人生迷い道
家に戻ると駐車スペースに軽自動車が停まっている。富美恵が通勤に使っているものだ。駐車スペースは軽自動車二台収まるのにちょうどよい広さと奥行きで、どちらが先に帰宅しても片方が難儀することはない。博之はいつも通りに車を滑り込ませ三回ばかり首を回した。
(さてと腹を括る時が来たようだな)
車のドアを心持ち静かに閉めて玄関へも足音をできるだけ立てずに向かったが、そんなことをしてもリビングからは丸見えだ。富美恵は博之が帰って来たことに難なく気づいた。
「あらずいぶんと早いお帰りね。また身体の具合でもおかしくなったの」
富美恵は博之がパチンコをしている最中に血圧でも上がったのかと言いたげだったが博之の体調不良は積年の疲労に加えて過度の飲酒が原因だった。博之は体調が戻ると再び酒に手を出していた。富美恵のニュアンスにはそれを嗜めたいという響きが込められていたが博之は分かっていながら意に介さない。
「いや、今日はパチンコには行っていない。それより隆則は学校から帰ってるのか。三年生は明日に備えて早く帰されるんだろう。真一は部活か?」
「隆則は友達と出掛けたし、真一は、そう、部活」
素っ気ない質問に素っ気ない返答。博之は富美恵から目を逸らしながら更に素っ気なくしかし躊躇わず本題を持ち出した。
「そうか隆則は一昨日入試も終わって羽を伸ばしに行ったのだな。よし二人とも居ないなら好都合だ。お前に話があるからそこに座ってくれ。ああ昼飯なら要らんぞ、フェリー乗り場の脇でコンビニのおにぎりと菓子パンを食って来た」
「何よあらたまって話だなんて、これから明日の準備と買い物にも行くから手短にお願いね。それとパチンコの軍資金要求はお断りします」
「そんなものは要求しやしない。希望通り手短に行く。こいつに署名して印鑑を押しておいてくれ。俺達はもうこうする他ないんだ。お前はいい加減、俺に愛想が尽きただろう。それに気づかないほど俺も鈍感じゃあない。お前は生活を根本から変えるべきだ。慰謝料はどれだけ払えるか分からないが出来る限り工面する」
博之は突き出すように富美恵に封筒を渡したが中身が離婚届の用紙と分かったとたんに顔色を変えて博之に詰め寄った。
「ちょっとあなた本気で言ってるの。確かに今のあなたはどん底に落ちて自暴自棄になってるけど私は愛想が尽きたわけじゃないわ。でもどこか私も気がつかないうちに接し方が冷たくなっていたかも知れない。そこは反省しなきゃね。そうだあと1年辛抱すれば私達は50代になる。潮目がガラッと変わって好転するかも。根拠も何もない神頼みみたいなことだけど今はそんなことにすがっていい時期なのよ。それに真一も隆則もまだ半人前なんだから」
「すべて承知した上での話だ。何をどう言われようと俺は人間としても父親としても既に失格なんだよ。真一も隆則もお前さえいれば大丈夫だ。俺はこのまま野垂れ死にしようが一向に構わない」
「バカ、どこまでバカなの、とにかく今すぐに離婚なんて私は嫌ですからね。頭を冷やして」
富美恵が目を真っ赤に腫らしながら封筒をテーブルに叩きつけた時だった。それは突然じわりと起こった。富美恵は頭が変に揺れる感覚を覚えて首を振った。
「あら、嫌だ。私も怒ったせいか血圧が上がったかしら。眩暈がする」
「違う。眩暈なんかじゃない、これは地震だ」
博之はさほどいきり立っていなかったのですぐに地震と判断して天井にぶら下がる蛍光灯を見つめた。
「一昨日もけっこう大きいのがあっただろう。それの余震ではないかな。お前は地震に慣れてないからこの揺れ方では眩暈と間違えても仕方ないか」
富美恵は眩暈ではなく地震と分かって身をすくめた。博之が言ったように富美恵はこの土地で暮らす前には大きな地震の経験がほとんどなかった。それに対して博之は震度5程度の地震は物心ついた頃から何度も経験があるので多少の事では驚くこともない。一昨日の地震も震度4を記録したにもかかわらず歩いていたこともあって波打つ電線を見て初めて地震と気づいたくらいだ。しかしこの日の地震はそうした経験を嘲笑うかのような勢いでどんどん揺れが強まってくる。一気に建物を破壊するような揺れではないが支え無しに立っていることは難しい。時おりガツンと揺れの振幅も大きくなってそのたびに柱の軋む音も不気味さを増した。これにはさすがに博之もうろたえた。
「震度5いや6はある。しかしこの揺れ方はなんだ。こんなのは俺も初めてだ。もちろん一昨日の余震などではない。おい、富美恵、外へ出よう。立ち上がると転ぶから這うようにして玄関まで行くぞ。物置の脇でやり過ごすんだ。あそこが一番安心出来ると思う。この家は壊れるなら倒れるんじゃなく二階が落ちて潰れるはず」
二人は物置までたどり着いたが不気味な揺れはまだ続いていた。
(本当に何なんだこいつは。震源地は?地震の規模は?)
