あこがれ
伝え聞くところによれば、恋とは心が躍るもの、胸弾むものであるという。
だとすれば、心の臓に爆弾を抱えた私には縁のない話だ。
いつ破裂してしまうかもわからない。何が刺激となるかも知れない。そんな状況で、自由な感情を抱く勇気はない。
燃えないように、冷めたままに、日々を過ごしている。
病室の窓から見える景色は、いつも殺風景だ。
0
昔から、熱意というものを抱けなかった。
心臓に抱えた病は、呪いのように私を縛る。
過度の運動さえしなければ支障はないと主治医は言う。けれど、そんな楽観は慰めにはならない。
支障がなくても不安はあるし、不安があれば心は沈む。
余計な心配を避けようと考えるうち、自分の希望を抱くことはどんどん苦手になっていった。
なにかを望むことができない。
なにかしたいとは思えない。
そんな私を見かねたように、ある日誰かが言ったのだ。
自分のために何もすることができないなら、困っている友達を助けてみるのはどうだろう?
それが始まり。私という人格を形づくる一手。
言われた次の日から、さっそく私は利他を実行し始めた。クラスメイトの宿題を手伝った。同級生の掃除当番を代わった。花壇の水やりを請け負った。
それが終わると仕事を探す。手伝い終われば業務を求め、作業を終えると相談に乗る。
誰かのために尽くす毎日は虚ろな心を満たしてくれた。他者のためだけに過ごす日常はとても居心地が良かった。
いまの私はきっと、地雷を心臓に宿す病人には見えないはずだ。
そんな日々を繰り返し、繰り返し、繰り返し。
気づけばもう高校生の私は、こうして舞台の上にいる。
壇上に立つ姿勢は美しく。新入生の模範となるように。
佇まいは努めて堂々と。在校生の期待に応えるように。
瞳には強い光を宿す。教師に不安を抱かせないように。
かくあれかし、そうあるようにと望まれている虚像で。
なすべきことを定められた私は、それゆえに迷いなく。
「新入生の皆さん、藤ノ森高校へようこそ」
生徒会長と名乗り、その務めを果たすために挨拶する。
「あなたたちは、これからさまざまなできごとを経験することになるでしょう。楽しいことだけではなく、もちろんつらいこともあると思います」
希望に加えて暗雲も示す。理想とは違う現実を見せる。
そのうえで彼らを照らす光となるのが生徒会長の役目。
「ですが決して、そこで折れないでください」
だからこうして思ってなんていない言葉を平然と吐く。
「ありふれた言葉だと思われるかもしれませんが……諦めてしまったら、そこでなにもかも終わりなのですから」
心臓に宿す爆弾から逃げて諦めてばかりいる私風情が。
なんて心中で自嘲しているなんて素知らぬ態度で嘯く。
「この場を借りて、皆さんにお伝えしたいことはそれだけです。諦めないことの大切さ。それをもって私は、新入生への挨拶と代えさせていただきます」
心にもない言葉だった。偽りだらけの空言だった。
その演技が通じたらしい熱気を前に一礼し、壇上を去る。
ここが献身の行き着く果てだった。
自分の願いを持たぬ私が、他者の望みを聞き届け続け、他人の祈りに報いる日々の末、到達した自己犠牲の極致。空疎な偽善の象徴。
私以外の心に寄り添う機械的行動を繰り返すことで滅私を保ってきた私は、今日も冷たく醒めきっている。
過度の運動を控えるどころか、心を動かすことすら恐れているような臆病者だ。
まして恋愛感情など縁があるはずもない、と──この日の私は、そう思っていた。
1
