第45話 皇帝ヴァルセリオ
ティエナたちが穿地竜バジルグラーヴ討伐に向かっていたころ──アクレディア帝国の帝都オルガナリアにそびえる黒曜宮殿の謁見の間で、銀髪の騎士が片膝をついていた。
「──顔を上げよ、シルヴィオ」
目の前の玉座には白髪の老人──皇帝ヴァルセリオ。片肘を肘掛けに預け、その鋭い眼差しで膝をつく騎士を射抜いていた。傍らにはゆったりとした法衣をまとった神官が二名、無言で控えている。
石床から這い上がる冷気が広間を満たし、場の空気をいっそう重くさせていた。
「報告せよ」
地の底から響くような低い声に、銀髪の騎士──シルヴィオは姿勢を正した。
「はっ。エンドレイク教団の幹部と思しき女に精神支配の術を施し、本拠の所在を吐かせました。南方の亜人国家に潜み、ドワーフの鉱山を襲撃して鉄鋼や鉱石を奪い、魔核を生成している模様です」
報告を聞いたヴァルセリオの表情に、興味の色は浮かばない。
「……つまらん」
冷え冷えとした声音が広間に落ちる。
片肘をついたまま、皇帝は無感動に言葉を継いだ。
「小賊の巣など潰せばよいだけだ。本拠が割れたなら即刻叩け」
「しかし──」シルヴィオは一拍置き、低く続ける。「魔物の数は常軌を逸しております。南境の街を守る兵を割きつつ本拠を攻めるのは、いささか困難かと」
その言葉に、玉座の脇に立つ老人が一歩前に出た。背をまっすぐに伸ばし、長い髭を撫でる姿は威厳に満ちている。神政院院主セレノスであった。
「陛下。帝国軍のみで南境を守りながら教団を討つのは難しい。ここはノアランデ王国の軍勢を動かすべきかと存じます」
セレノスの進言を受け、隣に控えていたもう一人の老人が、ゆるやかに顔を上げる。フードを目深に被り、腰を少し曲げた大導師ネリオであった。その声音は、セレノスとは対照的に穏やかであたたかみがある。
「幸い、ノアランデ宮廷魔術師シルマーク殿との縁がございます。そしてここにおわすシルヴィオ卿もまた、橋となりましょう。
魔物の被害はノアランデも同じく受けているはず。両国で協力し南境に防衛線を張り、精鋭をもって本拠を叩けば、双方にとって益となりましょう」
シルヴィオはちらりとネリオを見やる。老人もまた小さく頷いた。
声はなくとも、互いに意思を通わせたのは誰の目にも明らかであった。
玉座の上で、ヴァルセリオは冷ややかに二人の老人とシルヴィオを見渡した。
「……よかろう。南境の処理は任せる。ノアランデを利用しろ。両国の利益にかなうのであれば、やつらも動かざるを得まい」
淡々と結論を下す声は、感情の起伏を欠いていた。だが次の瞬間、その眼差しは鋭くシルヴィオへと突き刺さる。
「それより──神の欠片の探索はどうなっている?」
広間の空気が、さらに冷え込む。
シルヴィオは一瞬だけ息を詰まらせ、答えを探すように口を閉ざした。
その沈黙を覆うように、ネリオが柔らかく口を開く。
「陛下。欠片の所在は未だ定かではありません。しかし……シルヴィオ卿は常に我らの先頭に立ち、危険を顧みず任務にあたっております。今しばらく猶予をお与えいただければ、必ずや成果を示すことでしょう」
フードの奥の瞳が、ほんのわずかにシルヴィオへ向けられる。
感謝と信頼が交わる、その一瞬。
ヴァルセリオは長い沈黙の後、ゆるやかに片手を振った。
「……よい。だが忘れるな。真に価値あるものは国境線でも、魔物の群れでもない。永劫の命をもたらす神の力こそが、この帝国の至上だ」
その言葉は冷酷な宣告のように広間に響き、石の壁に反響していつまでも残り続けた。