地震は強弱を繰り返し止まる気配がなく永遠に続くようにさえ思えた。そんな中で博之は様々な考えを巡らせてみたもののそれでどうなるものでもない。結局揺れは6分ほどで終息したが体感的には時間で測れる代物ではなかった。ただ恐怖から解放された。それだけだ。
「ふう、長かったな。最後は乗り物酔いしたように気持ち悪くなったが地震でそんな状態になったことは初めてだよ。よし一旦家に戻ってテレビで詳細を確認しよう。富美恵は子供達の安否確認を頼む」
博之は家の中が思っていたほど散乱していなかったことに安堵してテレビのリモコンを操作したが画面は無反応だ。
(停電か。もっともあれほどの揺れだ。やむ無しか、まあ一時間もすれば復旧するだろう。となれば携帯ラジオだな)
釣りのタックルではないが博之は釣行の際にはラジオをいつも携行しているのでそれを急いで取り出して電源を入れるとうわずり気味に喋るアナウンサーの声が耳に飛び込んで来た。すぐに欲しい情報は津波の有無、震源地、地震の規模といったところだ。津波が発生となれば震源地とマグニチュードの値で素人ながらだいたいの予測は立てられる。それによって対応を考えることが可能だ。ラジオを聞き始めて5分ほどで欲しい情報が流れた。
「震源地は宮城県沖、深さは24キロ、地震の規模を示すマグニチュードは7・9。岩手、宮城、福島の太平洋沿岸に大津波警報が発令されました。予想される津波の高さは宮城県で6メートル、岩手県で3メートル・・・・・」
博之はそこまで聞いて再び外へ出ると富美恵に真一と隆則に連絡がついたかどうかを訊ねた。真一は学校に居る可能性は高いが遊びに行くと出掛けた隆則が心配だった。
「通話はダメだったけど二人ともメールは通じたわ。真一は学校で待機しながら避難してくる人達の対応に当たるみたい。隆則は4人で山神地区のコンビニに居るって、だからすぐに真一のところ、けせもい高校に行くように返信しておいた。ねえ、やっぱり津波は来るの?」
「うん、震源地は宮城県沖だ。津波は6メートルということだがこれは予想の最大値で実際に来るのは3~4メートルくらいなものだろう。ラジオで地震の規模はマグニチュード7・9と言ってたがそれは1983年の日本海中部地震とほぼ同じだ。俺はあの時の様子をテレビで見てはっきりと覚えている。かなり大きな津波だったが犠牲になったのは海のそばに居た人間だけだ。だからここは最悪でも床上浸水だろう。さて家の中を片付けるか。最初は物も落ちてないかと思ったがよく見ると滅茶苦茶なところもある」
博之が家の中に入ろうとしたその時にまた大きな揺れに見舞われた。さっきの揺れの余韻がまだ残っていた二人は反射的に身をすくめた。
「かなり強い余震だな。もっとも最初のがあんなんだから余震もしばらくの間は来るだろうし今くらいの強さのヤツが来ることは覚悟しておく必要がある。しかし本震のマグニチュードが7・9というのは嘘じゃないのか。数年前の十勝沖地震はマグニチュード8・1だったと覚えているが地震としてはそこそこ強いなって感じだった」
博之は異常なまでに長く強い本震と強烈な余震でこの地震におけるマグニチュードの値に疑問を持った。
(日本ではマグニチュード9クラスの地震は起こらないと何かで読んだことがある。しかし西暦894年に途方もない大津波がこの地に押し寄せた痕跡があってそれについての文献も残っているらしいじゃないか。事実ならば見たことも聞いたこともない大津波に襲われてもなんら不思議ではない)
ボンヤリと考えに耽っていると再びラジオからアナウンサーのけたたましい声が流れた。もううわずってはいなかったがその声音は明らかに差し迫ったトーンであった。
「津波は10メートルを越す恐れがある模様。繰り返します、津波の高さは・・・・・」
「何だって10メートルを越すだと?10メートルってどんな津波なんだ?イメージすら出来ない。待てよスマトラ沖地震の津波、そうだあれだ。まずい間違いなくここまで押し寄せて来る。海からは500メートルと離れちゃいないんだ。おい、富美恵、津波が10メートルを越す恐れがあると予報が変わった。車で逃げよう、1台でいい」
