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第42話 『SKYFALL』⑫


 翌日の日曜。太陽の光を受けて伸びた影が自分の身長と同じになろうという時――。

 フランチェスカはひとり、リヤドの中庭のテーブルに腰かけていた。


「…………おそいなぁ、アル」


 いつもならこの時間になると必ず来るのだが、待っても来る気配がない。


 あと二日しか勉強する時間ないのに……。


「きっと用事があって来れないのよ」と洗濯物を干し終えたファティマおばさん。

「むー……」

 

 その時、この日二回目のアザーンが流れてきた。


「礼拝行ってくるわね」

「うん……あ、そうだ。あの子が来てるかどうか、見てくれる?」

「いいわよ」

 

 ファティマおばさんが帰ってくるまで、フランチェスカはしばしマリクと戯れる。


 いったいどうしたのよ、アル……。


 しばらくしてから礼拝を終えたファティマおばさんが帰ってきた。


「おかえり。どうだった?」


 だが、おばさんは首を振るだけだ。


「あの子が露店している場所にも行ってみたけど、いなかったわ」

「そう……やっぱり今日は来れないのかな」

「なるようにしかならないわよ。すべてはアッラーのおぼし召しさね」


 しょげる見習いシスターの頭をぽんぽんと優しく叩く。


「うん……あ、そういえば昨日いいところに連れてってくれるって言ってたけど?」

「まだちょっと早いけど行きましょうか?」

「どこに?」

「着いてからのお楽しみよ。換えの下着とタオルを持ってらっしゃい」 

「下着とタオル? てことはお風呂?」

「そんなもんだね」


 滞在中、シャワーしか浴びてこなかったフランチェスカはすぐさま下着とタオルを取りに部屋に戻った。


 †††


 ふたりは並んでスークのなかを歩く。ふたりがいるのはバブーシュと呼ばれる、動物の皮で作られたスリッパの店が並ぶ区画だ。


「いろんなのがあるわね」


 フランチェスカが歩きながら色や形、様々な飾りのついたバリエーション豊かなバブーシュを眺める。


「お土産に買おっかな?」

「買うんだったらちゃんと選んだほうがいいよ。ここは乾燥してるから、あまりニオイしないけど、スペインに帰ったらにおうわよ」

「マジ?」

 

 スークを歩きながら雑談していると、目的地に着いたらしく、ファティマおばさんが「ここだよ」と指さす。

 それは白い壁に入口がふたつに分かれており、例えるなら公衆便所のような造りだ。

 「女性はこっちだからね」と右側の入口へ入り、受付の女性に料金を支払う。

 受付の女性と二言三言交わして、フランチェスカへ向き直る。


「アカスリはどうと聞いてるけど?」

「ぜひ! お願いします!」


 脱衣所で衣服を脱ぎ、見習いシスターがパンティーを下ろそうとしたので、ファティマおばさんが止める。


「パンツはそのままでいいのよ」

「そうなの?」

 

 見ると周りの客も下着をつけたままだ。さすがにブラジャーは外しているが。

 タオルを胸に当てて、奥へと進むとむわっと熱気がこもった浴場へ。

 タイル張りの壁と床に、天井からは淡い光が灯されたランプの下ではめいめいがリラックスした状態で腰かけたり、寝そべっている。


「なんか温度の低いサウナって感じ」

「まずはここでお湯と水を入れるのよ」

 

 そう言うとファティマおばさんは備え付けのバケツを取ってふたつの蛇口から湯と水を注いでいく。

 いっぱいになるとバケツを持って手頃な場所へと。


「ここで体を洗ってね」


 スポンジをバケツに入れ、じゃぶじゃぶと水を吸わせてから石けんで泡立てて体を洗い始めたので、見習いシスターもそれにならう。


「湯船はないのね」

「そりゃ高級ホテルとは違うからね。背中洗ったげるわよ」


 こっち向きなさいとされるがままに背中を洗われる。


「くすぐったい!」

「我慢おし!」

 

 ひととおり終わると、バケツから手おけで泡を流していく。

 

「さ、次は髪を洗うわよ」

「それぐらいあたしひとりで出来るって……わぷっ!」


 問答無用でバケツで髪を濡らされたので、これもされるがままだ。

 すぐさまシャンプーを垂らされ、手際良く指の腹でマッサージするように頭の上で泡立てる。


(かゆ)いとこ、ないかい?」

「別にないわ」


 ファティマおばさんのしゃかしゃかと力強い洗髪は少し痛かったが、それでいて心地良かった。

 まるで小さい頃、母親に洗ってもらったときの感覚だ。

 感慨にふけっていると、ファティマおばさんがぽつりと呟いた。


「……あたしね、子どもがいたの」

「え?」

「ここに来る前にタンジェにいたって話したわね? 昔そこに住んでたときに妊娠したんだけど、流産でね……」

「…………」


 おばさんの手おけで髪に付いた泡が流される。


「もし生きていたら、ちょうどあの子と同じ年頃ね」

 

