第42話 『SKYFALL』⑤
マラケシュ・メナラ空港――
モロッコの名前の由来となった都市の最寄りの空港にて見習いシスター、フランチェスカはスーツケースを転がしながらロビーを歩く。
目指すはタクシー乗り場だ。
空港の外に出ると、刺すような太陽の光が照らす。彼女の青い目には眩しすぎるくらいだ。
手で庇をつくると、声をかけるものがあった。
「ガゼル! アジ ヘナ!」
聞き慣れない言葉で話しかけてきたのはタクシーの運転手だ。こっちへ来るよう手招きしている。
「ええと、スペイン語かフランス語わかる? 英語でもいいんだけど」
だが運転手の中年男性はお構いなしにアラビア語、正確にはモロッコ方言でまくし立てるだけだ。
このままではらちがあかない。
「ちょっとまってて」とトートバッグから一冊の本を取りだす。
ぱらぱらとページをめくり、やがて探し当てた。そしてゆっくりと正確に発音する。
「ブギーッツ ヌムシー ル ヘナ(ここに行きたいの)」
会話帳を片手にメモを見せる。メモには住所が書かれていた。
運転手が受け取ると、「OK、OK」とでも言うようにこくこくと頷く。
運転手がスーツケースをトランクにしまう間、フランチェスカは後部座席へと乗り込む。
運転手が運転席におさまると、すぐに発車するかと思いきや、なかなか発進しない。
「ねぇ、出発しないの?」
だが、アラビア語で何を言っているのかわからない。
やがてしびれを切らしたか、運転手が下手な英語で「ワンハンドレッド!」と連呼する。
「ワンハンドレッド? タクシー料金のことを言ってるの?」
モロッコの通貨はディルハムだ。100ディルハムだとすると――
「8ユーロ(約1100円)じゃない! ぼったくりよ!」とガイドブックから顔をあげて猛抗議。
モロッコの物価や空港から街までの距離を鑑みても、この料金はべらぼうに高いと言わざるを得ない。
すると今度は手をパーの形にして、もう片手の指を四本に。90ディルハムだ。
見習いシスターが首を横に振ると今度は指を三本に。
「ダメ! 70ディルハム!」と対抗するように指で表す。
あきらめたか、運転手がまた「OK、OK」とでも言うように肩をすくめ、やっと車を発進させた。
はぁっと溜息をつきながらフランチェスカはシートに頭をとすんと預ける。
そして修道服のポケットからガムを取りだして口にほうると、クチャクチャと噛む。
最悪!
一気に疲れが出た感じだ。
明朝にビルバオからマドリードへの飛行機に乗り、そこからマラケシュ行きの便に乗り換えてやってきたのだ。
窓枠に肩肘をつき、ふたたび溜息をつくといきなり音楽が鳴り始めた。
ラジオから現地の音楽が流れ、運転手が調子外れで歌うのだからたまったものではない。
プーッとガムを膨らませ、ぱんっと破裂させる。
「勘弁してよ!」
文句たらたらのスペイン語は運転手には空しく響くだけだ。
†††
空港から15分ほど走らせると、マラケシュ市内に到着した。
タクシー代のディルハム紙幣を渡すと、運転手は礼もそこそこにすぐその場を走り去った。
フランチェスカはあきれ顔で首を振り、スーツケースを転がす。
目指すはジャマ・エル・フナ広場にあるリヤドと呼ばれる民宿だ。
「それにしても暑いわね……」
赤地に緑のダビデの星の旗が風になびくなか、淡いピンク色に囲まれた壁を抜けた先にある広場では屋台や露店が並び、店先には果物、金属製のポット、アクセサリー、ラグと呼ばれる絨毯が所狭しと並ぶ。
あちこちからアラビア語や片言の英語による威勢のいい声で観光客に声をかけ、日本人と見れば「コンニチハ!」とこれまた片言の日本語で挨拶を。
喉が渇いてきたので、どこか飲み物を売っているところがないか探していると、店先にオレンジが並ぶ屋台から店主が声をかけてきた。
「リモン! リモン!」とオレンジを手に連呼する。
「レモン? オレンジじゃないの?」
すると店主がジェスチャーでコップを手に持って飲み干す仕草をした。
「生搾りなんだ? 一杯ちょうだい!」
硬貨を受け取った店主がオレンジを半分に切り、それを搾り器にかける。
てこの原理で押しつぶされた果肉から果汁があふれ、下のプラのコップへと溜まっていく。
いっぱいになると「どうぞ」と手渡され、ストローで思い切りずぼぼっと吸うと、搾りたて独特の新鮮な味わいだ。
「おいしっ!」
コップを片手にそのままスーツケースを転がして市場の奥へと進む。ふと横を見ると、地面にシートを敷いただけの露店が。
並べられた商品のそばに、おそらくは店番であろう10歳くらいの少年が座っていた。
あんなまだ小さい子どもも仕事してるんだ……。
横目に見ながら、見習いシスターは奥へと進み、広場から狭い路地へと入っていく。材木が幾重にも組まれた簡易な天井の下でも店が並び、通行人にしきりに声をかけるものもいれば、やる気がないのか堂々と居眠りするものもいた。
「それにしても、すごいにおいね……」
なめし革と香料、生肉が腐ったような臭いが混ざった感じだ。おまけに石畳の床には動物の糞がそこかしこに転がっている。
「うっぷ」と思わず鼻を押さえる。
早くリヤドに行かないと……!