入学式が終われば新歓が始まる。昨年歓迎される側だった私も今年は主人側である。とはいえ特別な応対をするわけでもなく、せいぜい新人研修くらいの心づもりだった。
自分のところに配属された新入生に業務を教え、私は私で私の分の仕事を進める。そうして日々は過ぎていく。
生徒会の全体を見渡せば、去年よりも入会希望の新入生は多いように思う。しかしさほどの興味もなかった。
あくまで私は生徒会長として、生徒の役に立つ、という本校生徒会の理念を忠実に果たすだけ。
それだけのことではあるのだけれど、しかし唯一、少しばかり気にかかる新人がいた。
その新入生に、特筆するほどの特徴はない。
平均以下の成績で入学したらしい点では劣等生と呼ぶこともできる。けれど、それは平均という相対指標では必然的に生じうる立場でしかない。
容姿もまた、どこにでもいるような冴えない男子高校生としか言いようがない。
入学式の終了直後に生徒会室を訪れるほどの熱心さでありながら志望動機には口を濁していて、あまり印象が良いとはいえない。
でも、その瞳だけは不思議と印象に残るのだ。
灼けつくように熱い意志を宿した、ここにはない何かをまっすぐに見据えるような、強い眼差しが眩しくて。
少しだけ、気にかかる。
その日の私も普段どおりだった。
学内の人々から買って出た、ありとあらゆる仕事を片づけるだけの雑用係。
自分に手伝える限界を見極めて引き受けた業務を代行する日常に、しかし最近は変化が訪れている。
「では、新入りくんはそちらのほうをお願いできるかな」
「わかりましたけど……今日の会長はもう充分に仕事をしているんですから、あとは俺に任せてもらっても」
「私も働くほうがより早く終わるだろう?」
「……まあ、確かに」
説得に抗う理屈がないことを理解してか、諦めたように彼は作業を開始した。分担を振ったのは、米国にある姉妹校との交換留学を告知するプリントだ。それを各クラスの配布物箱に入れるだけだから、新人でも楽な仕事だろう。
「これが終われば今日の仕事はおしまいだからね」
適当に告げつつ、自分の仕事をてきぱきと終える。紙を捌く彼の慣れない手つきを傍らで見守りながら、見上げた時計は午後五時前を指していた。
「では、悪いけれどこれで私は帰らせてもらうよ」
「はい。お疲れさまでした」
頷きを返し、その場をあとにする。毎日定刻に帰る行為の不審は承知しているが、背に腹は代えられない。過度の労働に心臓を祟らせるわけにはいかないのだ。
そういえば中間考査の試験が出ていたな、と廊下を進みながら気づく。変わり映えのしない結果に興味は湧かないので、順位表の前は通り過ぎた。学年一位の栄華は明らかで、確かめる必要もない。過剰性を案ずる必要のない勉学の励行は充分であり、生徒会長の責務は果たしている。
実家の資産にものを言わせた送迎車に帰路を任せつつ、思い出したように考えるのは彼のことだ。生徒会の後輩、期待の新人にして、過重労働を志望の変人。会長と一緒に働きたいのだと宣言し、私の仕事量を知った際には流石に怖気づきながら、それでも眼光を滾らせた有望な人材。
彼の意欲はどこから湧いてくるのだろう。
彼の視線の先にある目標は何なのだろう。
考えれば考えるほどに私と正反対で、不可思議だった。自分の望みがないから他者の頼みを聞き届けているだけの私とは、まるで違う。
働かなければ死んでしまう生きものであるかのように、彼は進んで仕事を探す。会長の仕事を肩代わりしたいのだと隙あらば主張する。なにかを強く心に決めた眼差しで、こちらを射抜く。望む。願う。何を?
