第42話 『SKYFALL』⑭
アザーンの放送が止まり、礼拝を終えた地元住民がモスクからぞろぞろと出るなか、メディナにあるババ・ムスタファの家は静寂に包まれていた。
いや、耳をすませば微かにだが、地下からその音は聞こえてくる。
肉を叩くような音が、何度も何度も……。
「吐け! あのガキはどこにいる!?」
地下室にて、椅子に縛られた見習いシスターは沈黙をつらぬく。
すかさず左の頬に平手が飛ぶ。すでに頬は腫れ、ふた目と見られない有様だった。
「なんてしぶといガキだ……」
痩身の男が何度も殴りつけた拳をさする。
「……あんたたちに話す舌なんて、持ち合わせてないわよ……」
べーっと舌を出す。次の瞬間には鳩尾に拳が叩き込まれた。
「――――ッ! げぁ……っ! げぇほッ! げほぉっ!」
腹の底からこみ上げてくる胃液をたまらずぶちまけ、激しく咳き込む。
「あのガキの居場所さえ吐けばラクにしてやる。このままだと見苦しい最後をむかえることになるぞ」
「さぁ、どこにいるか教えろ」
小太りの部下が顔を近づける。フランチェスカがぶつぶつと小声で言うが、よく聞こえない。
「なに? なんだって?」
「レクス……タリオニス……」
だが、見習いシスターの発するそれは聞いたこともない言葉だ。スペイン語でもアラビア語でもない。
「わかるように言え!」
ぐいっと前髪を掴んで顔を上げる。口の端や鼻から血を流すシスターの顔が露わになる。
「……ラテン語よ。ラテン語の勉強でもしたら? クソ野郎」
ぺっと血の混じった唾液を男の顔へ。
唾を吐きかけられた男はたちまち顔を紅潮させると右の頬を殴りつけた。
「このアマがぁ!」
さらに殴りかかろうとする同僚をよせと止める。見習いシスターはすでに気を失っていた。
「どうした? まだ白状しないのか?」
「ボス! こいつが俺に唾を吐きやがったんで!」
地下室のドアからふたりのボスであるムスタファが姿を表すなり、小太りの男が怒りを露わにしてまくし立てる。
「もうよい」と制止しなければ延々と続いたことだろう。
椅子に拘束されたフランチェスカのもとへ歩み寄る。気を失った見習いシスターはぴくりともしない。
「たいした自己犠牲だ。だが、もうこの女に用はない」
「しかし、ガキの居場所が……!」
「心配するな。他の手を使うまでだ」
それより、と向きなおる。
「解体工場に行って、いつものように処理をしろ」
「了解。車を回してくるから運べ」
「ちぇっ! いつも俺ばっかり!」
「無駄口を叩くな。さっさと手際よくやれ!」
同僚に命じられ、舌打ちしながら縄をほどき、フランチェスカを担ぎ上げる。
†††
――――どのくらい気を失っていただろう?
目を開けると、あたりは暗闇だ。右目の目蓋が腫れているからか、うまく開かない。
おまけに縄でしばられているので、身動きが出来なかった。
ごとごとと背中に振動を感じるところを見ると、どうやらここは車のトランクの中らしい。
「う………痛ぅ!」
地下室で受けた拷問の痛みが今になって襲ってきた。
「あいつら……あたしの顔を殴りやがって……」
こみ上げる怒りにぎりっと歯ぎしり。
闇に目が慣れてきたか、だんだんとまわりの物が見えてくるようになった。
とは言え、それでどうにかなるわけでもない。
クソ……!
顔を反対側に向けると、頭に何かが当たった。どうやら工具箱のようだ。
縄を切断出来る道具はあるかもしれないが、この状況ではそうもいかない。
考えるのよ、フランチェスカ。ここから脱出する方法を……。
その時、閃くものがあった。
これならなんとかなるかも……。
出来る出来ないじゃない。やるかやらないかだ。やらなければ自分もあの子もひどい目に遭わされるのは目に見えている。
狭いなか、身をよじらせてなんとか左肩を工具箱に当て、次に両足を壁に。
すーっと息を吸う。そして意を決して思い切り壁を蹴る――――!