メモに書かれた地図を見るが、簡単な地図ではこの入り組んだ迷路のような場所ではわかりにくい。
誰かに聞こうとあたりを見回すと、スカートがくいくいと引っ張られるのを感じ、視線を下にやるといつの間にか数人の子どもが集まってきていた。
「おねーちゃん、道わからないの?」
「おれガイド! ガイドする!」
「どけよ! おれがさきにみつけたんだぞ!」
道案内を買って出ようとする子どもたちが我先にと揉める。見習いシスターが止めなければ永久に続きそうだ。
「ケンカはやめて。みんなで行きましょ! ここに行きたいの」
メモを見せると、子どもたちが「そこ知ってる!」と言わんばかりに腕を引っ張っていく。
「ちょ、ちょっとまって! スーツケースを」
見ると別の子どもがスーツケースを押してくれていた。
目的地のリヤドは歩いて5分ほどのところにあった。
「ありがとう! 助かったわ!」
スーツケースを受け取って、リヤドの門を叩こうとしたとき、またスカートがくいくいと引っ張られる。
「なに?」と振り向くと、子どもたちが同時に手を差し出して一斉に唱える。
「「「バクシーシ! バクシーシ!」」」
「バクシーシ?」
意味がわからないとキョトンとすると、子どものひとりが親指と人差し指で丸を作る。お金のジェスチャーだ。
「チップがほしいの?」
そうだと一斉に首を縦に振る。
あげるべきかどうしようか迷っていると、後ろの門が開き、そこからジェルバと呼ばれる民族衣装に身を包んだふくよかな婦人が出てきた。
見習いシスターの少女に群がる子どもたちを見るなり、現地の言葉で怒鳴りながら「あっち行きなさい!」とでも言うように手を振る。
子どもたちが慌てて退散する。
「まって! これお礼よ!」
フランチェスカが逃げ出す子どものひとりにガムを放り投げる。受け取った子どもは歯抜けの笑顔を見せるが、すぐに他の子どもたちが寄こせと群がり、その拍子にガムがバラバラと地面に落ちた。
すぐさまそれらを拾おうとまたケンカを始めたのを見て、見習いシスターはあ然とする。
「あの子達はほんとうの物乞いじゃないんだよ。あんた、代理のシスターでしょ?」
流暢なスペイン語だ。
「え、ええ……フランチェスカ・ザビエルです」
「あたしはファティマ。さ、こっちにいらっしゃい」
ファティマと名乗った、北アフリカ人特有の薄い褐色の肌をした婦人はリヤドの中へと招き入れる。
幾何学模様のタイルが敷きつめられた中庭は吹き抜けになっており、その中心にはテーブルと椅子が設置されていた。
それはまさにアラビア語で『木の植えられた庭』や『中庭のある家』を意味するリヤドの名に相応しい。
「素敵……!」
上を見上げると白い漆喰の壁には、窓がアラベスク紋様で縁取られていた。
その異国情緒たっぷりの雰囲気にフランチェスカはすっかり見とれ、ファティマの「こっちよ」の声で我に返った。
通された場所はフロントらしく、小さなカウンターとその裏には部屋の鍵をしまう棚が並んでいた。棚が三つということは部屋も三つなのだろう。
ファティマはそのひとつの鍵を見習いシスターへと渡す。
「はい、これが鍵ね。部屋はそこの階段を上がって、右に曲がった突きあたりだからね」
「あ、ありがとうございます。スペイン語お上手ですね」
「もともとタンジェに住んでたからね。五年前にここに越して開業したのよ。もっとも、お客さんはあんただけどね」
「お客さんいないんですか? こんなステキなところなのに……」
きょろきょろとあたりを見回す。
「そりゃあんた、ここはわかりにくい場所にあるうえに、部屋数も少ないからね」
「はぁ」
「朝食と夕食はそこのテーブルで食べてね」と中庭を指さし、「ご飯が出来たら呼ぶからね。すぐに出ないと冷めるよ」とにこりと笑う。
「ありがとう、ファティマさん!」
「ファティマおばさんでいいよ。さ、部屋に行っといで」
「はい!」
スーツケースを持って階段の手すりに手をかける。ふと、大事なことを思いだす。
「そういえば、ここのWi-Fiのパスワードってあります?」
「そんなものないよ!」
客が来ない理由のひとつがいま分かったような気がした。
コラム 「モロッコ豆知識」①
オラ! お久しぶり! 今回は作内に出てきた『バクシーシ』についてよ。
バクシーシはイスラム教独特のもので、施しを意味するの。
モロッコ以外にもインドやトルコ、エジプトでもあるわよ。
イスラム圏では豊かなひとが貧しいひとに施しを与えるのは当然って考え方があるのね。それ以外のひとにとってはなかなか受け入れられないことかもしれないけど……
実際、作者がモロッコへ旅したときにも子どもから施しを求められたけど、お金の代わりにお菓子をあげてたの。お金あげるより喜んでたような気がするわね。
子どもにお金をあげるのが正しいことなのかどうかは個人の考えによるけど、なにが正しいかは自分で決めないとダメってことね。
もちろん教会の寄付金は個人の自由よ。え? あたしに寄付したらゲーム代に消えるだろって?
あはは……ソンナコトナイヨー(棒読み)