第16話 冒険前夜、荷物は各々
講義が終わった。
室内に残ったのは、六時間ぶっ通しで詰め込まれた“命に関わる知識”の余熱と、全身に疲労をまとった冒険者たちの、ぐったりとした沈黙だった。
そんな中で、椅子の背にもたれ肘をかけながら、フィンがふっと笑う。
「……というわけで、これがダンジョン三原則だ。心に刻んだな? ──よし、それじゃあ復唱!」
間髪入れず、ティエナが背筋を伸ばす。
「えっと……! 一、明かりを絶やすな! 二、引き際を誤るな! 三、事前準備を怠るなっ……!」
言い終えたそのまま、ぐらりと身体を前に傾け、机に突っ伏す。
「ありがとうございました~、フィンせんせぇ~……」
フィンは片眉を上げてため息を吐く。
「やめろ、フィンでいい。このパーティに序列はねぇ! な? それでいいんだろ、お嬢様?」
「すみません、イグネアさま。フィンくんには、あとでちゃんと──言い聞かせておきますので」
椅子を挟んで座っていたオーキィが、ぽすぽすぽすぽすと軽快にフィンの肩を連打する。
「い、いたたたたっ! ちょ、やめろオーキィ! 折れるって、肩、ほんとに折れるって!」
「ふふっ、ヒールチャンスだねぇ?」
楽しげな声に、イグネアがわずかに目を細める。
「わざわざ試さなくて結構ですのよ? それで構いませんわ」
「……そうかよ」
肩をすくめて、フィンはにやりと笑う。
「ま、オレの持ってるダンジョン知識は全部出した。苦労したんだぜ?」
そして、ちらりとティエナたちの顔を一瞥したあと、紹介状を確認しながら、ぽつりと続けた。
「でもここからは、オレを楽にしてくれるって聞いてるからな。──紹介状には、そう書いてあったぜ?」
その言葉に、イグネアが小さく笑う。
「ふふ。楽しみにおいでなさいな」
軽やかな笑いと共に、冒険前夜の静かな緩急がそこにあった。
「じゃあ、いまからさっそく──“事前準備”、だね」
ふわりと浮いたノクが、当たり前のように告げた。
「……へぇ。わかってんじゃねぇか、小っこいの」
フィンが笑いながら肩をすくめ、そして皆も立ち上がる。
*
そして、翌日——約束の時間。ギルド前――。
その場に、ひときわ目立つ三つの姿が並んでいた。
身の丈はあろうかというザックを、オーキィは軽々と背負っていた。
ザックの色は修道服と調和する深い藍色で、上部にはきっちりと寝具が括りつけられている。片手には、長尺の鉄製メイス。その装飾の一部は神聖文字で縁取られ、彼女の清楚な外見と相まって、どこか神域の使徒のような気配すらあった。
その隣、フィンは身を預けるように片肩でリュックを背負っていた。
物資を極限までコンパクトに詰め、不要な重みを徹底して排したその荷物は、明らかに実戦経験と計算の産物だった。肩ベルトは一本のみ。戦闘時にすぐ外して捨てられるように、独自に調整された仕様だ。
そして、ふたりの目の前――。
スラリと立つ姿勢は、貴族のたしなみ。
艶やかな赤きドレスアーマーは、戦場でも気品を失わぬための“貴族の美”。
腰には金の刺繍が施された白革のポーチが一つ、品よく揺れていた。
イグネア・フレアローズである。
「……なんでお前はそんな軽装なんだよ……!」
フィンのぼやきに、イグネアは涼しげな笑みで即答した。
「収納袋ですわ」
その瞬間、フィンの顔がぐにゃりと崩れる。
「っ……くそ……ズルい……!」
今にも泣き出しそうな顔で唇をかみしめる彼を見て、オーキィがこっそりと目を伏せた。
「……お気の毒に」
と、そのとき。
「ごめん、まったー?」
明るい声とともに、遅れてやってきたものがいる。
たたずむ姿は、紙袋の樹海。
肩から、腕から、背中から──垂れ下がる包みの数々。
抱えきれぬのは荷物か、あるいは煩悩か。
狩人の面影は霧の彼方、そこに立つは欲望と衝動の申し子。
今ここに現れしは──浪費の化身、ティエナである。
「…………」
フィンは真顔になった。
「……止めたんだけどね」
ノクがふよふよと現れ、申し訳なさそうに呟く。
「お前は……お前はこれからどこへ行くつもりだ!!!」
そして、ティエナがのんきに返す。
「ちょっとまってね……水葬……じゃなくて収納袋にしまってくるから!」
「お前も持ってんのかよ! ……泣くぞ、しまいにゃあ!!」
*
その後、申請のため一行はギルドの奥――ダンジョン管理局の受付カウンターへ向かっていた。
管理局ではすでに数組のパーティが順番待ちをしており、制服姿の職員たちが手早く対応を進めている。石造りの広間の奥、吹き抜けの天井からは柔らかな光が差し込み、冒険者たちの緊張と高揚が静かに満ちていた。
「申請書、こちらにご記入ください。構成員は6名以下……はい、問題ありません。ダンジョン内部での指揮系統、代表名義は?」
「代表は私で構いませんわ」
イグネアが応じ、ティエナとフィンも頷いた。
その後ろ、オーキィが書類を見ながらにこにこと笑う。
「……この瞬間がいちばん、わくわくするんだよねぇ」
そして、手続きが完了する頃――
広間の上階吹き抜けに立った、管理局の上官らしき人物が前へ出た。
その姿は黒の礼服に金の房飾りをまとい、見るからに高官の風格を漂わせている。
「第三陣、出撃希望者に告ぐ!」
場内に響いた重々しい声に、冒険者たちがいっせいに顔を上げた。
「君たちが向かう先は、未踏の地。地図なき深層、常識の通じぬ異構造。
だがその先には、未知なる価値が待っている!」
熱のこもった演説が続く中――
フィンがぼそっと呟いた。「……聞いてる?」
ノクがくるりと空中で一回転しながら答える。「聞いてはいるけど、なんだか“お決まり”っぽいね」
フィンが肩をすくめる。「ま、景気づけってやつか……」
ティエナはきらきらした目で演説を見つめたまま、こっそりと呟いた。「未知なる価値……! うわあ、なんか燃えてきた……!」
その横で、オーキィが小声で囁く。「……まだ何も始まってないのに、よく燃えるよねぇ」
ティエナの横顔を見ながら、ふと微笑む。
イグネアは一礼のように小さく頷いたきり、最後まで無言で演説を見届けていた。
演説は続いていたが、それぞれの思惑と鼓動が、静かに、しかし確かに高まりつつあった――。




