第15話 私たちは、ここから始まる
ギルドの中へ足を踏み入れた瞬間、ティエナは思わず「おおっ」と声を上げそうになった。
広々とした石床のロビーに、冒険者たちの声と靴音が交錯する。正面の掲示板にはびっしりと依頼用紙が並び、その奥では受付カウンターが数列に伸びていた。
吹き抜けの天井に光が差し込み、どこか荘厳な空気を感じさせる空間。けれど、そこに満ちるのは冒険者たちの活気だった。
「すごい……人、いっぱいいるね」
「エルデンバルのギルドは登録人数も依頼数も段違いですから」 イグネアがさらりと言う。
そのとき――
どさっ! という鈍い音と、誰かの悲鳴がティエナの耳を打った。
「いってぇぇぇっ!? おい、なんだよ急に! 看板って……誰だ、上に置いたの!?」
慌てて振り向いた先、掲示板の下に倒れ込んでいたのは、ひとりの青年。
緑と灰を基調にした軽装の革鎧に、裾の擦り切れたマントを羽織り、銀色のショートソードを腰に下げた少年めいた雰囲気のスカウト。
「あいたたた……くそ、まあ、これぐらい……怪我ってほどじゃ……」
そこに、すかさず駆け寄る人影がひとつ。
「あらら、フィンくん。また怪我? じっとしてて。すぐ癒してあげるからね」
柔らかく甘い声とともに、すっと差し出された手が、傷口へと淡い光を注ぎ始める。
「おい、待て待て待て! だからこんなの怪我じゃ――」
「ヒールチャンスは逃せないの。こういう機会、ちょっと楽しみにしてるんだから」
「ヒールチャンスなんて言葉はねぇって、何度も言ってるだろ……!」
回復魔法を放ちつつ、至近距離でにこにこと見つめてくるその女性――
銀髪を腰のあたりでまとめた高身長の女性で、清楚な修道服風の衣をまといながらも、常に口元に上品な微笑を浮かべ、どこか楽しそうな雰囲気を漂わせていた。
そのやりとりを見て、イグネアがふと眉を上げる。
「……あら?」
彼女はゆっくりと歩み寄り、声をかける。
「もしや……あなた、オーキィ・アルセリナではありませんの?」
声をかけられた女性――オーキィは、ぱちくりとまばたきをしたあと、ぱっと笑顔を見せた。
「イグネアさま……まあ。こんなところでお会いできるなんて、びっくりです。お変わりなくてなにより。ふふ、相変わらずお綺麗で」
柔らかく笑いながら、両手を前に揃えて軽く一礼する。
その丁寧さと親しみを込めた口調は、まるで旧知の貴婦人に捧げる敬愛のようだった。
ティエナは思わず、そのやり取りに目をぱちくりさせた。
(……あの人が、オーキィ……?)
イグネアの脳裏に、遠い日の光景がよみがえる。
――瓦礫にまみれた崩落現場。血と煙、混乱の中。
修道院から駆けつけた者たちがそれぞれ負傷者の手当てに追われるなか、崩れた坑道の出入り口付近でひときわ目を引く姿があった。
修道服姿の少女が、静かにひざまずき、泥と血にまみれた鉱夫の腕へと回復魔法の淡い光を注ぎ込んでいた。
その顔は穏やかで、揺らぎのない眼差しは迷いも恐れも知らず、ただ命と向き合っていた。
――あれほどの光景のなかで、あの背中だけが焼きついた。
「あなた……すごいですわね。感銘を受けましたわ」
「まあ……そんなふうに言ってもらえると、ちょっと照れちゃいますね。でも……目の前で誰かが傷ついていたら、放っておけなくて…」
イグネアは微笑を返す。
「……記憶に残って当然ですわね。あのときのあなたの姿、忘れようがありませんもの」
「ふふっ……もったいないお言葉です」
ギルドの喧噪のなか、二人だけがほんの短く、静かに時を遡っていた。
そんな余韻を静かに断ち切ったのは、イグネアの一言だった。
「立ち話もなんですし――応接室をお借りしましょう。スタトでいただいてまいりました紹介状の件もございますし」
こうして一行は、ギルド奥の応接室へと足を運んだ。
奥まった静かな部屋に通されたティエナたちは、軽く腰を落ち着ける。柔らかな椅子の座面が、長旅の疲れをふっと溶かしてくれるようだった。
ティエナはそっと周囲を見回す。知らない人たちばかりの中、自分がうっかり“元・水の女神ティエル=ナイア”だったことを口にでもしたら――そんな考えが脳裏をよぎり、思わず背筋が伸びた。
(……気をつけなきゃ)
「ほんとに気をつけてよ」
肩口でふわりと浮いたノクが、ひそひそ声で念を押してくる。
「変なこと口走ったら、マジで詰むからね」
ティエナはこくりと小さくうなずく。
そんな中、オーキィがあらためて姿勢を正し、優雅に一礼した。
「改めまして。私、水の神ティエル=ナイアの信徒、オーキィ・アルセリナと申します」
ティエナの笑顔が引きつり、額には玉のような汗が浮かぶ。
(で、出た――!)
