第69話 あの日の氷原で
わたしが今捉えている氷原は、厳しい寒さに覆われていた。だが今はさらに、大精霊の暴走により、雹が吹き荒れ、大地は濁流がうねり狂う地獄と化していた。
その地獄の只中に――無謀にも、一組の冒険者が現れた。
すべてを呑み込む波の上を、平然と歩く者たち――魔法で結界を張っているのだろうか。
その先頭に立つのは――
ああ、今ならわかる。
あの弓は……わたしの弓だ。
じいちゃんから譲り受けた、狩人の弓。
忘れるはずもない。
先頭を歩いていたのは、まだ現役時代のじいちゃん——リヴァードだった。
ちらりと後ろを振り返り、仲間に静かに合図を送る。
後方には今と変わらぬ外見のままのシルヴィオさん、その後には知らぬ顔が二人続く。水の神官衣に身を包んだ背の低い男性と、腰にぐるりと革のポーチを連ねた革鎧の男性。最後尾には気楽に笑っている魔術師――きっとあれはシルマークさんだ。
伝説の冒険者一行がわたしの討伐にやってきたのだ。
じいちゃん! お願い、助けて! わたしを止めて――!
大精霊の咆哮が氷原一帯の空気を震わせた。
振動に乗って、氷の飛礫が冒険者たちを襲う。
しかし、シルマークさんが円を描くように手を掲げると、見えない障壁がすべてを防いだ。
シルマークさんは、眉を上げると歯を見せてニヤリと笑った。
水の神官が詠唱と共に杖を振ると、濁った水の奔流が二つに割れ、冒険者たちの道を作った。そこをシルヴィオさんを先頭に、じいちゃんと革鎧の男性が走り抜けてくる。
駆け寄る者たちに、無数の氷の槍が飛翔する。
シルヴィオさんは抜き放った剣で次々と氷を叩き落とし、
じいちゃんはわずかに身体を傾けるだけで避け、
革鎧の男はポーチから取り出した魔導具で障壁を展開し、被害を防いだ。
疾風のように走り抜け、シルヴィオさんが跳躍する。
「ふんっ!」
その蒼い剣が大精霊の胴を一瞬で横に薙ぐ——しかし、切っ先は水を大きく跳ね上げただけだ。大精霊への決定的なダメージにならない。
「チッ」
シルヴィオさんが着地した直後、大精霊の全身めがけ、音を裂く矢が雨のように降り注ぐ。
大精霊が攻撃者に視線をやるが、じいちゃんは既に弓をしまい、ナイフに持ち替えて駆け寄っていた。
じいちゃんはナイフを大精霊の足首に突き立てるが、もちろん手ごたえはない。だけどすかさず詠唱をすると、ナイフから大精霊の足へ凍結が走った。
大きな足が氷の塊になった瞬間、シルヴィオさんの剣が閃いて、氷を粉々に砕く。
バランスを失った大精霊は身体を大きく傾けると、支えようとして手を大地に伸ばす。
その瞬間、シルマークさんの声が響いた。
「はいはい、そのまま頼むよぉ!」
シルマークさんの怒声が突き抜けたちょうどその時、大精霊が手をつこうとした地点で大地が大きく口を開き、その手を地中に呑み込むように齧りついた。
支えを失った大精霊は、そのまま大地へ全身を叩きつけた。
「待ってましたよ」
水の神官の杖が大精霊の頭部へ向けられる。杖の先から魔法の光が放たれる。光は一条の輝く鎖となり、大精霊の額に突き刺さる。その輝きが瞬時に、全身を駆け抜けた。
身体が、意識が……強い力で絞られるように苦しい! 力が抜ける……!
大精霊と意識が重なるわたしにも強い負荷がかかる。
「ああああああ!!!!」
大精霊が雄たけびをあげると、光の鎖がはじけ飛び霧散する。
革鎧の男が舌打ちをする。
「チッ、おい、ネリオ! お前失敗したのかよ!」
「さすがに大精霊への封印術、簡単にはいかないようです」
ネリオと呼ばれた神官は肩を竦め、詫びるでもなく静かに後退した。
何かを封印しようとした? わたしの――いや大精霊の力?