生徒会長の座を狙っているのだろうか、あるいは。
何を志しているとしてもどうでもよくて、けれど。
それほどまでに堅く心に誓うことのできる願いが、あるのだとしたら。それは、なんて──
──そこで思考を凍結する。
考えてはいけない。
熱くなってはいけない。
心を動かしてはいけない。
そうでなければいきられない。
中枢を破裂させた人型の光景を幻視する。躰が震える。心拍が加速し始めて、慌てて深く呼吸する。落ち着ける。落ち着こう。平静を保つ。私は大丈夫。まだ、私は。
「──にたく、ない」
零れた弱音は、誰にも届かず消えていく。
それでいいのだ。
誰もが憧れる生徒会長は、弱みなど見せてはならないから。
2
いくら生徒会長であろうと、代わることのできない仕事も当然存在する。専門性の高い職務を請け負うのは流石に難しいし、本職を奪ってしまっては沽券に関わる。純粋に物量を必要とする労働も、高々ふたりでは担えない。
そういった仕事の集積地が、たとえば体育祭である。
「そもそも、たいていの仕事は専門の委員会が分担しているからね」
「運営は実行委員会、実況は放送委員会。救護は保健委員の担当で、会場の設営は運動部が前日に終わらせた、と」
「私が手伝うような仕事はない。雑事はともかく、本職に口を挟んだら怒られる。つまり今日は、生徒会にとっての休暇だというわけだ」
「普段からそれほど多くの仕事をしているのは会長くらいのものだと思いますけど」
「働きすぎて庶務と呼ばれ始めた君も大概だろう」
顔を見合わせて苦笑する。そんな表情を形づくる。世間話に適応するための愛想には慣れたものだった。
「そういえば、会長はどの競技に出場するんです?」
そんな疑問に、一瞬息が詰まる。想定の範囲内だった。落ち着いて応答する。
「ああ、訊かれるだろうとは思っていたが、残念ながら私はどれにも出ないよ」
「出ない、って……そんなことが認められるんですか」
「生徒会長の特権、なのかもしれないけれどね」
微笑んでみせる。とんだ大嘘吐きだった。過度の運動にはドクターストップが掛かる。そのことを、他の生徒には秘しているだけ。
秘しているのだから、眼前の彼も、そのことを知るはずはない。それは当然の論理的帰結で。
「そういう君のほうこそ、どの競技に出るんだい?」
「俺は二種目ですね。午前と午後の目玉競技、騎馬戦とリレーに」
「そう、か……」
だから、形式的に雑談を続ければ、どういう流れになるのかはわかりきっている。配慮がなされるはずもない、と知っているはずなのに、でも。
「……では楽しみにさせてもらうよ、庶務くん」
愛想笑いを浮かべながら、思う。
走るというのは、どういう経験なのだろう。風を切って地を駆けるのは、どんな気持ちがするのだろう。
過度の運動を終えた息苦しさを感じながら、這々の体で摂取する水分は、どれほど美味しいものなのだろう。
彼は、私と、同じ方向を向いているはずだ。同じように生徒会の一員として、生徒のために働いている。身体には無理のない範囲で、けれど必要以上に献身している。
それは変わらないはずなのに、でも彼は、彼だけは運動の楽しみを知っている。
その差はどこにあるのだろう。
何が違っているのだろう、と冷静に考察することもできる。それはやはり、彼が目標として見据えるなにかしらの存在であろう。と、淡々と推察することもできて、けれど。
それでも、思ってしまうのだ。
目指すところの高みへ向けて、努力を重ねる彼の姿が。
私はきっと──羨ましい。
3
本校の生徒会は、裏方の役割を果たすことが多い。
たとえば三ヶ月前の体育祭で、生徒会の出番はほとんどなかった。普段の学校生活でも、表立って活動することは少ない。強いていうとすれば、たまに私が集会で演説するくらい。基本的には陰で生徒たちを支えるのが、この高校の生徒会の役目であるのだが。
その例外の一つが、今日と明日行われる文化祭である。
という私の認識は、しかし後輩たちによって覆された。
「『いつもはふたりが仕事の大部分を担ってくださっているんですから、たまには骨を休めてくださいよ』、か」
打ちあわせにおける、誰かの発言を反芻する。
「良い部下をもったものだな、私は」
「会長の人徳だと思いますよ」
「人徳、か……」