「あなた、車は無理よ。道路を見て」
富美恵が指差す道路にはすでに車が溢れかえり動きも止まっている。大勢の人達がいっせいに車で避難をしたのに加えて停電で信号機がストップしたことも渋滞に拍車をかけているのだ。
「何てことだ、車は出せないのか。ならば徒歩で頑丈な高い建物まで逃げるしかない。ここからは合同庁舎が近いけれど海に向かうことになるからダメだ。そうだ弁財天町のホテルか病院だ。あそこなら高さもある。走れば間に合うかも知れない、よし行くぞ」
門を出ようとした時にバキバキという轟音が鳴り響いた。音がする方向に目をやると黄色い土煙が舞い上がっている。そして渋滞で止まっている車の間を縫うようにして数人の男女が口々に何かわめきながら走って来た。
「津波だ。津波が岸壁を越えた。巨大な水の塊が来るぞ、あんたらも急いで逃げるんだ」
ありったけの力を振り絞って走って来たのだろう。博之と富美恵に投げ捨てるように言った男の声はかすれていた。轟音もより近くで響くようになり黒っぽい何かが迫るのも視界に入り始めた。津波の一波目が建物や車を飲み込みながら押し寄せているのだ。もう残された手段は一つしかなくなった。
「走ろうが歩こうがここから逃げることは出来なくなったようだ。今、飛び出したらあの濁流に飲まれてしまう。二階に上がってベランダから屋根に上がろう。あとは運を天に任せる」
決断と言うより残された選択肢の実行である。二人はともかく急いで二階へと駆け上りベランダの欄干に足を掛けて屋根によじ登った。360度見渡せたが海に近いところは水没したのか形をなしていない。意識的に目を背けた。ふと下を見るとさっきまで茫然と立っていた庭に海水が2メートルほどの高さまで浸水していた。漂流物も壁にぶつかり始めて、ドスンという振動も感じる。家屋の一部、自動車などがどんどん流れて来る。その中にシューシューと音を立てながら白煙をあげ向かって来るのはプロパンガスのボンベだ。油の混じった海水の中で爆発したらという新たな恐怖も沸いて来た。同時に目の前を人も流されて行く。手を差し伸べることさえ出来ないもどかしさも加わる。様々な感情が渦巻いたが、それはすぐに恐怖感一つに絞られた。水の勢いが急速に増して一階の屋根を越えてしまったからだ。
「だめだ。この家も流される。富美恵、腹這いになって屋根の角をしっかり掴め足はテレビのアンテナに引っかけろ。上手いこと流れてくれれば助かるかも知れん。終着点次第だがな」
ふと空を見上げると白く冷たい物がヒラヒラと落ちて来た。雪が降り始めた。
「ちくしょう。このタイミングで雪とは、どこまで非情な仕打ちをするつもりなんだ」
博之は掴まっているトタン板の屋根を思い切り叩いた。確かに恨めしさがさらに増すような雪ではあったが別の危険が迫りつつあった。それに気付いた富美恵は金切り声をあげた。
「ちょっと何なのあれは、お願いだからこっちに来ないで」
一隻の船舶がグングンと近付いて来る。大きさからしてぶつかれば家は形を保てないだろう。そうなれば二人とも濁流に投げ出される公算はかなり高い。博之はため息をついた。すでに家そのものは浮き上がりかけていた。
「あれは漁船に燃料を供給する船だ。どうせぶつかるならそのまま船首から来い。希望的な思いだが家が真っ二つになって粉々にならずに済むかも知れない」
博之は歯ぎしりをした。それどころではないと分かっていながら歯ぎしりをした。
「あなた・・・・・」
「富美恵、すまんなあ。俺がこの地にお前を縛りつけたせいでこんな目に遭わせてしまった。いいか、絶対に生き延びろ。お前には生きてやらなければならないことが山ほどある。翻って俺は生きていてもほとんど役に立たない。この大津波は間違いなく多くの人命を奪うだろう。国から見舞金も出るはず。となれば俺が命と引き換えに最後に出来る最低限のことだ。こんな時に不謹慎かも知れないがな」
「嘘を言わないで、あなたは怖さを打ち消したいだけ。死んでもいいなんて考えてるわけない。私には分かる。何年一緒に暮らしたと思ってるの。だからこの津波と最後まで戦いましょう。何よこんなもん、私もダイバーのはしくれよ。負けるもんですか」
