第40話 『1990年5月のザグレブ』①
『Bira jednom jedna zemlia.(かつて、ひとつの国があった)』
1990年5月13日――。
ユーゴスラビア、ザグレブのスタディオン・マクシミールはその日、歓声に包まれていた。
『またゴールだ! ベオグラードチームのイヴァノヴィッチ選手が決めた! これで2-0です!』
実況の声がベオグラードチーム側のサポーターたちの歓声によってかき消される。対してザグレブチームのサポーターからはブーイングの嵐だ。
一方、ベンチではザグレブの監督、マルコヴィッチがコーチと二言三言言葉を交わした後に審判に申請を。
そしてベンチに腰かける選手のひとりに声をかける。
「交代だ。ミロシェヴィチ、やれるな?」
「もちろんです!」
そう答えたミロシェヴィチは腿をパンッと叩いて、立ち上がる。
『交代です! マティッチ選手の代わりにミロシェヴィチ選手が出ます!』
観客やサポーターの声援を受けながら、フォワードであるミロシェヴィチはピッチの定位置へと。
ここから巻き返してやる!
闘志を剥き出しにして、赤いユニフォームを着た相手チームを睨む。
審判の耳をつんざくホイッスルが鳴り、試合再開だ。
『ボールを制したのは、ザグレブのコヴァックだ!』
コヴァックがドリブルで敵陣を突き進む。だが、やすやすとそれを許すレッドスターではない。
すぐにサイドバックの選手がぴたりと張りついてきた。
舌打ちをくれると、ボールを斜め後ろへとパス。
『コヴァックからイヴラモビッチへパス。そこからミロシェヴィチへボールが渡ります!』
ボールを受け取ったミロシェヴィチはゴールを目指すべく、果敢に攻めるが、ベオグラードのほうが一枚上手だ。
絡め取られるようにボールを奪われ、奪い返そうとした時にはすでにボールは他人の脚に渡っていた。
『ザグレブ、防御が崩れました! ベオグラードが攻めます! キーパーが前に出る!』
イヴァノヴィッチがボールを蹴りだすタイミングを見極め、キーパーが予測して構える。だが、イヴァノヴィッチはシュートを決めようとはせず、横へとパスした。それでキーパーの反応が遅れる。
『イヴァノヴィッチからヤネクへとパス! キーパー間に合うか? 間に合わなかった! ゴールだ! これでベオグラード三点目のゴールです!』
ふたたびスタジアムがベオグラードのサポーターの歓声に包まれた。
「ちくしょう!」
ザグレブのチーム一同が口々に悪態をつき、ミロシェヴィチは芝生を蹴る。
その時だった。スタンドから怒号が聞こえてきたのは。見るとザグレブとベオグラード、それぞれのサポーターが互いを罵り合いながら乱闘を繰り広げている。
次第に物がピッチへと投げ込まれ、誰かが投げた火炎ビンがピッチ上で燃える。まるでそれをきっかけに火蓋が切られたかのように、警備員の制止も空しくサポーターや観客が一斉になだれ込んできた。
それはもはや乱闘ではなく暴動と呼ぶべきものであった。
実況のピッチへの立ち入りや物を投げるのを禁ずる声も彼らには届かない。
「ボサッとするな! 逃げろ!」
チームメイトの声で我に返ったミロシェヴィチはすぐにその場を去ろうと踵を返す。が、後ろからぶつかられてその場に倒れ込む。
地面に倒れる前に赤いユニフォームの後ろ姿が見えたので、ぶつかったのはベオグラードの選手だとわかった。
すぐ後ろで暴動の音が迫る。立ち上がろうと地面に手をつく。
だが、また地面に倒れた。後ろを振り返る間もなく右足首に激痛――――!
サポーターによって踏まれた足首はぐしゃりと鈍い音を立て、気を失う前のミロシェヴィチにはそれこそ、自らの選手生命が絶たれる音に聞こえてならなかった。
それから程なくしてユーゴスラビア紛争が勃発し、スロベニア、クロアチア、マケドニアなどが独立していった。1999年まで続いた内戦は終戦を告げ、ユーゴスラビアは解体した。