その返答に、少しばかり呆れた。確かに庶務という立場からは生徒会長を立てたくなるのかもしれないが、しかしなんという鈍感さだろう。
「……果たしてそれは、本当に私のものなのかな」
「……え?」
「聞いたよ」
見当もつかない様子の彼に、夏休み明けに行われた実力考査の順位表を指し示す。入学時は平均以下の劣等生とも呼べる成績だった彼は、しかし大きく成長していた。
「学年三位、だったか? たいしたものじゃないか」
「ありがとうございます……でも、一位だった会長に比べたら、それほどたいしたものでは」
「そうかもしれないな」
彼にとっては、そうなのかもしれない。
でも、私からすれば違うのだ。
ただ他者の頼みに応える偽善的な献身の延長線上で誰もが憧れる生徒会長を演じ、その一貫として勉学に励む私とは。
定めた目標に向けて、自分の意志で進むことを選んだ彼は、決定的に違う。
という本音は隠しながらも、主張は変わらない。
「だが、生徒たちにとってはどうだろうか」
彼の努力を私は知っている。
生徒会の激務の傍ら、勉強にも努めてきたことを。
夏休み中、頼まれて何度か数学を教えたことのある私は知っている。
彼はあくまで普通の理解力しか持たない学生であり、それでも必死に積み重ねた努力が実を結んだのだと。
「単に同じ順位を維持しているだけの私と、努力によって少しずつ登りつめてきた君と。果たして、一般的な生徒から見たとき──」
「……確かに、そうかもしれませんね」
どちらがより共感されるのかは明らかだ、と。
言おうとして、しかし遮られる。
「それでも俺は、そのことを認めたいとは思いません」
こちらを睨むようなその視線には、見覚えがあった。
あの眼だ。
私には見えないものを見据えている、おそらく彼の原動力を担っている、理解することのできない、あの眼差し。
「……どうして、」
「なぜなら──」
思わず疑問が口に出る。応えて彼は口を開く。いまその秘密が語られる。私は少し身構える。
彼が何を志向しているのか、その目標を、知りたくて、でも知りたくないような、言明しがたい心情で。
──けれども彼は口を濁す。言葉をごまかして、視界の隅の時計を指差した。
「……それよりも、そろそろ時間ですよ。文化祭の開会の言葉、という形容が正しいのかはわからないですけれど。オープニングセレモニー、でしたよね」
「ああ、わかった」
仕方なく私は頷くと、身を翻して歩みを進める。
会場へと向かいながら、心は乱れたままだった。
もはや、無視しきることはできそうにない。
──認めよう。
私は彼のことをどうでもいいとは思えない。心を動かさずにはいられない。
それは羨みだ。
心臓の病という呪いに縛られていない彼が羨ましい。
それは妬みだ。
確固たる信念のもとに目標を目指せる彼が妬ましい。
そして、これは憧れだ。
私は、きっと。自分とは正反対の彼に、憧れている。
学内という世間において、私は称賛されている。誰もが憧れる生徒会長として、褒め称えられている。
頭が良い。裏方で皆を支えている。なんでもできる。
──それは虚像だ。
過度の運動を避ければ、勉強しかできなかっただけ。
病に冒された自分を明かしては表に出られないだけ。
なんでもできるように、見せかけているだけの偽物。
そう、偽物という形容がしっくりくる。
私の中で私はずっと紛い物だったのだ。
そして、私の正反対である彼はきっと。
紛れもなく彼が、本物であるのだろう。
だから私は彼に憧れる。
彼こそを本物の理想と思う。
冷めきっていたはずの心が動く。
動いて、乱れて、そして定まる。
この祭り事が終わったらどうするか。
心に決めて、私は開会の言葉に臨んだ。
そうして幕を開けた文化祭は、大きな問題が起こるわけでもなく、平穏無事に終わっていく。
4
文化祭が終了した翌日。生徒会長こと私は、体調を崩し入院したということになった。
5
病室の窓から見える景色は、依然として殺風景だった。
白い、部屋だ。病人の部屋。味気ない白色の家具と白い病衣のなか、私の黒髪だけが純黒で。
単調なその病室に、異物が一つ。
「……どうして、話してくれなかったんですか」
「話す理由がなかったからだ、なんて言ったら怒るかな」
振り絞るような問いに、偽りの事実を返す。
「話したところで、どうにもならないだろう」
寝台に身体を起こして、静かに言葉を紡ぐ。