 アルのことだろう。


「それで夫と別れて、ここマラケシュに逃げるようにしてやってきたというわけさね」

 

 ごしごしとタオルで荒っぽく拭かされる。


「はい、おしまい。ちょうど(あか)すりの人が呼んでるよ」


 見ればなるほど、垢すり専門のスタッフが手招きしていた。片手には垢をするための手袋を嵌めている。

 「ツァルヒー、ツァルヒー」と床に敷かれたマットを指さす。

 横になってと言っているのだろう。うつぶせで横たわると、すぐさま背中を擦られた。


痛い!(アウチ!)

 

 だが、お構いなしにどんどん擦られ、その度に垢がボロボロと取れていく。


「わ、こんなに取れるんだ……恥ずかしい……」


 あらかた垢を取り終えると、最後はゆるま湯を全身にかけて洗い落とす。


「ビッサハワラハー?」

「え?」

「さっぱりしましたか? と聞いてるんだよ」と横にいるファティマおばさんがそう教える。

 「はい!(イィエ!)」と滞在中に覚えたアラビア語で応え、「ありがとう(シュクラン)」と礼を言うと、にっこりと微笑む。


「ラ ショクラァ ア ラ ワージブ(どういたしまして)」

 

 †††


「あースッキリした!」

 

 ハマムを出たフランチェスカの開口一番にファティマおばさんが「気に入ったようだね」と頷く。

 時間はすでに日没だ。やがて訪れる夜を告げる薄紫色と沈む太陽から発するオレンジ色の光線で空を彩っていく。

 薄明の時間帯(マジックアワー)の下、ふたりは喧騒に包まれた帰り道を歩く。

 その時、四回目のアザーンが鳴った。


「礼拝行ってくるから、ここで待っててね」


 ファティマおばさんがモスクへ向かおうとして、くるりと踵を返す。


「今夜は外食しましょ! 礼拝のあとで美味しいところに連れてくからね!」

 


 二十分後。礼拝を終えたファティマおばさんに連れられてやってきたのは、ジャマ・エル・フナ広場にあるレストランだった。


「わっキレイ! 幻想的!(ファンタスティコ!)


 三階のテラス席からはしゃぐフランチェスカの眼下には、活気溢れる広場が見渡せた。

 

「さ、こっちに座って」

「はーい」


 純白のテーブルクロスが掛けられた席につくと、ウェイターがメニューを持ってやってきた。

 英語表記もあるので、気軽に頼める。


「えーと、モロッカンサラダと、野菜のタジンに……あ、あとハリラスープを」

「かしこまりました」

「あんたハリラ好きねぇ。うちで何杯もおかわりしてたし」

「だって美味しいんだもん!」

 

 しばらくして運ばれてきた料理に舌鼓を打ちながら談笑し、デザートのバクラヴァでしめると、最後にミントティーでひと息つく。


「あー美味しかった!」

「そりゃなにより」


 ファティマおばさんがグラスを置いて外に目をやる。

 依然として広場は賑わっていた。


「あたしゃね、ここから眺める景色が好きなんだよ。富めるものもそうでないものもが、共に暮らしているこの街の景色がね……もっとも、ここにはたまにしか来れないけど」

「うん、あたしも好き。お互い人種や宗教は違うけど、これに関しては賛同するわ」


 ふたたびミントティーのグラスを傾ける。


「あと三日で帰るんだろ? 今のうちにしっかりと目に焼きつけとくといいよ」

「うん……学校の授業はあさってまでだけどね……」

「あの子が気になるんだろ?」

 

 見習いシスターがこくりと頷く。

 

「彼に勉強を教えられる日が、二日しかないから……」

 

 それに、と向き直る。


「彼、まだ海を見たことがないの。だから、なんとしても連れてってあげたいなって……」

「それじゃなんとかしないとね」

「うん……」

「大丈夫さ。アッラーはすべてを見てくださってるからね」

「そうね、あたしの神さまも見てくれているといいけど……」

 

 あははと宗教の異なるふたりが笑う。

 ファティマおばさんがミントティーのグラスを手に。


「お酒じゃないけど、あんたとあの子のために乾杯」

「じゃ、あたしはおばさんとこの素敵な夜景に乾杯」


 カチンと心地良い音が響く。


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