第67話 循環
「わたしを……殺した……?」
地下遺跡の小部屋は明かりが絶えて完全な闇が支配していた。
冷気が足元に纏わりつき、背筋にぞくりと悪寒が走る。
シルヴィオさんが絞り出した言葉を、わたしはすぐに受け入れることができなかった。
シルヴィオさんがランタンを点火すると、柔らかな明かりで空間が再び色づいた。
「お前は知らないかもしれないが、三十年前、大陸各地で大精霊たちの暴走が起きた。俺たちは冒険者としてその鎮圧を行った」
当時彼らは大陸各地の旅をして冒険者として名をはせた。暗闇の中、慌てることなくランタンの再点火ができるのだから、実戦を生き抜いてきた本物なのだろう。
大精霊の暴走の話は冒険譚『蒼き剣と七つの遺跡』にもメインのエピソードとして描かれていた。物語としてならわたしも知っているけど、それがどうわたしに関係するのかわからなかった。
「火や風の大精霊と対峙した時は神の意志があるかどうか何も感じなかった。だが、俺はこの身体のせいか、水の大精霊に対峙した時にハッキリと感じた。空を覆う黒雲から降り注ぐ無数の氷槍、川が逆流して街を呑み込む奔流の中に、水の神『ティエル=ナイア』の気配が確かにあった」
そこまで言われても、依然としてわたしには記憶が蘇らない。
どういうことだろう。そうだとしたら、『私』は水の大精霊として、世界に脅威を与えたことになる。
「わたしが、世界を壊そうとした……のかな?」
シルヴィオさんは、首を縦にも横にも振らなかった。
言葉を選んでくれているのだろうか。
「それは、俺にはわからない。ただ、大陸中で大精霊が荒れ狂い、俺たちはそれを止めた。それが――お前の神としての死の事実だ」
なんということだろう。それが本当であれば、わたしは神であったとしても殺されても当然だ。
わたしは……足の力が抜けて、思わずその場に座り込んでしまった。
石畳の冷たい感触が腰の下から這い上がってくる。まるで氷の生き物が身体をよじ登ってくるかのようだ。それに抵抗することができない。
声も出ず固まり続けるわたしに、シルヴィオさんが口を開く。いつになく、穏やかでひそやかな声。それは——温もりと優しさが含まれていたように感じた。
「本当に、世界を壊したくて暴れていたのだろうか? 俺は何か別の要因があったのではないかと、思っている。水の大精霊との戦いは——最後の最後で精霊自らが崩壊を選んだとしか思えないのだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひどく締めつけられた。
記憶は無いのに、涙がこぼれそうになる。
わたしには……何の記憶もない。わからない。
ただシルヴィオさんが慰めようとしてくれている。そんな風にしか受け取れなかった。
「記憶がないお前にはわからないだろう。——ただ、その真実を知れるかもしれない方法が、一つだけある」
シルヴィオさんの声が、再び力強く切り替わっていた。
わたしは震える身体を手で押さえ、頭を上げ、シルヴィオさんの瞳を見た。
いつもの変わらない無表情。だけど、そのアイスブルーの瞳の奥底には、全ての生命を育む水の力強さと、優しさが湛えられているような気がした。
「それには、どうしたらいいの?」
シルヴィオさんは沈黙を保ったままだった。そして、散り行く花びらを手に取るかのように、ゆっくりと——優しく手のひらを差し出してきた。
わたしの胸の奥で、水が——静かに流れ始めた気がした。
「この手をとれ。俺の中にある『神の欠片』をお前に還そう」
苦しかった——胸が締め付けられるようだ。
わたしはその手に、自分の手をゆっくりと伸ばす――けど、触れる前に手を止めた。
――触れたら、もう戻れない。そんな予感がした。
「……どうして、シルヴィオさんが『神の欠片』を持ってるの? それはもらっても大丈夫なの?」
シルヴィオさんは眉ひとつ動かさない。この場では、ランタンの炎だけが淡く揺れている。
「これは、水の大精霊が消滅する時に、俺の――体内の水のマナに惹かれて飛び込んでしまったのだろう。――元々無用の物だ。気にせず受け取るがいい」
『私の欠片』を手に入れれば、わたしには記憶が蘇るのだろうか?
記憶が蘇ったとき――わたしは大精霊のように暴走しないだろうか。
「ねぇ、シルヴィオさん。もし『私』が人間を憎んでて、世界を滅ぼしたいって思ってたら、どうするの? 力を取り戻した『私』を――止めることできる?」
記憶を取り戻すことが、正直不安だった。
変わりたくない何かが、変わってしまうかもしれない。
だけど、そんなわたしの気持ちを一蹴するかのように、シルヴィオさんが微笑んだ。
「つまらん心配だな。お前が、そして『ティエル=ナイア』がそんなはずないだろう」
「なんで? どうしてそんなに信じてくれるの?」
「俺は人工的に生み出された魔法生物ではあるが、だからこそ俺にとって『ティエル=ナイア』は母のようなものだ。……俺は産まれた時からその水の優しさを知っている。水の神が自ら世界を壊すようなことなど、決してあるまい」
――もしわたしが、本当に世界を壊そうとしていたなら……シルヴィオさんはまた、『私』を殺してくれるのだろうか?
あぁ、視界が滲んでしまう。喉の奥からこみ上げる嗚咽がどうしても止められない。
わたしだけが怖がっている。
ダメだね、これじゃあ。ここまで来たんだもん――全部受け止めて、前に進まなきゃ。
わたしは手の甲で目じりを拭って、無理やり頬を吊り上げた。
「何言ってるの、わたしまだ十六歳だよ? こんな六十歳越えた子供持ったおぼえないよ」
「あぁ、そうだな。だから何も気にするな。お前は、お前だ」
わたしはそっと手を伸ばして、シルヴィオさんの手のひらに触れる。
シルヴィオさんは一瞬、僅かに震える手を抑えるように握りしめ、目を閉じて深く瞑想を始めた。その表情には、別れを惜しむような――優しい哀しみが浮かんでいた。
――ぴちょん。
滴が垂れる音を聞いた気がした。
そしてその後には、手のひらを伝って流れてくる、水の奔流。
螺旋を描き、大きなうねりをもって、意識の中に流れてくる。
頭の中にとめどなく吹き込んでくる青。そして蒼へ――いつしかそれは暗き深海の色へ――
わたしの――わたしの欠片が、身体の中に還ってくる――!!




