第76話 『岩の上の教会』
サン・フアン・デ・ガステルガチェ。
それはバスク地方にあり、ビスケー湾に突き出るように位置している小島のことだ。
そして岩山の頂上にはサン・フアン礼拝堂が。
突端から石を積み上げて造られた水道橋の細い道を渡り、なだらかな石畳が続いて途中から礼拝堂までは石段がまるで竜の背骨のようにうねって続いている。
純白の修道服に身を包んだ見習いシスター、フランチェスカは車の窓から城塞を思わせる岩山を遠くから眺めていた。
「……あれが、誓願式を行なう教会……」
「そうだ。あの教会はザビエル家が代々儀式を執りおこなった神聖な場所だよ」
後部座席にてフランチェスカの傍らに座る父、アルフォンソが説明する。
「この分だと儀式には余裕で間に合うな……渋滞に巻き込まれたときはどうなることかと思ったが……」
腕時計を見やり、次に娘の方を。
「儀式は正午からだ。それまでに時間はたっぷりあるから、祈りを捧げるといい」
「はい……お父様」
うむとアルフォンソが頷き、娘の純白のヴェールを被った頭を撫でてやる。
「お前が戻ってきてくれて本当に嬉しく思うよ」
「はい……」
†††
「クソっ! この渋滞じゃ間に合わねぇぞ!」
パンプローナから目的地の近く、ビルバオへ向かうハイウェイにて、アントニオは忌々しそうに吐き捨てる。
目の前には車種様々な車が奥まで長蛇の列よろしく並ぶ。それこそ遥か遠くまで続いているかのように。
「なんとかならないんですか!?」
「そうしてぇのはやまやまなんだが……ちょっとまってろ!」
運転席のサンバイザーから地図帳を取り出してぱらぱらとページをめくる。
「なにか別のルートがあるはずだ……」
地図上の道をつつと指でなぞって探す。
「あの……」
「ちょっと黙っててくれ。あと少しで」
「あのっ」
「なんだ!?」
がばっと地図帳から顔を上げると、目の前にはスマホを手にした安藤が。
「このルートじゃダメですか……? 地図アプリで調べたんですけど」
見るとスマホの画面には現在地を示すピンが立ち、そこから赤い線が走っている。
ゴール地点はむろんサン・フアン・デ・ガステルガチェだ。
「でかした! これならこの道路を行くよりも早く着けるぞ!」
スマホをひったくって画面上のルートを確認し、頭に叩き込むと安藤に返す。
「そのルートだとハイウェイを降りて、サン・セバスチャンを通るな。ちょうど出口が見えたぞ!」
後方を確認し、ハンドルを切ってアクセルを踏み込むとタクシーは出口へ出ると、下に降りて消えた。
†††
サン・フアン・デ・ガステルガチェ教会に続く道の途中には小さな木造のチケット販売所兼観光案内所がある。
案内所の管理人である老人、ホルヘは短い足を机に投げ出して新聞に目を通す。
この時間、彼は地方紙に目を通すのが日課だ。もっとも、この地方では大きなニュースとなるような事件はほとんどないが……。
「ふん、今日も天気はお日柄もよく……か」
毎日代わり映えのしないニュースにひと通り目を通し、ちらと壁に掛かった時計を見上げる。
あの若造はいったいどこをほっつき歩いてるんだ……。
小さな案内所なので、ここには管理人ともうひとりの従業員しかいない。従業員と言っても期間限定のアルバイトだが。
そこへドアが勢いよく開かれた。
「すみません! 遅くなりました!」
「ラウル! 今日も遅刻しやがって! 今度という今度は許さねぇぞ!」
老体とは思えない大声を張り上げ、学生であるバイトのラウルはひっと情けない声を。
「すみません! でもここに来る途中で通行止めにあったんです! ここのスタッフだと言ったら通してくれて……」
「当たり前だ! 今日がなんの日か忘れたのか?」
「え、ええと……」
困惑するラウルにホルヘは呆れ顔だ。
「誓願式の日だ! だから通行止めになったんだ!」
「それって、ザビエル家のですよね……?」
ラウルが窓の方を見る。その向こうには頂上に礼拝堂がある岩山が。
「そうだ。お前が生まれるより前に、俺はここで代々続くザビエル家の歴史をこの目で見てきてるんだ」