「お前は強いな。さっきまで地震の揺れで真っ青な顔して怯えていた人間とは思えないよ。そして俺でさえ初めて経験する化け物さながらの津波に宣戦布告するとはな」
「忘れないで、私達には四人の人間がついているの。真一と隆徳、あとの二人は・・・分かるわよね」
博之はそれには答えずに船の動きを追った。富美恵の言葉は効果的に作用したようである。感情に流されて捨て鉢になっていた博之に冷静さが戻った。
「船がぶつかるのは避けられそうにないな。船首から来そうだが垂直ってことにはならないだろう。衝撃の力も見当がつかない。とにかくぶつかった時に濁流に落ちないことだ」
津波は更にスピードを増したようで迫り来る船は巨大な弾丸のように思えた。
ゴツン、メリメリ。ギシギシ。
博之の予想通り船首からぶつかったが他の漂流物が緩衝材の役目を果たしてくれたおかげで大破は免れた。しかし家は三つほどに分断されただろう。二人は寄り添っていたので離ればなれにはならなかったがこのままでは博之が言った助かるための終着点には到底向かえるとは思えなかった。不自然な格好でどんどん不安定になって行く残骸と化した家屋にすがり付いていられる時間はそう長くない。漂流物が身体に当たりダメージを受け、低体温症にもなるだろう。二人は声を掛け合い気持ちを鼓舞したがだんだんと体力が奪われつつあることを感じていた。
(クソッもう少し、身体の安定を保てるような物が流れて来ないかな。体力が持たないぞ)
博之は辺りを見回した時に、おお、あれはと声を上げた。富美恵は何事かと力なく博之に訊ねた。
「見ろよ。これ以上ない贈り物が流れて来た」
「もしかしてあの青い大きな箱のこと?」
「そうだ。魚市場で使っている水揚げした魚を入れるタンクだ。ほとんど流れ出したのだろう。遠くに塊になって流れているのもそうだ。あのタンクに乗り移ることさえ出来ればしめたものだ。体力の消耗を防げるし条件付きだが安全な終着点を目指すことも可能だ」
「だけどどうやって乗ればいいの?タンクがこっちに向かって流れて来ないことには無理なんじゃない」
「津波の勢いが弱まっている。引き波に転じる前兆だと思う。富美恵、泳ごう。今しかない。流れて来るのを待つのではなくこっちから捕まえに行くんだ。あのタンクは恭一さんと由里子が差し伸べてくれたんだ。さあ行くぞ」
博之は賭けに出た。家の残骸にしがみついたままでは引き波で外洋に運ばれるかその前に力尽きてしまうかいずれかだ。富美恵がうなづくと同時に二人はタンクを目指してゆっくりと泳ぎ始めた。それでも流される。タンクとの距離はなかなか縮まらない。
(ちくしょう。弱まったとはいえ水の流れる勢いとはこんなに強いものなのか)
今度こそは諦めるしかないという思いがよぎる。だがしかし大型のトラックがタンクに向かって流れて来た。ぶつかれば博之達の居るところまで押してくれるようにも見える。
(さっきの船は御免被りたかったが、このトラックは大歓迎だ。頼むぞ)
博之の祈りが通じたのか、天国の二人の共同作業なのかトラックは最高の形でタンクに激突した。タンクは一気に手の届くところまで迫っている。あとは全力で泳いで捕まえるだけだ。二人は僅差で競ったゴール寸前のスイマーのようにタンクに向かった。わずかに早く博之がたどり着きタンクのヘリを掴んだ。
「よし、捕まえたぞ。富美恵はヘリに手を掛けていてくれ。俺が先に乗ってお前を引っ張り上げる」
博之は懸垂をする要領でタンクに上がりそのまま転がるように中に飛び込んですぐに立ち上がり手を伸ばすと富美恵の手を掴んだ。我を忘れて目一杯の力を出してタンクに引きずり込んだ。二人とも息が荒い。とりあえず最悪の状況からは脱したがここからどうするかだ。津波はどうやら引き波に転じたようでタンクは海に向かって流れ始めた。そんな中、博之は濁流を見つめて何かを探している。富美恵は何をしているのかと訝しんだ。博之は息を整えながら説明した。
