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第40話 『1990年5月のザグレブ』⑤


 ザグレブ――午後7時。


 イェラチッチ広場近くのスポーツバーはその日も盛況だった。


『セザル選手ゴール決めた! 2-1と追いつきました!』


 テレビのサッカー中継で常連客が盛りあがるなか、カウンターに座するミロシェビッチはひとりスコッチのグラスを傾ける。

 からんと氷とグラスがぶつかる音。


「おい、もう一杯だ」

 

 バーテンダーが無造作に下げられたグラスを手にして首を振る。


「もうやめときな。飲み過ぎだ」

「うるせぇ! 俺を誰だと思ってやがる? ザグレブチームのフォワードを務めてた男だぞ。ブンデスリーガからもスカウトが来たことがあるんだぞ!」

 

 だが、バーテンダーはまた首を振る。


「昔のあんたは名プレイヤーだったかもしれんが、今のあんたはただのツケだらけの酔っぱらいだ!」


 さっさと帰ってくれと出口を指さして、そっぽを向く。


「クソ……どいつもこいつも……」


 カウンターに突っ伏すと、また歓声が聞こえた。おおかたスーパープレーを決めたのだろう。


「うるせぇ! 消せ!」


 ミロシェビッチの怒声に常連客がざわめく。


「この酔っぱらいめ!」

「俺らは応援してるだけだぞ」

「消えるのはあんただろ!」

 

 一触即発状態だ。すかさずバーテンダーが間に入って止める。


「ツケにしてやるから、もう帰ってくれ!」

「言われずとも出てってやるさ! こんな店!」

 

 ミロシェビッチが悪態をついて、傍らに立てた松葉杖に手を伸ばそうとする。


「探したわ。あなたミロシェビッチね? もとザグレブチームのフォワードだった」


 見ると修道服(スカプラリオ)に身を包んだ見目麗しいシスターが。

 ミロシェビッチには彼女には見覚えがあった。昨日、広場で会った娘だ。


「誰かと思えば、昨日俺に怒鳴ってた子か」

「あたしはフランチェスカ。これ、あなたでしょ?」


 そう言って見せたのはスマホで撮った、ドゥブロヴニクのサッカークラブにあったポスターの画像だ。

 野心に満ちあふれた笑顔は間違いなく若き頃のミロシェビッチだ。


「だったらなんだ?」

「あたしと一緒にドゥブロヴニクに来て。あなたにぜひ来てもらいたいところがあるの」

「そんな辺鄙(へんぴ)なとこに来てどうするんだ?」

「あるクラブでサッカーを教えてほしいの」


 はっとミロシェビッチが笑う。


「引退した俺にいまさらサッカーを教えろと? お断りだね」


 松葉杖を取り、カウンターに置かれたビール瓶をひったくって席を立つ。


「おい! それは別のお客さんのだ!」


 だが、ミロシェビッチはひらひらと手を振って店を出た。そのあとをフランチェスカが追う。


「まって! まだ話は終わってないわよ!」

「俺のほうにはないね。さっさと帰んな」

 

 ぐびりとビールを呷る。そしてげっぷをひとつ。

 ただでさえ松葉杖で不安定な足取りは酒でひどい千鳥足だ。

 よろりとふらついて通行人とぶつかった。

 「どこ見てやがる!」と鼻息荒くくだを巻くが、「おっさんこそどこ見てんだ!」と軽く肩を押されただけで盛大に転んだ。

 「ざまあみろ!」と無様に転んだミロシェビッチを嘲りながら立ち去る。

 フランチェスカが悪態をつき続けるミロシェビッチに駆けよって手を貸そうとするが、はねのけられた。


「俺に触るな!」


 ビール瓶を探すが、割れて粉々になっていた。

 「クソ!」とふたたび悪態をつく。

 松葉杖を探そうとすると、目の前で見習いシスターが差し出したのをひったくる。

 転倒した痛みにうめきながらやっと松葉杖を支えにして立ち上がるのを、フランチェスカが見守っていることに気づいた。

 

「なに見てやがる? 身障者の俺をあざ笑ってんのか?」

「お願い。ドゥブロヴニクに」

「うるせぇ! いまさら俺にどうしろってんだ? 見ろ! この足を!」

 

 右足首を見せる。それはくの字のように曲がってしまっていた。


「負け試合でケガしたあげく、ヤブ医者のせいで二度とサッカーが出来なくなった! わかるか!? その後の俺がどんなみじめな暮らしをしてきたか! サッカーは俺のすべてだった!」

「だからこそよ! サッカーのためにもう一度がんばってみようとは思わないの!? あんたはケガを口実にして現実から目を背けてるだけよ。あたしに言わせれば、あんたはピッチにすら立っていない、ただの臆病者(チキン)よ!」

 

 見習いシスターの啖呵(たんか)を背中に受けたミロシェビッチは毒つく。


「けっ! シスターの説教なんか聞きたくねぇ!」


 そのままひょこひょこと立ち去る。


 †††


 ドアベルがからからと鳴ったので、バーテンダーがそのほうを見ると、フランチェスカが立っていた。


「さっきの嬢ちゃんだね。ミルクでも飲むかい?」

「オレンジジュース! まったく……心当たりがあれじゃ、飛行機代のムダだわ!」


 どっかとカウンターに腰を下ろし、ぷんすかと頬を膨らませる。


「嬢ちゃんはなんだってあの男に用があるんだね?」

 

 フランチェスカが経緯をかいつまんで話す。


「そういうわけだったのかい」

「なんとしても彼を連れて行くわよ。このままじゃ修道女(オンナ)がすたるわ!」


 出されたオレンジジュースをがぶりと呷る。


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