(なんでこのタイミングで信徒がいるのさ……!? いや、ちょっと待ってほんとにまずいって……)
だが、さらにティエナを追い詰めるように、イグネアがぽつりと呟いた。
「そういえば、ティエナさんも水魔法がとても得意でいらしてよ。スタトのギルドでも、一目置かれておりましたの」
(ぎゃああああ!?)
ティエナの額から、滝のような汗が噴き出す。
笑顔のまま固まった表情は、氷漬けの魚のようにピクリとも動かない。
(それもうほぼ本人バレでは!? そんなピンポイントで褒められるの……!?)
だが当のオーキィは気にも留めず、「よろしくね?」と柔らかくほほえんだまま座に着いた。
イグネアも特に気にする様子はなく、ほんのりとした微笑を浮かべているだけだった。
そのやりとりを締めくくるように、フィンが気怠げに笑って言った。
「イグネアさんとオーキィって、知り合いだったんだな」
「はい。イグネアさまとは、数年前に一度ご一緒させていただいたことがありまして」
「ふーん……つーか、お嬢さんっぽい口調だけど、オレのことは適当にしてくれよな」
ぽん、とフィンが軽く自分の胸を叩いて笑う。
「オレは下賤の身でさ。礼儀とか、あんまり縁がないんだ」
「まあ! 不敬ですよ?」
ぱしん、と手の甲を軽く叩かれ、フィンが「いってぇ!」と肩をすくめた。
「あら、ごめんなさい。ほんの少しだけ、癒やさせてくれませんか?」
「いらねぇよ!!」
「ふふっ」
そのやりとりに、イグネアがやや苦笑を浮かべながら言葉を添える。
「構いませんわ。私も今は、こうして冒険者としてご一緒しているのですもの。礼節にこだわる場ではございませんわ」
応接室の空気が、ひとまず落ち着いた。
ティエナは椅子に深く腰をかけたまま、そっと息をつく。さっきまでの緊張が少しずつ緩んでいく。
フィンは小さく首を回しながら、ふと思い出したように言った。
「そういや、ちゃんと名乗ってなかったな。簡単に自己紹介でもしとくか」
ティエナがピシッと背筋を伸ばし、元気よく挨拶する。
「ティエナです。……えっと、弓使いで、がんばりますっ!」
その隣でふわりと浮いたノクが補足するように前へ出る。
「ノク。ドラゴンっぽい見た目だけど、戦闘力は期待しないでね。光魔法で多少の補助はできるよ。あと、ティエナのストッパーでもあるんだ」
「……余計な一言っ!」
フィンがにやりと笑って口を挟む。
「ただの使い魔かと思ってたけど……光魔法使えるのか。こりゃトーチ代、浮くな」
イグネアが上品に一礼し、静かな口調で言う。
「イグネア・フレアローズと申します。火属性魔法を主に扱っております」
最後にフィンが肩をすくめて口を開く。
「フィン・スレイン。スカウトと探索担当だ。よろしくな」
「……ま、最近うちのパーティがバラけちまってな。今はオーキィと二人でなんとかやってたけど、正直きつくてな」
オーキィがにこりと笑いながら、すぐに言葉を添える。
「フィンくんの傷が心配でしたので。私は、せめて傍にはいたいと思いましたの」
その穏やかな笑顔に、ティエナはぞわりとしたものを覚える。
(……なんか、すごい執念を感じる)
空気を変えるように、フィンが一同を見渡して言った。
「……で、お前ら。ダンジョンの心得、あるか?」
ティエナが勢いよく手を挙げ、胸を張る。
「もちろんっ!」
ドンッと自分の胸を叩く。
しん。
場に一瞬の沈黙が訪れた。
「……ないです……」
ティエナが小さくしゅんとしながら、視線をふらふらとさまよわせた。
ノクがぽつりと呟く。
「三秒で崩れたね」
そんなやりとりを横目に、フィンが顎をかいて呟く。
「じゃあ、ちゃんと説明しておいた方がいいよな。ダンジョンの基本、教えとく」
「はいっ!」
ティエナが再び勢いよく返事をする。
オーキィがやや困ったように笑う。
「ふふ……。フィンくん、ダンジョンの話になるとほんと止まらなくって。ティエナさん、ごめんなさいね。心だけは……ヒールじゃ届かないの」
「……えっ?」
――それから、フィン先生のダンジョン講座は六時間続いた。




