救済
過去の記憶を遡る事で訴えかけてくるこの感情を完全に理解した。
この声の主は、深い絶望に陥っている。過去に私が経験した絶望なんて目でもないほど途轍もない悲哀の感情を抱えている。こんな感情、私には手に負えない。このまま曝され続けてしまえば私は直に私でなくなってしまうかもしれない。そうなる前にここから脱出しなければ。
ここが何処だか確証を持つことは出来ないが、転移の類ではないだろう。恐らく精神に作用するスキル。分離した感覚から考慮するに私の精神は切り離されている可能性が高い。そして未だに元の身体に戻っていないという事は、私の精神はどこに閉じ込められているのだろう。
精神は取り出したらすぐさま別の依り代に閉じ込めなければ元の場所に帰着し、閉じ込めるにはそれ相応の器が必要だと聞く。あらゆる生命の内に精神を押し込めることができるらしいが、精神の大きさは以前の器の大きさに比例する。例えば元人間の精神をそこらの虫に押し込めようとしても入りきらず、追い出されて精神は元の身体に帰着してしまう。
つまり、私の精神は未だ閉じ込められたままという事だ。ならその依り代はどれか。
該当するのは二人。白装束の化け物かスケさんだが、スケさんは多分違う。あの陽気なスケさんの心の内がこんな悲惨なわけがない。こんな感情を抱えながら常人が真面でいられるはずがない。なら消去法的に白装束の化け物になる。
何故白装束の化け物がこんな感情を抱えているか皆目見当もつかないが、今は置いておこう。それを考えるよりも脱出することが先決だ。
幸い身体の自由は効かないもののスキルは使えそうな感覚がある。なら自分自身に術式解除を纏えばこの場から逃げられ―――
「たす……けて……」
轟音とも呼べる程連呼される「カエセ」の声の隙間から聞こえたような気がした。か細く、消え入りそうなその声は幻聴と聞き紛う程だ。
気のせい……だろうか?
「たすけてっ……」
「!?」
それは、はっきりと明瞭に聞き取れた救いを求める声。谷底から救済の綱を求め縋った時のような声だった。
それを突き放すことは簡単だ。術式解除を行使して元の肉体に戻ればいいだけだから。
だが、私にはそれが出来なかった。何故なら、この苦し気な感情を過去の自分と重ねてしまったから。
私の推測ではこの感情の持ち主は白装束の化け物。しかし、白装束の化け物は一言として助けてなどと口にしたことは無かった。ならこれは、奴が内に秘めた感情。他の感情に支配され、口に出すことが出来ないもの。
となると、奴。いや、彼を救う者は今後現れるのだろうか。外側からどうやって彼の内なる悲鳴に気付けるというのだ。例え、もし内側に入ることが出来たとしても普通に生きてきた者が、この息苦しくもまた狂いそうな程荒れた感情の波に耐えられるだろうか。いいや、無理だ。
なら、彼を救うのは私にしかできないんじゃないだろうか。
だがどうやって?私は彼がこの感情に苛まれる理由を知らないし、知っていたとしても加布施さんのように勇気づける言葉は思いつかない。口を動かせない今は何かを言う事すら出来ない。
今の私には何もすることは出来ない。どうすることも……。
そう思ったその時、端目に何かを捉えた。
薄暗かったせいで見落としていたのかよく目を凝らせば、鎖とそれに巻かれた球体がポツンと存在した。
光を全て吸収するのではと思えるほど純黒な鎖は見るからに禍々しさを覚え、紫雷を帯びていることでそれをより一層引き立てる。
そんな鎖は元は白かったであろう球体に纏わり付き、自分色に染め上げようとしているのか触れている部分から侵食して球体の色を濁らせている。
あれが何なのかはわからない。鎖も、ましてや球体の事さえ理解できない。だけど、濁った球体は苦しそうに震えていた。助けてほしいと言外で伝えている様子だった。
(……術式解除)
私はスキルを行使した。自分にじゃなくその球体に向かって。
それは今の私にできる唯一のことはだった。効果はないかもしれない。意味のない行為だったかもしれない。だけどせめて何か力になればと私はこのスキルを行使した。
すると、効果が表れた。
「カエセ」と叫び、抗議し続ける声が一瞬で静まり返った。耳奥で多少余韻は残るものの、轟音は既に止んでいる。
その後、身体の自由が利くようになった。さっきまでの状況が嘘のように手足が動く。
だけど、私の頭には疑問が残った。
私は自分自身に術式解除を使ったわけではない。球体に使ったのだ。それなら効果は球体へと働き、私は未だに現状を維持したままのはず。
「どうして……?」
頭にクエスチョンマークを浮かべながら疑問の声を発すると、途端に後ろへと引っ張られるような感覚に襲われる。いや、引き戻されているとでもいうべきか。私の精神を元の肉体が帰還させようとしていた。
納得いかぬままに私の精神は薄暗い空間から飛び出した。
飛び出す直前、薄暗い空間で私に向かってある言葉が発せられた。静寂だったことも相まって私の耳はその言葉を聞き逃さなかった。
「ありがとう」
その声音はカエセと叫び、そして助けてと呟いた者と同じものだった。
やっと現実世界に戻れるよ……