たちまち肩に痛みが走り、たまらずにフランチェスカは悲痛な声をあげる。
映画じゃ、一発だったのに……!
関節が外れた気配はない。ならば何度も繰り返すまでだ。
痛みと声をあげるのをなんとか堪えながら、何度も蹴る、蹴る、蹴る!
一方、運転席と助手席ではトランクから聞こえる悲鳴と物音に気づいて、ブレーキを踏む。
「うるさいじゃじゃ馬娘だ! 犠牲祭で暴れる羊じゃあるまいし!」
「このままだとバレる恐れがある。大人しくさせよう」
運転席の男が上着の懐に手をやるのを見て、助手席の男が「銃はまずいぞ」と言うが、取りだしたのはケースだ。
中から注射器と液体の入った小瓶を取りだす。
「おとなしくさせるにはこれに限る。お前はここで待ってろ」
小瓶から液体を吸い上げ、真上に向けてちゅーっと出す。
ドアを開けて、トランクのほうへ回り込む。そしてロックに手をかけた。
「騒ぐな。おとなしく……」
いきなり開いたトランクの蓋で下顎と上の歯が砕け、そのまま地面に倒れる。
開いたトランクから蹴り上げた黒タイツを覗かせるのはフランチェスカだ。
そしてゆっくりと立ち上がる。縄の拘束はすでに解かれており、不自然にだらりと下がった左腕がそれを物語っていた。
「おい、今のはなんだ!?」
助手席から飛び出した男が目にしたのは革靴の裏だった。
「がッ……!」
飛び込み蹴りで男の左頬に滑り止めのギザギザと足囲を表すBの表記をくっきりと刻み込む。
「レクス・タリオニス……目には目を。殴られた右頬のお返しよ」
肩で息をしながらなんとか立ち、鼻血をぐいっと袖で拭う。
「修道女なめんな」
すぐにこの場を離れなければならないが、まずその前にすべきことがある。
頭のヴェールを取って左の手首に巻き付け、端をトランクに置いて次に足で挟む。
深呼吸を何度かしてから、思い切り腕を引っ張る。
ごきりと鈍い音を立てて、骨が嵌まるのを見習いシスターは悲痛な叫びを上げながらも、その体に感じた。
その場に倒れ込み、激しく息を吸って吐く。痛みで涙がとめどなく溢れ出た。
「うぅ~……痛い、マジでいたいよぉ……」
はっ、はっと浅く速い呼吸からやっと深く息を吸えるようになってから、ふたたび立ち上がる。
地面に落ちたヴェールを拾いあげ、三角巾の代わりにして応急処置を施した見習いシスターはそのまま街のほうへと向かった。
†††
「はい、申し訳ありません。実はトラブルが生じまして……手違いで商品の仕入れが滞りまして……現在、部下達に探させております。はい、はい……ええ、もちろんです」
取引先との通話を終え、受話器を戻すとムスタファは額の汗を拭う。だが痛みが走った。
「っゥ! あのガキめ……」
水で濡らしたタオルを当てる。
今ごろは解体工場で処理されているところだろう。問題は商品をどうするかだ……。
ふぅと溜息をつく。
最悪、またどこかから仕入れるか……
その時、玄関からノックの音だ。
部下ならノックせずに入ってくるはずだが……? それに、処理が終わったにしても早すぎる。
「アル? 戻ってきたのか?」
一縷の望みをかけてムスタファはいそいそと玄関へ向かう。
「アル、お前なのか?」と扉を開ける。
次の瞬間、ムスタファは吹き飛ばされた。
「? ……!?」
鼻からとめどなく溢れる鼻血を押さえながら玄関に立つ来訪者を見る。
そこに立っていたのはアルではない。見習いシスターのフランチェスカだ。
金髪は乱れ、顔は頬が腫れ、左肩には三角巾代わりにしたヴェールで吊っている。
「返品よ。あいにく天国も地獄も引き取ってくれるひとはいなかったわ」
殴った右手が痛むのか、ぷるぷると振る。
「お、お前……生きてたのか……」
鼻を押さえながら、片手で指さす。
足音荒く近づいてくるフランチェスカにムスタファは恐れをなして這いつくばりながら逃げ出そうとする。
その惨めな様はなんとしてでも生にしがみつこうとする地獄の亡者そのものだ。
「ひ、ひぃ……」
だんだんと足音が近づく。
書斎へ……あそこへ逃げ込めば、なんとか……!
