海陵王と蔡松年
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻百二十五 列伝六十三の蔡松年伝を見てみましょう。
前回、施宜生が機密を漏洩したとされる件について触れましたが、『金史』は蔡松年についても漏洩疑惑を記しています。次に『金史』巻百二十五 列伝六十三の蔡松年伝を見てみましょう。
蔡松年は以前に宗弼の府におり、海陵王は宗室の子を以って宗弼の軍中に在って、互いに仲が良かった。
海陵王が即位すると吏部侍郎に抜擢され、まもなく戸部尚書に昇進した。海陵王が中都に移ると、蔡松年は交易に拠り物資を都城に集め、宋で行われていた鈔引法を復活させた。
(中略)
宋で山呼声を使っているのを海陵王が気に入り、神衛の兵士にこれを習わせていた。
正隆三年の元旦を祝うため宋から孫道夫が使者として来て拝謁すると、これまでの使者が行わなかった山呼声を披露した。孫道夫が退出すると、海陵王は宰臣に言った。
「宋人は、私が神衛の兵士に山呼声を習わせているのを知っている。これは必ずや蔡松年と胡礪が漏らしたのであろう。」
蔡松年は恐れ慄き「臣がもしそのような事をしたのであれば、族滅されてもしかたありません。」と答えた。
しばらく経って右丞相に昇進し、儀同三司を加えられて、衛国公に封ぜられ、正隆四年に五十三歳で薨去した。
海陵王は嘆き惜しみ、蔡松年の家で葬儀が行われるに当たり、自分の言葉を盛り込んだ弔意文を作成させ、呉国公に加封し、文簡と諡した。その子で三河主簿の蔡珪を翰林修撰とし、蔡璋には進士及第の地位を賜った。翰林待制の蕭籲に棺を警護させ、真定に帰葬させた。四品以下の官が都城から十里の地まで見送り、護送の費用は全て官より支給した。
本人の居る前で言ったということは冗談だったのでしょう。同時に名前の出た胡礪も、以前に触れたように引き続き朝廷で重んじられています。