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第42話 『SKYFALL』⑨


 ジャマ・エル・フナ広場から車で15分ほどの場所にある病院の廊下をフランチェスカは歩いていた。

 薬品や消毒液の臭いのする病室のひとつの中へと入る。そこにはベッドで横になっている女性が。


「あら、シスターフランチェスカ。お見舞いに来てくれたのね」

「お久しぶりです。シスターマルタ」


 先輩であるシスターにぺこりと挨拶を。マルタが「どうぞかけて」と指さした椅子に腰かける。


「ごめんなさい。私が体調不良で入院したばかりに……あなたに迷惑をかけたわね」

「いえ、お気になさらずに」

「そういえば、フランス語の授業はどう?」

「それがもうレベルの高い子たちばかりでして。今日も私の出る幕なんてないんじゃないかって思うくらいで……大人と変わらないみたい」


 やっぱりねとマルタがふふと笑う。そして少し顔を曇らせる。


「ねぇ、フランチェスカ」

「はい」

「あの子達は、競争心が強くて、自己の利益のために勉強してるような印象を受けたわ。授業をしていて、だんだんとあの子達のためになっているのか自信がなくなっちゃったの」

「私もそう思います……」

「私のしていることって、正しいことなのかしら……って、シスターがこんな弱音吐いちゃダメね」


 ごめんなさいと謝るマルタにフランチェスカが首を横に振る。

 シーツからマルタの手が伸び、見習いシスターの手を握る。


「心苦しいけど、あの子達をお願いね。シスターフランチェスカ」

「先輩は休んで体を治してください。それじゃ私、そろそろ行きますから」

 

 †††


「はい。シスターマルタの体調はまだ完全には回復していないようです。はい、はい……引き続き、講師を務めます」


 受話器を耳に当て、片手で崩しておいた硬貨を電話機に入れるとちゃりんちゃりんと鳴った。


「私からの報告は以上です。ではまた」


 ビルバオの神学校への報告を終えたフランチェスカは受話器を戻して、公衆電話屋(テレブティック)の建物を出る。スマホからでは高額な通話料金がかかるため、街にある公衆電話屋から国際電話をかけるのだ。

 ふわぁっと欠伸をしながら見習いシスターはリヤドへの帰路につく。

帰路の途中では相変わらず様々な商品を扱う露店が並び、物乞いがチップを入れるコップを通行人に差し出す。

 そのコップにフランチェスカが余った小銭を入れてやると、アラビア語で感謝の言葉を述べる。

 ふと、隣の露店を見る。様々なジャンルの本が並んでいるところを見ると、書籍を扱う露店なのだろう。

 なんとなしに見ていると、一冊の絵本が目に留まった。親亀の上に子亀が乗っている表紙だ。


「なつかしー。小さいときに読んでもらったやつだわ」

「10ディルハムだよ」と店主が手をパーの形にする。

「高いわよ。6ディルハムにまけて」

「9ディルハム」

「7ディルハム!」

 

 店主が肩をすくめる。交渉成立だ。当初は面倒だったこのやり取りも今は楽しくなってきた。

 紙幣を渡して絵本を受け取ったフランチェスカはふたたび帰路につく。


 †††


「ただいまー」


 リヤドに着くなり帰宅を告げると、「おかえり」とファティマおばさんが出迎える。


「あの子、アルだったわね? 今日も来てるわよ」


 おばさんが指さす先には確かにアルが中庭の椅子に座っていた。

 フランチェスカに気付くと、ぱあっと顔を明るくする。


「おかえり! ムダリサ(せんせい)!」

「ただいまアル。というか、仕事はいいの?」

「がんばってうってきた! はやくべんきょうしたいから!」

「いい心がけね。そうそう、今日は良いもの持ってきたわ」

 

 じゃん! と言って出したのは露店で購入した絵本だ。

 

「字読めるようになったから、今度はこの本を読みましょ」

「ありがとう!」



 ――――わあっ! とはじめて海を見た子ども亀は大喜びしました。


 いつかまた一緒に行きましょう。そうお母さん亀と約束してふたりは家へと帰りました。


 「おしまい」とアルが締めくくると先生役の見習いシスターがぱちぱちと拍手を送る。


「すごいじゃない! すらすら読めてたわよ!」

「えへへ……ありがと。でも、わからないところがあるんだけど」

「なに? どこがわからないの?」

「その……」


 恥ずかしいのか、なかなか言い出せないでいる。少ししてから意を決して口を開く。


「『うみ』ってなに?」

「え? うみは海よ。海水というしょっぱい水がすごーくいっぱいあるところよ。見たことないの?」

「うん……おれ、まだそのうみっての、みたことないんだ」

「そうなの……あ、もしかしたら」


 ちょっと待っててねとポケットからスマホを取り出すが、圏外になっている。


「あ、そっか。ここネット繋がらないんだっけ」

 

 ならば撮影した画像の中にないかとアルバムを開くが、一枚も見当たらなかった。


 そういえば、ここんとこ海行く機会なかったもんね……。


 ふぅと溜息をついてスマホをポケットにしまう。ふと名案が浮かんだ。

 

