる。
(とはいえ、外部の目はちゃんと気にしとかないとな……)
「いろいろ問い詰めて、悪かった」
静かな声だったが、そこには確かな真剣さがあった。
「力を隠されたままだと作戦も立てられねえし、ダンジョンは……全力出さずにのりきれるほど甘くもねぇ。ピンチになってからじゃ遅いんだ。……言い訳みたいだけど、本当に、申し訳なかった」
「……でもこれで、“パーティとして”さらにできることが増えたな」
フィンはそう言って、気を抜くように背中を預けた。
「……ってことは!?」
ティエナの声がぱっと明るくなる。
「……これからもよろしくな」
そう言ったフィンを見て、オーキィがにこにこと笑みを浮かべながらティエナのほうへ歩み寄った。
「ティエナちゃんっ」
ぱっと差し出された手のひらに、ティエナが思わずぴょんと跳ねてハイタッチ。
「いえーいっ!」
ぴしゃりと弾けた音が、部屋に広がる。
「できること増えたついでで、悪いんだけどさぁ」
フィンが少しだけ照れたように言う。
「俺たちの荷物も少し、その力で預かってもらったり……できるかな?」
「うん、いいよ!」
ティエナは迷いなく頷いた。
オーキィが、どこか名残惜しそうにティエナの髪をそっと撫でる。
「ふふ、よく頑張ったわね」
「うん。ちょっとだけ、怖かったけど……」
「もう平気でしょ?」
ティエナは胸を張って、こくんと頷いた。
そのとき、ノックの音がひとつ。
「失礼しまーす。約束どおり、合流に参りました!」
ノクが鼻歌まじりに顔をのぞかせた。後ろにはイグネアも続いている。
「ふむ。どうやらうまくいったようですわね」
「うん、ちゃんと伝えた。……ちゃんと、ね」
イグネアはティエナの肩に手を置くと、やさしく微笑んだ。
「ええ。もう充分伝わっておりますわ」
そのとき、フィンがごほんとひとつ咳払い。
「よし、じゃあティエナはこのあと勉強な!」
「……は?」
フィンは軽く笑みを浮かべながら、少し体を乗り出した。
「無詠唱で魔法使ってるように見えるから驚かれるんだろ? じゃあ話は簡単じゃねぇか。……ちゃんと詠唱すりゃあいいんだよ」
「幸いここには、水魔法の得意なヒーラーさんもいるしな?」
ティエナはそれを聞いて、少し顔をしかめた。
「初等水魔法講座? 受けてくだろ?」
「圧がっ…! 圧がすごい……!」
こうして、ティエナは六時間にも及ぶ“初等水魔法講座”を受けることになった。
そのあいだ、イグネアはノクと優雅に昼食をとっていた。