「このまま流れに任せていたらどこに運ばれるか分からない。外洋の沖まで行っちまったらそれまでだ。タンクをコントロールするための櫂になるような物が流れて来ないか見ているんだ」
「そうか、さっき言ってた条件とは櫂のことね。それで安全な終着点を目指すということか」
「そういうことだ。こんなクルージングは嫌だろうがやるしかない。と、手頃なのが流れて来た。ちょっと強度に欠けそうだが贅沢は言ってられない。もっとマシなものが見つかったら交換すればいい」
棒状の物体がまとまって流れて来たが一発で掴まなければならない。博之は打席で投球を待つような気持ちでタンクの先端から手を伸ばしてタイミングを測った。
(俺の好きなインローのボールみたいな感じで来るぞ。よし、ここだ)
ドンピシャで数本の棒切れを掴み素早くタンク内に放り投げた。確かに心もとない造りだが使えそうな2本を選んで1本を富美恵に渡した。
「さあて漕いでみるか。その前にここはどこいらなんだ。場所を把握出来れば目指す方向も決められる」
破壊された家にすがり付いていた時には周りを見渡す余裕などとてもなかった。少しばかり安定を得られた今、辺りを見回すと目に飛び込んでくる光景は地獄絵図そのものだった。
「俺達が流されていたのは20分くらいだろうか?そんな短時間のうちに街が壊滅したんだな。ならば犠牲者もかなりいるだろう。今のところ俺達はまだ無事でいるだけだ」
博之は茫然と変わり果てた風景に唇を噛んだ。富美恵も同じ気持ちだったが直視出来ずにいた顔を上げた時に目標となる物に気づいたようだ。
「今、居るのはけせもい大川の近くじゃないかしら、桜並木らしいのが見えるしあれは南けせもい小学校だわ。校舎は無事みたいだけどあそこにも避難した人がたくさん居ると思う。けせもい大橋も残ってるようね。あれ、船も一隻流れてるけど、ウチにぶつかった船だよ」
「何だって、そうだ間違いない。あれがぶつかりさえしなければ翻弄されず済んだ・・・・・いやぶつかったからこそこのタンクに巡り会えたんだ。どっちみち家はダメになることは避けられなかった。さあ、けせもい大橋を目指そう。あそこまでたどり着ければ何とかなりそうだ」
博之はけせもい大橋より上流域は被害が少ないのではと考えた。はっきりとは見えないが橋桁にはかなり瓦礫が引っ掛かっている様子だ。橋から200メートルほど先の上流域にはJRの鉄橋がある。そこまで行けばあとは線路づたいにけせもい高校に通じる道路まで出られる。そう目算を立てた。津波はだいぶ穏やかになったが押したり引いたりを繰り返しいつまた大きな波が襲って来るかという危険は去ったわけではない。不安を抱えながら引き気味の時には出来るだけ同じ場所に留まるようにそして押し波に転じた時には一気に上流に向けてタンクを漕いだ。それを繰り返すうちにけせもい大橋が目前に迫った。両側に聳え立つように漂流物がうず高く重なっている。心持ち左側の方が飛び移り易いように見えるがそこから欄干まで登れるだろうかというくらい不安定な重なり方だ。それでも行くしかない。川を外れて大通りまで漕ぐことも頭をかすめたが、タンクを漕ぐ体力も無くなり早く歩いて移動したい気持ちと追撃の大波に遭うのは避けたい気持ちが目の前にある漂流物の山を登る決意を強固なものにした。
「よし、タンクを横向きにしてそのまま転がり出るように漂流物に乗るぞ。せーの」
博之の掛け声と同時に二人は漂流物に移った。タンクは突き刺さるようにめり込んだ。
「問題はここからだ。どのルートも崩れる危険でいっぱいだ。ゆっくり登るしかない。まずは大波が来ないことを祈ろう」
上を見ながらブツブツと波よ来るなと呟くと橋の中央に人影が確認出来た。
(なぜあそこに人が居るのだ。津波は橋を全て飲み込まなかったのか。いやその疑問は後だ。声を掛けよう)
博之がオーイと叫ぶと60代半ばとおぼしき男が振り向いた。
「おおい、大丈夫か?どこから流されて来たんだ。もしかしてそこに引っ掛かってるタンクに乗っかってたのか。ちょっと待っててくれ、俺の車にロープがある。欄干に結ぶから掴まって登るといい」