「ね、今度はかけ算覚えてみない?」

「かけざん?」

「そ。これを覚えるといろいろと便利よ。まぁ、九九を覚えるのが大変だけどね」


 アルがうへぇと顔を曇らせる。


「文字、おぼえるだけでも大へんだったのに……」

「じゃ、こうしましょ。九九を全部覚えられたら、海に連れてってあげる」


 フランチェスカの提案にアルがぱあっと顔を輝かせた。


「ホントに!? おれ、がんばっておぼえる!」

「その意気よ! じゃ早速始めるわね」

 

 アルがノートを開こうとするところへ、ファティマおばさんが二人の前にやってきた。

 そして手にしていたものをどんとテーブルに置く。

 小さな黒板だ。チョークも付いている。


「これがあれば便利でしょ? 近くのスークで売ってたのよ」

「素敵! ますます学校らしくなったわ!」

「ありがとう! おばさん!」

「いいのよ。これから洗濯物を取り込んでくるからね。しっかり勉強するんだよ」


 そう言ってファティマおばさんは(かご)を手にして戻る。

 建物のなかに入る前に振り向くと、ふたりは黒板を手に入れた嬉しさではしゃいでいた。

 やれやれと首を振るファティマおばさんの顔はどこか嬉しそうだ。


 †††


「つまり、4がみっつあると12になるの。わかる?」


 黒板に式を書きつけたフランチェスカが問う。


「えっと……4がみっつで……」


 指折り数えるが、十本の指では足りない。


「ちょっとまってね。こうしたほうが分かりやすいかも」

 

 ポケットからガムを取りだして中身をテーブルに出す。


「いい? このガムを四つごとに袋に入れるとするの」

 

 そう言いながらガムを四つに分けていく。


「これで3セット揃ったわね。試しに数えてみて」

「うん」


 ひとつ、ふたつ、みっつと数えていき、やがて最後のガムまできた。


「ほんとだ! ちゃんと12個ある!」

「ね? 九九を覚えれば、いちいち数える必要がないの」

「すごいや!」

「じゃ、これはわかる?」

 

 今度はそれぞれひとつずつ抜いて、三つごとにした。すると要領を飲み込んだのか、すぐに答えが返ってきた。


「9個!」

「正解! これなら九九を全部覚えるのも夢じゃないわよ」

 

 抜いたガムを口に放り込んで噛むと、ぷぅっと膨らます。

 アルも負けじと口に放り込んで膨らますが、ぱちんと割れたので、中庭に二人の笑い声が響く。


 †††


 その日の最後のアザーンを終えた後に、テーブルに今夜の夕食であるクスクスが出される。

 

「お疲れさん、今日は金曜日だからクスクスだよ。モロッコでは金曜日はクスクスの日と決まってるのさ」

「そうなの? キリスト教でも金曜日は魚を食べる日と決まってるわ。ま、あたしにはカンケーないけどね」


 授業を終えたフランチェスカが「いただきます」とスプーンで世界最小であるパスタをすくう。

 

おいしっ!(デリシオーソ!) プチプチしてて美味いわ!」


 挿絵(By みてみん)


「授業の進捗はどう?」

「あの子、物覚えが早いわよ。正直言って、学校でフランス語教えるよりこっちのほうが楽しいわ!」

「そうかい、そりゃ良いことだよ。そういえばあんた、あの子に海を見せるって約束したけど、間に合うのかい?」

「あー……ハッキリいって時間はあんまりないわね」

「そう……もし行くことがあったら、エッサウィラが近いよ。ここから車で三時間くらいかかるけどね」

 

 滞在期間はすでに6日目だ。当初、10日間の滞在なのだから、残り4日しかない。


「すぐに連れて行くことも出来るけど、あの子と約束しちゃったしね……九九を全部覚えられたら、海に連れていくって」


 せめてあと少し時間があれば……とそんなことを考えていると、電話の音が鳴った。フロントのほうからだ。

 ファティマおばさんがフロントへ駆け足で向かう。

 フランチェスカは背中でファティマおばさんの応答を聞きながらクスクスを口に運んでいく。

 

「フランチェスカ!」

「んぐっ! な、なに?」


 驚いてクスクスを詰まらせた見習いシスターがどんどんと胸を叩く。


「あんたに電話よ! 病院から!」


 駆け足でファティマおばさんのもとへ来ると受話器を受け取る。


「もしもし?」

「シスターフランチェスカ?」と訛りのある英語だ。

「私はマルタの担当医です。申し上げにくいのですが、退院の延長をせざるを得なくなりました……」

「シスターマルタは大丈夫なの!?」

「落ち着いてください。今のところは大丈夫です。ですが、予断は許されません」

「それで、退院はどのくらい?」

「そうですね……あと五日はかかると見ておいたほうがいいでしょう。なにぶんここは田舎の病院で、医薬品が不足していまして」

「そう……わかりました……神学校へは私のほうから報告します。シスターマルタをよろしくお願いします」

 

 ではこれで、と受話器を戻す。


「どうだったんだい?」

「今のところ心配はなさそうよ。滞在期間が一日伸びただけ」


 でも、と続ける。


「逆にこれはチャンスよ。絶対に、あの子に海を見せてやるわよ」


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