「現在の日本では治療できない病気だとか。過度な運動は危険を招く、とか。言ったところで、なんになる?」
この期に及んで、嘘だった。虚勢の意地の張りぼてだ。憧れる相手に弱みを晒したくない、それだけの。
ただ、臆病だったから。病に冒されている事実を明かすことが、これまで築きあげてきた生徒会長という虚像を、崩してしまうことが怖かった──なんて、言えるはずもない。
「どうにもならない、かもしれないですけど。でも、知らないよりはましでした」
「……まあ、そうかもね」
黙っていたのはすまなかった、と微笑んでみせる。身を蝕む病魔のことを感じさせないくらい、穏やかに。
「とはいえ私も、いつ露見するかと戦々恐々していたのだけれど。どんな状況であっても五時には下校したり、体育の授業では必ず欠席したり、明らかに怪しいだろう?」
「後者の事情を今の今まで知らなかった俺からは何も言えないですね」
「極めつきは体育祭だ。生徒会長だから競技に出なくても許される、なんてことはない──むしろ逆に、学校の顔である私こそが競技で活躍すべきはずだろうに」
見落としていた事実の重みを受け止めかねているらしい様子の彼に、淡々と私は、告げるべき事項を告げる。
先輩として、頼れる生徒会長として、最後の責務を果たす。
「まあそんなわけで、しばらく……海外に渡って手術してリハビリ、という過程にどのくらいかかるかはわからないけれど……この先一年くらいは、高校には通えなくなる」
「わかり、ました」
「次期生徒会長には、君を推薦しておいたよ」
「……は?」
頓狂な相槌には注意を払うことなく、話を進める。
「そもそも、本来なら生徒会長に選ばれるべきは現二年生だからね。去年の私が一応の特例だったとはいえ、今年もまた一年から会長を出す決定には反対する人も多かった。説得には苦労したよ」
「いや、あの」
「説得が通ったのは君自身の力だった、といっていい。入学当初と比較して、成績を順調に伸ばしていること。これまでの生徒会活動において私を補佐し、勤勉に働いてきたこと。体育祭での活躍を評価する向きもあったが、流石に少数派だったな」
「その、ちょっと……」
「それもこれも、すべて君の実力だよ。高校に入ってからひたむきに働いてきた君の頑張りが、二度目の特例を許したのだから」
そして、それこそが私の心を動かしたものでもある。
心臓に抱えた病は手術で治せるかもしれない、とは以前から聞いていた。日本では難しくとも、外国ならば不可能ではないと。
知っていて、それを選べなかった。
心臓に負担を掛けることが怖かった。
心を動かしてしまうことが恐かった。
心臓を治したいと望む心の動きすら、私は懼れていた。
どうしようもない怯懦で、呆れるほどの愚昧で。
けれどそんな私のことを、彼への憧れが動かした。
彼の熱情が、凍りついた私の心を溶かしてくれたから。
それゆえ私は、手術への一歩を踏み出すことができた。
身を縛る病の呪いに抗う意志を抱くことができたのだ。
「その成果を、私は誇らしく思う」
これ以上ない賞賛のつもりだった。
生徒会長という虚栄を崩壊寸前で保ちながら、最大級に与えられる肯定のつもりだった。その余韻を遮るように。
「ちょっと、待ってください……!」
突然の激情、込められた憤怒の滲み出るような強勢に、思わず怪訝を浮かべてしまう。声を発した彼自身もどこか困惑したような調子で、しかし断定を続ける。
「それは、違います」
「違う……? 今の話にどこか間違いがあっただろうか」
彼の眼差しに、その努力に根負けした。心を動かされてしまった。
病に囚われることのない、普通の人間として──彼のように何かを目指したい、と思わされてしまった。
という本音は、明かせないにしても。
手術のためにいったん身を引くこと、その代わりに彼を生徒会長に推薦したことは、きちんと伝えられたはずだ。
「これは、違う」
「だから、その違いがどこにあるのかと──」
「──俺は、」
なおも尋ねようとする私を遮って。彼は、叫ぶ。
「俺は、こんなかたちであなたを超えたいわけじゃなかった!」
「────、」
混乱する。混迷する。困惑する。当惑する。
「病気なんていう無関係な、互いの実情を関知せず襲ってくるようなもののせいなんかじゃなくて。もっとしっかりと、自分自身の力で、自分の努力によって、俺は!
