第9話 白霧レモネードと記憶の本棚
朝の騒ぎが落ち着き、ギルドの混雑もようやく収束し始めたころ──スタトの町を包む空気も、すこしだけ穏やかになっていた。
そんな中、とある果汁屋の前で、ティエナがきらきらした瞳で立ち止まっていた。
「わあ……これが白霧レモネード……!」
ガラス越しに並ぶ瓶。淡い金色の液体には、小さな白い花弁が浮かんでいる。氷花草から抽出された香気と微かな泡が、涼やかに立ちのぼっていた。
「うふふ、ちゃんと約束は守りますわ。ティエナさん、一杯どうぞ」
イグネアはふっと微笑むと、ためらいなく銀貨を差し出した。その所作は淀みなく、上品さを感じさせるものだった。
「これは、わたくしからのご褒美ですわ。どうぞ、召し上がれ」
「……本当にいいの? わたし、ちょっと頑張っただけだよ?」
「ふふ、ティエナさんは謙遜しすぎですわ。あの時のあなたの力が無ければ、わたくしたちは勝てませんでしたわ。……それに、わたくしが誘ったのですから」
「わたしの方こそ助けてもらっちゃったのに……! 本当に頼りになる……!」
「そう言っていただけると、光栄ですわ」
「う、うんっ……! 本当に、ありがと!」
ティエナはそのままレモネードの瓶を胸元で抱きしめ、目を輝かせた。
「ねぇノク、見てこれ……すっごく綺麗で……うわ、冷たっ!」
ノクは軽くため息をつきながらも、その様子を見守っていた。
そんな彼女が、ふとした拍子にノクを見つめる。
「ねぇ、ノクって……結局なにものなの?」
ノクは少しだけ間を置き、視線をそらす。
「……いまさら、それを聞くんだ?」
「うん。だって、なんかあらためて気になって……普通の魔物には見えないし、でも精霊でもなさそうで……」
「僕自身も、よくわかってないんだけどね……でも、ティエナと出会ってから、ずっと眠っていた何かが少しずつ目を覚ましてる気がする」
その言葉に、イグネアが思案顔で口を開く。
「魔物にしては知性が高すぎますし、精霊獣とも異なりますわ。使い魔のように主従の枠にも収まらず……むしろ、何か古い契約の名残が、独自に変質した存在のようにも見えますの。例えば、失われた契約獣の末裔とか……」
「うーん……だんだん話が壮大になってない?」
「ふふ、ですがわたくしは、今のノクさんが好きですわ」
「……ありがと。でも、そうやって距離を近くされると……ちょっと戸惑うんだ」
小さなやりとりが静かに続く中、三人は肩を並べて歩き出した。
街の喧騒の中、ティエナはふと立ち止まり、笑顔で言った。
「ねえ、ノクのこと、ちょっと調べてみよっか」
「調べるって……どうやって?」
「うふふ、古書店ですわね。わたくし、こう見えて文献捜索は得意なんですのよ」
「おお〜イグネア、頼りになる〜!」
「おっ、なんか面白そうだね。よし、レッツ書物ハントだ!」
*
通りを一本入った先、木造のアーチと蔦に覆われた古書店の軒先に、ティエナたちは足を踏み入れていた。
中は静かで、木の匂いと古紙の香りが混じる落ち着いた空間。天井まで届く書棚には、魔導技術書や旅の記録、錬金素材辞典など、ぎっしりと本が詰まっていた。
「うわぁ……すごい……」
ティエナは目を輝かせて店内を見渡し、棚の間を行ったり来たりしている。
ノクはといえば、最初は「調べもの」という名目で浮かない顔をしていたものの──
「……お、これ初版だ……」
気づけば一人、奥の棚で興味深そうに本をめくっていた。
「ノク、こういうの好きだったよね?」
「まあね。あんまり役に立たないときもあるけど……見たことない本を開くと、ちょっと高揚するんだ」
そんなやりとりをしているうちに、イグネアが店主に話しかける。
「こちらに、神獣や契約獣、古の生き物に関する記述のある文献はございますかしら」
「んー、そっち系はあんまり動きがないんでね。奥の棚にある『伝承分類』のタグがついてるところを見てくれれば」
「ありがとうございます。ティエナさん、ご一緒に?」
「うんっ!」
──そして、ティエナの目に、不思議な装丁の一冊が映る。
革のような、それでいて紙とも違う質感。金の装飾が縁を飾り、表紙には見たこともない──けれど、どこか懐かしい──文字が刻まれていた。
普通なら意味などまるでわからない、不思議な装飾の羅列。
なのに、ティエナには、それが“読めそうな気がする”ような感覚だけが、静かに心を揺らしていた。
「……なんだろ、これ……」
その声を聞きつけて、ノクとイグネアも本を覗き込む。
「それ、なんかの装飾? 文字……なのか?」
「わたくしも初見ですわね。魔導文字でも古典でもない……文字の構造が意味を持っていないようにも見えますわ」
ふたりの反応に、ティエナは再び本の表紙を見つめる。 読めそうで、でも読めない。文字のようだけど、意味が頭に入ってこない。なのに、視線が離せない。
手に取った瞬間──ティエナの意識に、遠い記憶が流れ込んできた。
(……あれ? この本、知ってる……?)
懐かしさと、言葉にならないざわめきが胸の奥で静かに広がっていく。
記憶の扉が、音もなく軋みを立てはじめていた。