だが、それ以上前に進めない。後ろを見ると、ジェラバの裾を見習いシスターの革靴で踏まれていた。
「た、頼む……! 金はいくらでも払う! だから命だけは……」
ムスタファの命乞いにフランチェスカが首を振る。
「無様ね。路上の物乞いのほうがもっとマシよ」
ごきりと拳に力を込める。ひっとムスタファが息を吞む。
「た、頼む……」
ムスタファが彼女の背後に目をやる。するとたちまち破顔した。
「お前たち、戻ったか!」
「えっ?」
振り向くと、誰もいない。ブラフだと気づいたときにはムスタファに足を掴まれ、そのまま転倒した。
すぐに起きあがろうとするが、首を掴まれる。
「これで形勢逆転だな! よくも商談を台無しにしやがって!」
馬乗りになったムスタファがまくし立て、唾が彼女の顔に飛ぶ。
「俺がこのビジネスを軌道に乗せるまでどのくらい時間とカネがかかったと思ってるんだ? あ?」
首を掴む手にますます力を込める。見習いシスターの口からひゅーひゅーと弱々しい呼吸音が漏れる。
右手でなんとか抵抗を試みようとするが、片手ではどうにもならない。ただ両足をばたばたさせるだけだ。
「えぇい、うるさい!」と平手が飛ぶ。
次に左肩を力強く掴む。廊下に悲痛な叫びが響く。
「痛いわ!」
「あたりまえだ! アルの代わりに、お前の臓器で穴埋めにしてやる!」
首を絞める手にさらに力が加わると、それまで抵抗を続けていた右手が弱々しくだらりと下がり、ぱたりと床に落ちた。両足もすでに動くのをやめている。
あ……やばい……いたみ、かんじ、なくなってる……。
涙がつぅっと垂れ、鼻からは血と混じった鼻水が出る。
だんだんと意識が遠のくなか、足音が聞こえてきた。それに気づいたムスタファが顔をあげる。
「先生を離せ!」と誰かがムスタファをぽかぽかと叩く。
アルだ。駆けつけてきてくれたのだ。
だが、大人の力にはかなわない。
「うるさい!」とはねのける。だけど、それでいい。
絞めていた手の拘束が緩んだ。
アルがつくったチャンスを無駄にしてはならない。一瞬の隙をついて、フランチェスカはありったけの力を込めると、ムスタファの顔面に頭突きをお見舞いした。
「ぶが……っ!」
強烈な頭突きを喰らったムスタファはそのまま後ろにのけ反ると、それきり動かなかった。
「げほっ! げほっ……」
首を押さえながらなんとか呼吸を取り戻す見習いシスターにアルが駆けよる。
「先生! だいじょうぶ!?」
「ありがと、アル。あんたのおかげで助かったわ……」
「おれ、先生がいつまでも戻らないから、心配で……それで……!」
泣きじゃくるアルの頭を撫でてやる。
「もう大丈夫よ……終わったの。それより、警察を呼びましょう」
十分後、メディナにサイレンが鳴り響いた。