──あなたの隣に立ちたかった」
理解が遅滞する。認識が遅延する。
「あのときからそうだった。入学式で、新入生に挨拶するあなたを見たときから」
意味が不明で、意図が不詳で。
けれど徐々に、納得が追いついてくる。
「届かない、と確かに思った。自分には無理だ、とすぐに確信した。けれど──」
私は誰もが憧れる生徒会長だったから。
「それでも俺は、あなたのいる高みに登りつめたかった」
彼もまた、私に憧れていた──?
「……それが、君の動機か」
「そうです」
遠いあの日を思い出す。入学式の終了直後の生徒会室。生徒会に入りたい旨を告げた彼に、私は問うたのだ。
『なぜ君は、生徒会に入りたいと思ったのか』。
適当な言葉でごまかしていたあのときとは違って、いまの彼は迷いなく断言する。
「俺はあなたの横に並ぶために生徒会に入ったんだ」
「……それはわかった。けれど、どうしてそこまで、」
「そんなの、決まりきっているでしょう」
彼が苦笑して、私は再び狼狽する。凍らせたままに過ごしてきた日々で、すっかり心は鈍りきっていた。
そんな私に呆れたように、彼が言った。
「──あなたに惚れてしまっていたからですよ」
今度こそ、思考が止まる。遅れも滞りも通り越した完全なる機能停止。
「……え?」
ただ呆然と洩れた一言に、ほんの少し彼が赤くなる。
「一目惚れ、というやつです」
追加される爆弾に構う余裕はない。猶予はない。落ち着こう。状況を整理する。
私にとっての私は偽物で、偽物の私が憧れる正反対の彼こそが本物で、そして本物である彼は、私が演じる虚像に憧れていた──?
偽物が演じる嘘は嘘の嘘だから真実で、演じてきた偽物こそが私にとってのほんとうで、最初から私は、私の憧れが憧憬するようなほんものだった──?