そのまま封じられれば、これ以上暴れなくて済むのに。わたしの想いとは裏腹に大精霊の中には暗く渦巻く感情が再びこの身体を起こし、そして曇天に向かって咆哮する。
失われた手足――。欠損部で水が蠢くと、ズルりと伸びて部位を再生する。
「はははっ、冗談だろう! こりゃバケモンだな!」
シルマークさんが笑いながら大精霊の周りに結界を展開する。
閉じ込めてしまおうという意図なのだろうか。だが大精霊が腕で薙ぎ払うといともたやすく、結界はガラスが割れるように砕け散る。
「おいおいおい! 儂特製の結界だぞ、紙切れみたいに破るなよ! エリオット、防御用の魔導具出しておけ!」
「命令すんじゃねぇ! クソがよ!」
驚きの色を隠せないシルマークさんが、大精霊から距離をとるように、背中を見せて一目散に走り出す。それを追い越すような形でエリオットと呼ばれた革鎧の男も駆け抜けた。
既に距離をとっていたネリオは再び大きな魔法の詠唱に入る。
大精霊の周りでは、シルヴィオさんとじいちゃんが今もまだ戦闘を続けている。
シルヴィオさんが剣にマナを通すことで氷の斬撃を振るい、じいちゃんは襲いかかる水を水魔法で制御しつつ二人の安全を確保していた。
大精霊の周囲の水が動き出す。その水の奔流はどんどんと水かさを増し、やがて大精霊を中心に荒れ狂う大きな渦巻きとなる。
「おい、シルヴィオ。障壁だ、協力しろ」
じいちゃんが呼びつけるとシルヴィオさんは軽く頷き、二人で姿勢を低くし身体周辺に水の防護を張る。
曇天の空からは激しい雨が降り注いだ。豪雨が激しく水と地面を打つ音が、あたり一面に喧騒をもたらした。
太陽の光を遮る厚い雲。雷鳴がとどろき、稲光が一瞬、戦場を照らした。
今のわたしにはわからないが、呼吸をすればきっと、むせ返るような湿気が胸の奥まで侵入し、息苦しさに体力を奪われる――そんな空気が蔓延している。
そして——大精霊は、溜め込んだ水をついに解き放った。洪水は、大きな津波となってあたり一帯を押し流していく。
水の神官ネリオもいったん詠唱を中断し、身を低くして水の障壁を展開する。
「おい、来るぞエリオット! 魔導具は!?」
「今展開するから騒ぐなボケェ! んで、お前も結界張れ!」
シルマークさんとエリオットも防御の態勢に入った。
「この魔導具、信用できるんだろうなぁ!」
「文句言うならてめぇの結界を多重にしろや!」
叫ぶ二人に割り込むように、怒涛の波が迫り来る。
しばらくの間、轟音をともなう蒼い奔流が地上を支配した。
そしてあたりを薙ぎ払った水がようやくマナへと還っていくころ――。
「あぁヤバかった」
「どけ! ボケェ!」
エリオットが上にかぶさるシルマークさんを押しのける。
見渡せば、ネリオも、シルヴィオさんもじいちゃんも全員無事のようだ。
わたしは安堵した。腕が動かせたら胸を撫でおろしたいところだ。
だけど、大精霊はお気に召さなかったらしい。
――ふたたび、最大級の水を貯め始める。
「リヴァード、ネリオをサポートして封印術を急がせろ。俺は少しでも大津波を遅らせる」
「わかった」
ぬかるんだ足場を物ともせず、じいちゃんが風のようにネリオの元へ駆ける。
この場に残ったシルヴィオさんは、剣を納めて両手を広げ、大精霊を見上げるようにして詠唱をはじめた。
シルヴィオさんの両手から力強い水のマナが放出される。それは空中をうねる水を制御する魔法として、奔流に纏わりつき、水量の増加を抑えていた。
普段は表情を変えないシルヴィオさんが、眉を寄せ、目を細め、歯を食いしばり、必死の形相で訴えかける。
「ティエル=ナイアよ。そこにいるのか……? なぜここにいる、なぜこんなことをする。一体何があった」
(シルヴィオさん――!)
声にならない叫び。何かを伝えたくても、どうしてこうなっているのか、わたしにもわからなかった。
「鎮まれ……! 鎮まってくれ……!」
シルヴィオさんの額に血管が浮かぶ。今にも噛み千切らんがばかりに唇を引き絞っていた。その全力の抵抗で大精霊の操る水位の上昇を、ほんの僅かに遅らせた。
そして——気がつけば、ネリオが杖を突き出していた。
一瞬――。前方から光の鎖が迸り、瞬く間にわたしの視界を覆うと、大精霊の身体を再び縛り上げた。
あぁ、苦しい……! 力が抜けていくようだ!
これが……封印の術式なのだろうか。
大精霊の魔力がほんの僅かに弱まるのを感じた。だがきっと、この封印術はまたすぐに破られる。
――だけど、わたしは気付いた。魔力が弛んだ今なら、神として、この大精霊へ干渉できる。
水を操るのはわたしの専門分野だ。
わたしが自分の力を振るうことさえできれば――意志を持った水の塊である大精霊を瓦解させるのは、たやすい。
だから、荒ぶる大精霊を止めるために、そうしようと決めた。
そう、わたしは、自らの手でもって――ここで死を選んだ。