傍らの机から備忘録であるノートを引っ張り出し、老眼鏡をかける。
「本日の正午にフランチェスカ・ザビエル嬢の誓願式が行われるとある」
「へぇー、じゃ今日は仕事はそれだけですか?」
するとホルヘが老眼鏡を外して首を振る。
「お前はなんにもわかっちゃいねぇな……誓願式のあとは通常営業だ。だから仕事はある」
そう言って親指で部屋の角を指す。そこには各国語に翻訳された案内パンフレットの束が。
「パンフレットを整理するんだ。さっさとやれ!」
「わかりましたよ……そんな怒鳴らなくても」
渋々とパンフレットの束へ向かうと、背後からホルヘの呼び止める声。
「ちょっとまて! 看板の修理はどうした?」
「看板? 看板ってなんのでしたっけ?」
「あの橋の途中にある転倒注意の看板だ! ネジが緩んでるから締めとけと言ったはずだぞ!」
「すみませんっ忘れてました! これが終わったらすぐやりますんで!」
ついにホルヘの堪忍袋の緒が切れ、今日は説教しようとしたところへエンジンの音が聞こえた。
「まずい! 迎えに出ないと……! 来い、お前も来るんだ!」
「え、でもこのパンフレットは? それに修理は……」
「そんなの後でいい! さっさと外に出るんだ!」
ホルヘの言ったとおり、案内所の前にある駐車スペースには一台の車が停まっていた。
運転手であり、従者の修道士が後部座席のドアを開けると出てきたのはまさしく純白の修道服に身を包んだフランチェスカであった。続いてアルフォンソも降りる。
アルフォンソがホルヘに気づいて近寄ってきたので、老管理人は直立不動の姿勢を取った。
「お待ちしておりました。ザビエル様!」
「ホルヘ殿。今回も色々とお手数おかけします」
握手を交わし、次に傍らに立つラウルにも握手を交わす。
「今回は私の娘が誓願式を受けますので、よろしくお願いします」
「あ、こちらこそよろしくっす」
緊張感に欠けるラウルをホルヘが肘で小突く。
「すみません。こいつ新しく入ったばかりなんで……」
アルフォンソがお気になさらずとにこりと聖職者らしい微笑みを。
「フランチェスカ、お前も挨拶しなさい」
「はい」
父に呼ばれ、前へと進む。
「フランチェスカ・ザビエルです。以後お見知りおきを」
ぺこりと頭を下げるその様はお転婆な普段の彼女とはかけ離れていた。
頭を上げ、にこりと微笑む。その微笑はどこか陰のあるものだった。
「さぁ行こう。ベネディクト司祭とマヌエル枢機卿は後から来られることになっている」
「はい……」
ふたりが島へ続く橋を渡るのをぼうっとしたまま突っ立っているラウルをホルヘがふたたび小突いて現実に引き戻す。
「おい、大丈夫か?」
「あの子、可愛かったっす。シスターっていうか、まるでお姫様みたいで……」
「鼻の下伸ばしてるヒマがあるんなら、さっさと仕事に戻れ!」
†††
その頃、安藤を乗せたタクシーはサン・セバスチャンの海岸――――ラ・コンチャビーチ沿いの道路を走っていた。
「いいぞ! これなら正午までには間に合うぞ!」
渋滞していたハイウェイとは打って変わって、交通の少ない道路をすいすい進みながらアントニオが言う。
確かに彼の言うとおり、このペースなら正午までに着きそうだ。
「どけどけ! タクシーの聖人、アントニオさまのお通りだぞ!」
巧みなハンドル捌きで車と車の間をすり抜け、順調に目的地めざして飛ばす。
「お嬢ちゃんのとこまで一時間半ちょいってとこだが、この分ならタイムを短縮できるぜ!」
笑いながらさらにアクセルを踏みこもうとした時――――
いきなり車が減速しはじめた。ガス欠かと思ったが、ガソリンのメーターはまだ半分以上残っている。
「まずい! 路肩に停めるぞ!」
ハンドルを右に切り、のろのろと減速しながらもなんとか路肩に寄せると、そのまま電池が切れたように停止した。
安藤がどうするのかと見ていると、アントニオが運転席から出、目の前でボンネットを開ける。
そしてエンジンルームをひと目見るなり、助手席にいる安藤に向かって首を振った。
「こりゃ、エンストだ……すまねぇ……」
タイムリミットまであと、二時間――――。