嘘と本当があべこべで頭が混乱する。偽物と本物がまぜこぜで脳が錯乱する。わからない。何もわからなくて。
「く、はは」
堪えきれずに笑ってしまう。あまりの自分の道化ぶり。
虚構演じる自分に酔って、願いなどないと嘆いたくせに。
いまさらなにかに憧れながら、その先に踊るかつての自分。
なんて滑稽で、なんて愚かで、なんて阿呆らしい。
でも、けれど、しかし、されど、それでも。
確かな思いが一つある。
「ははは、はは、は」
いまの私は、心が躍っている。胸が弾んでいる。
どきどきが止まらない。わくわくが鎮まらない。
自分自身の馬鹿らしさを嗤いながら、思うのだ。
「はははは、はは、は──」
私はきっと、恋に落ちていた。
「──私も、同じだったよ」
「…………」
「ずっと、羨ましかったんだ。定めた目標に向けて、まっすぐに努力を続けられる君のことが」
その目標の正体は、いま理解したばかりだけれど。
「私は違ったからね。誰かの頼みに応え、ある人の依頼を受けて、他人の要望に沿って──生徒会長という名を背負っていながら、自分の意志なんてあったものじゃなかった」
「それは、」
「違わないさ。いや、自主的にそうしているように見えたなら、偽装がうまくいったということなのだろうが」
「でも、生徒のことを全然考えていなかったわけでもないですよね」
「そうかもしれないな。でも私があれほど働き続けていたのは、自分では何も決められなかったからだ」
他者の望みに応じていなければ、何かをしようとも思えなかったから。
「だから君が、入学式が終わったあと、真っ先に生徒会を訪れてきたとき──敵わないな、と思ったんだ」
思いかけて、思考を凍らせた。
「あのときはごまかそうとしていたようだけれど、明確な理由があるということはすぐにわかったよ」
灼けるように熱い瞳が、何を秘めているのか。知りたくなって、その欲求を押し隠した。
「それから一緒に行動するようになって、その認識はますます強くなった」
「…………、」
「そんな君のことが別の意味で気になり始めたのは、いつのことだっただろうかね」
本当に、いつのことなのだろう。凍らせて、押し隠し、不動を保っていたつもりの。私の心が、躍り始めていたのは。
「それは、つまり」
「そのとおり」
──私も、君のことが好きだ。
「同じことを君から言われたときには、とても驚いたけれどね」
「それは、なんというかその、まあ、あれですね」
「さて、それじゃあ話を戻そうか」
仕切り直すように手を叩き、話を進める。
「先述のように、これから少なくとも一年間、私は高校に通えない。その間は君に生徒会長を務めてもらう。それを代理というか否かは君次第だろう。だが少なくとも私は、君が代理人程度の器に収まる人間だと思ってはいないよ」
「確か、アメリカの病院での手術、ということでしたか」
「そうだ。ちなみに、本校が主導する海外留学の参加者が送られる高校は、偶然にもその病院に近いのだけれど──君ならば絶対に、この選択肢を選ぶことはないだろう?」
「でしょうね」
「さて、そこでだ」
ひとつ約束をしてみないか、と言って、悪戯っぽく私は笑う。
6
異国の病室の窓から見える景色も、やはり殺風景だ。
日本を発って数週間。手術開始の直前。手持ち無沙汰な私は、かつて交わした約束を思い出す。
『一年経ったら、たぶん私は高校に戻ってくることになると思う。もし君がそのときも生徒会長をしていたら、』
脅すように、あの日の私は言ったのだ。
『そのときはちゃんと、私の名前を呼んでね?』
生徒会長ではなく。「会長」でもなくて。演技でも虚像でもない私のことを、呼んで欲しかった。
『……気づいていたんですか』
『当たり前だろう。いつ話しても、どんな状況でも、君は私のことを「会長」としか呼ばなかった』
『それはお互いさまだと思いますけれど』
『……ともかく、その逃げが通用するのも、私が生徒会長でいられる間のことだ。だから、覚悟は決めていてくれよ?』
『はい』
『──そして、忘れないでくれ』
たとえ何年が経ったとしても。
『知っているとは思うけれど』
君が名前を呼んでくれたとき、初めて私は、私自身として生きていける気がするから。
『私の名前は──、』
回想と重なるように、その名が呼ばれる。手術が近い。
お世辞にも、安全な手術とはいえない。危険がないとは言い切れない。これが私の、最期になるかもしれない。
けれど、不思議と不安はない。かつて心を躍らせることすら懼れていたことを忘れてしまうくらいに、いまの私は安定している。ある種の全能すら感じるほどに。
「────、」
歌うように、彼の名を口ずさむ。それだけで、どこからか力が湧いてくる。
彼のことを思い出す。あの眼差しが、あの熱情が、私の背中を押してくれる。
どうしてだろう。
こんなところで終わるとは、まるで思えやしない。
心の底から迸る、想いのままに口を開いた。
「君にもう一度逢うために、私は生きるよ」