第12話 『EXODUS ~見習いシスターの脱獄記~』
正月三が日を過ぎたある日、安藤は下校途中にいつものように教会へとやってきた。
扉を開けるとがらんとして誰もいない。いつもの長椅子にも彼女――、フランチェスカの姿はなかった。
「フランチェスカさん……?」
扉に鍵はかかってなかったから、いるはずなのに……。
と、懺悔室の隣の扉から、脚立を持ったマザーが出てきた。
「あら、安藤さん」
「あ、マザー。お邪魔しています。その、フランチェスカさんはいますか?」
「ああ、彼女でしたら……」
†††
「ハーイ、アンジロー」
「やあ、フランチェスカさん。今日はまた変わったところから挨拶ですね」
安藤が頭上の、縄でぐるぐる巻きにて宙吊りになったフランチェスカに声をかける。
「うん、ちょっとね……」
「職務中にゲームなんかするあなたが悪いのです。裸吊りじゃないだけありがたいと思いなさい」とマザーが踵を返して部屋から出る。
「うん、まぁいつも通りですね……って裸で吊られた時あったんすか!?」
「アンジロー、お願い。あなただけが頼りなの……! こんなか弱くて、可憐な美少女をこのままにするおつもり?」
涙で潤ませた瞳を安藤に向ける。
「今回ばかりは自業自得なんで、反省してください」
じゃ、とぱたんとドアが閉まる。フランチェスカがスペイン語であらん限りの罵詈雑言を吐く。
「悪魔! 人でなし! 戻ってきなさいよ! さもなきゃ呪ってやる!」
悪態が出し尽くされると、ぜぇぜぇと肩で息をする。そして天を仰ぐ。
「おお我が神、我が神よなぜ見捨てるのです?(マルコ伝第15章34節) って、ざけんじゃないわよ! 見てなさい、絶対に脱出してやるんだから!」
なにより今日はゲーセンで新作の格ゲーが入荷するんだし!
ふん! と鼻息荒く力に物を言わせて縄を引きちぎろうとするが、固く結ばれたそれはうんともすんとも言わない。
おまけに前後に揺らしても縄が切れる気配もない。それどころかいたずらに体力を消耗しただけだ。
オーケー……落ち着くのよ。フランチェスカ。激情に駆られて我を忘れちゃダメ。まずは状況把握よ。
幸い、両足は縛られていないので、ある程度自由は利く。
次に辺りを見回す。直方体の部屋にまわりを壁で囲まれ、上を見上げると壁の上部に長方形の天窓がはめ込まれていた。
さらに視線を天井にやると、縄はかつてはランプをぶら下げるために使われていたであろう鎖に繋がれている。
どんだけ力持ちなのよ。あのババア……。
でも、あの結び目のところまで来れば、あとは口でなんとか……。
よし! と意気込むと囚われの見習いシスターは前後に振り子のように揺らすと、勢いを利用して壁を蹴り、その跳躍力でくるりと足を縄に引っかける。
よし! あとはサーカスのロープ芸みたいに足で登れば……!
だが、修道服のスカートが逆さまにめくれ、黒タイツの脚線美とタイツの下のパンティがうっすらと露わになっただけだ。
「………………」
もし、この作品がマンガやアニメになって、あたしのあられもない姿が露わになったら、作者をぶっ飛ばしてやる……!
縄から足を外して元の位置に戻る。
この作戦はダメね。なにか他の手を考えないと……。
ふたたび上を見上げる。長方形の天窓が目に入った。
あの天窓を割って、助けを求めれば誰か来てくれるかも
くるりと体を天窓のある壁へと向ける。そしてまた振り子のように前後に揺らしはじめる。
足が壁につくと、そのまま勢いを利用して天窓目指して駆け上がる。
あたしのプロ選手並みのドリブルなら壁を登ることなど造作もないこと!
シュートを決めるべく蹴り上げられた爪先はだが、すかりと外れ、フランチェスカはそのまま落下し、背後の壁に激突した。
「げぼぉ! 腰打った! 腰打った! 地味に痛いんですけど!?」と涙目。
シュート作戦も失敗した今、フランチェスカは身動きひとつしなかった。
すでに体力は限界に近づきつつあり、喉もからからに乾いていた。
……ゴルゴタの丘で磔にされたイエスの心情がわかってきたわ……”私は乾いている“(ヨハネ伝第19章28節)
もうおしまいね……。
そう天を仰いだ時、縄を繋いでいる鎖が見えた。
あの鎖……古くなってサビてるわね。
絶望の淵に立たされたフランチェスカの頭に閃くものがあった。
……いけるかも!
そして壁を見渡す。壁に足がつくことは先のシュート作戦で立証済みだ。
これがラストチャンスよ!
今度は振り子のようにではなく、円を描くように回転させはじめた。
程なくして足が壁につくと、遠心力を利用してそのまま壁を走って徐々に上へと登っていく。
テレビでバイクが壁を走るのを見たけど、まさか役に立つとはね! 名付けてモトクロス作戦よ!
ぐんぐんと上へ上へ。ついに天井近くまでくると壁を蹴る。
「いっけぇえええ!」
鎖を断ち切るかのようにフランチェスカの蹴りが炸裂した。
みしりと鎖が音を立てたが、破壊するまでには至らなかったようだ。
「そんな……! ここまできて……!」
絶望しながら真っ逆さまに落下する。がくんとぶら下がったかと思うと、ついに鎖が千切れた。落下の衝撃に耐えられなくなったのだろう。
「やった……って、あああああ!!」
自由の歓びを味わうのも束の間、フランチェスカはそのまま地面に堕ちた。
「……っ、たぁ……でも、これで自由だわ!」
落ちた衝撃で縄もほどけたようだ。
自由! あたしは自由よ! 出エジプト記のモーゼによって解放されたヘブライ人たちのように!
ドアを開け、颯爽と礼拝堂を駆けようとする。
待っててね! 新作の格ゲー!
「どこへ行くのですか? フランチェスカ」
呼び止められたフランチェスカがぴたりと止まる。さーっと顔から血の気が引く。
「ま、マザー……」
「変ですわね。あんなにきつく縛ったというのに……」
「マザー、縄が勝手にほどけたんです……信じられないのかもしれないでしょうが、これはきっと天啓です。自由になりなさいという……」
手を組んで祈りを唱える。だが、その手はかたかたと震えていた。
「そうですか。私もたった今、天啓を受けましたよ。フランチェスカ」
マザーがこくりとうなずく。
「より厳重に処罰し、さらにきつく縛りなさいと」
がしりとフランチェスカの襟をつかむと元の部屋へと引きずっていく。
「お、お許しを……! どうか慈悲を! マザぁああああー!」
ずるずると引きずられながら懇願するが、その願いが神やマザーに聞き入れられようはずがない。
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ! “父よ、私の魂をあなたの手にゆだねます!”(ルカ伝第23章46節)」
フランチェスカの祈りという名の慟哭はぱたんとドアが閉まるとそれきりとなった。