第56話 『Ama Margalita』
夕暮れからとっぷりと暗くなった頃、夜空の下で軒を連ねるバルからは常連客や酔客の話し声や笑い声が飛び交う。
喧騒のなか、安藤は元コックだというエンリケに連れられながら石畳の歩道を歩く。
「いいかアンジロー、ここがフェルミン・カルベトン通りだ。バルの激戦区よ」
なるほど、言われてみれば確かに歩道を挟んで両側にはバルが並び、看板に書かれた店名にはバスク語とスペイン語の表記が。
「あっちはピンチョスが豊富で、あそこのバルは魚介料理に力を入れているんだ」
エンリケが指差しながらそれぞれのバルの特長を説明する。
「詳しいですね」
「だーから言ったろう! もとコックだとな」
ふふんとしたり顔で言うが、いまはホームレスである彼のみすぼらしい服装では、信じるほうが無理な話だ。
石造りのアーチをくぐったところで芳しい香りが鼻孔をくすぐる。
「いい香りだ。サフランかな?」
「アンジロー! おめぇ良い鼻してるな! こりゃ上質のサフランだ」
くんくんと鼻をひくつかせ、こりゃ旨そうなパエリアだと頷く。
「料理が趣味なんですよ」
「そうか! ならしっかり味わって勉強してけよ。そうそう、ここのバルはフォワグラが絶品だぞ」
「あの、エンリケさん」
「エンリケでいいぞ。で、なんだ?」
「バルには入らないんですか? 案内や説明してくれるのはありがたいんですけど……」
するとエンリケはやれやれと首を振る。
「いいか、アンジロー。世の中にはどんな分野であれ、一流と呼ばれるものがあるんだ。芸術やスポーツとかな。わかるか?」
「は、はい」
「よし。そうと決まれば一流のバルに行くぞ」
くいくいとついて来いとでもいうように指を振り、ふたりは人混みをかき分け、角を曲がって隣の通りへと入った。
幅3メートルの歩道を挟んで高い建物がぎっしりと立ち並び、間口の狭いバルが軒を連ねている。
「さっきの通りと同じような感じですね」
「8月31日通りだ」
「え? 名前に日付が入ってるんですか?」
「おう。昔、戦争でフランス軍がここに攻め込んできて、なにもかも焼けちまってな。で、そんな中、焼け残ったのがこの街なんだ。記念として当時の日付が入った名前を贈られたのよ」
こっちだとエンリケが先に進んでいくので、安藤も慌てて後を追う。
通りはバルだけでなく、何軒かに一軒の割合でブティック、靴屋や帽子屋などの雑貨店も見られる。
洒落た内装のショーウィンドウを眺めていると、エンリケが立ち止まった。
「ここだ。このバルこそ、おれが一流と認めるところよ」
「ここって……」
それは一流と呼ぶにはそこらのバルと変わらず、同じく常連客でごった返していた。
見上げると店名が書かれた看板が。
『Casa Marga』
「突っ立ってねぇで入るぞ」
そう言うエンリケの頭にはいつの間にか、ベレー帽を斜めがけに被せていた。
「その帽子は?」
「一流の店に入るからには正装しないとな」
「正装……?」
「知らねぇのか? ベレー帽はバスクが発祥の地なんだぞ」
行くぞと安藤の肩をぽんと叩き、バルの中へと。
「マルガ! アマ・マルガはいるか?」
そう入口で声を張り上げると、常連客や店員がじろりと睨む。
見るからにホームレスの中年男性が入ってきただけでなく、埃や饐えた臭いをぷんぷんさせてはたまったものではない。
するとカウンターの奥から威勢のいい返事が返ってきた。
「エンリケかい? 今頃なにしに来たんだい!?」
のしのしと奥から出てきたのは、年は五十くらいの恰幅の良い女性だ。
「たまりにたまったツケでも払いに来たのなら、さっさと払っておくれ!」と太い腕を組みながら。
「アマ・マルガ、きょう来たのはツケの支払いじゃあなくて、おめぇの力を借りてぇんだ」
「よくもいけしゃあしゃあと! こっちは猫の手も借りたいぐらい忙しいんだよ!」
ふんと鼻息を荒くさせると、エンリケの傍らにすまなそうに立つ安藤に気づいた。
「なんだいこの子は? 中国人じゃなさそうだけど」
マルガと呼ばれた女は安藤を上から下までじろじろと見る。
「こいつは日本から来たんだ。名前はアンジローで、ここに来た途端に金をすられてしまってな」
そこをおれが助けたのよと自慢げに言うエンリケが「そうだろ? アンジロー」と背中を叩く。
もっともふたりのやり取りはバスク語で交わされているので、安藤にはその内容はわからないが。
マルガが呆れ顔でため息をつく。
「それで用件は?」
「おう! こいつになにか美味いもんを食わしてやってほしいんだ」
「あきれた! ツケも払わずに今度はこのどこの馬の骨とも知れないこの子に飯を食わせてやれだって!?」
「頼むよ。アマ・マルガ。こいつ所持金がすくねぇうえに泊まるところもねぇんだ」
「とにかくあんたはもう行きな! これ以上その臭いにおいをぷんぷんさせたら、ホウキで追い払うからね!」
しまいには本当に箒を出しかねない勢いの剣幕で怒り出したので、エンリケは退散することにした。
「わかったよ。とにかくこの子を頼むよ。アマ・マルガ」
「さっさと行きな! 今度来るときはツケを払いに来るんだよ!」
まったく、この忙しいときに……。
ベレー帽を押さえながら逃げるように走るエンリケを見送りながら、ぶつぶつと愚痴をこぼして踵を返す。と、入口に安藤が立っていた。
「なんだい、あんたまだいたのかい?」
「あ、あの……」
目の前でしどろもどろする安藤にマルガはまたため息をつく。
「ええと、アンジローとか言ったね? スペイン語わかる?」
「あ、はい。でもバスク語はまったくわからなくて……」
「スペイン語がわかるならそれでいいさ。あたしはマルガ。ほんとはマルガリータって王女さまと同じ立派な名前だけどね。マルガでいいよ」
「はい、アマ・マルガ」
「あんたにそう呼ばれるとなんだかくすぐったいね。さてと、ここで立ってるのもなんだからさっさと入りな」