男は手早くロープを結んで博之に投げて寄越した。助かりますと頭を下げて富美恵を先に上がらせた。自分はタンクにありがとうと敬礼してから上がったがロープにも助けられた格好だ。かなり強い押し波が来て掴まる物がなかったら下手をすればさらわれたかも知れなかった。
「いや、本当に助かりました。ここまでたどり着ければ大丈夫だと思ってたのがこれではロープが無ければ相当キツかったでしょう。俺達は潮川から流されたんです。逃げ遅れて屋根でやり過ごそうとしたんですが甘かった。あそこに船が見えますけどあれが家にぶつかったんです。もうダメだと諦めて流されているうちにタイミング良くタンクに乗れました」
「そうか、あんたらはツイていたとしか言えないな。俺を含めた何人かはここで流されて来る人間をただ見てるより他なかった。みんな何処へ行っちまったかなあ」
男はまだ止まない雪を見上げながら力なく呟いた。自分もどうなるか分からない紙一重の状況に置かれながらも目の前を流されて行く人間を助けることがかなわなかったのは悔しさがあったに違いない。しかしここに生存者が居ることは津波が橋を完全に飲み込まなかったことになる。博之は腑に落ちなかったこともあって男に疑問をぶつけた。
「津波は橋を越えなかったのですか」
「いや、一番水かさが増した時は両側がすっかり水に隠れたんだが真ん中の10メートルほどだけなぜか免れた。俺達もツイていたんだな」
博之は話を聞き終えて橋全体を眺めたがなるほど真ん中のわずかなスペース以外は水が流れた痕跡が残っている。さらに詳しく話を聞けば男は階下地区の自宅に帰る途中だったらしい。もちろんこんな津波が来ることは頭になかったからいきなり黒い水の塊が襲って来た時は走って高台を目指すことも考えたが心臓の調子が悪いし津波もせいぜい下の道路に溢れる程度だと判断してこの場に留まることにしたと言った。博之は紙一重で助かった人間とそうでない人間を分けたことは何なのかと考えたがその答は永遠に出ない気がした。自分達の取った行動は間違いだったゆえに津波に巻き込まれた事実は曲げようがない、だがそれを語るのは先のことになる。視線を上流にあるJRの鉄橋に向けるとけせもい大橋より引っ掛かっている漂流物は少なくそこに至る道路も所々、水のない箇所がある。建物は大きな波が来ても飛び移れる状態だ。西の空を見てけせもい高校に向かうことを決断した。まだ明るいが日没前にたどり着くためには急がなければならなかった。
「富美恵、行くぞ。けせもい高校を目指す。まずはあの鉄橋までだ。難儀すると思うが行けないことはない」
「あんたら、けせもい高校まで行くのか。気をつけて行ってくれ。俺はもう少し水が引いたらバイパスを目指す。あそこまで行ければ基幹農道もすぐだ。家はゴルフ場の近くなんだ。どうせ車は俺の身体と一緒でオンボロだから塩漬けになろうが構わない」
「ゴルフ場の辺りなら津波は到達してないでしょう。家が地震で壊れてないといいですが、とにかく引き上げてもらって助かりました」
博之は男に礼を言うと富美恵と一緒に欄干から上流側の道路へ降りた。こちら側は漂流物が引っ掛かっておらずスムーズに降りることが出来たが膝まで水に浸かるので手を取り合いゆっくりと歩きだした。鉄橋まで約半分という地点に到達してようやく路面が顔を出した。
「さすがに疲れたな。少しだけ休もうか」
ビールケースが三つ転がっていたのでそれに腰を降ろした。地震が起こってから二時間以上経過している。密度が濃い二時間と言うには悪い意味で気を張り過ぎていた。路面が見えたことでどっと疲れが出たのだ。お互いに労う言葉をかける状況なのだが地震の直前に博之は富美恵に離婚届を突きつけていたため当然そんな言葉など出るはずもなくただ黙って冷たい風を浴びていた。今、力を合わせているのは苦境を乗りきって生きるという優先事項が生じたからに他ならない。
(当分の間、離婚のことは封印するしかないだろう)
博之の心中を知ってか知らずか富美恵が何かに気づいたようでいきなり立ち上がった。
「どうしたんだ」
博之が覇気のない訊ね方をしたが対照的に富美恵は子供が失くした玩具でも見つけたような表情で身を乗り出して一点を凝視した。