08-2.ロジーナとヒグドナ
ロジーナと別れてどれくらいが経っただろう。
彼女が住んでいる場所の話は手紙で聞いていたが、なんとなく、会いに行くのが億劫で、足が向かなかった。
しかし、人の一生は短い。
無理に会いに来なくてもいい、とロジーナは言ってくれたが、あれから少なくとも四十は年を跨いだ。
今行かなければ、もう二度と会えないかもしれない。
そう思い、ようやくヒグドナは重い腰を上げられた。
長い旅路を歩き、草原の中に立つ一軒家に着くころには、さらに五年ほど経過していた。
赤い屋根のこじんまりとした家屋で、煙突からは煙が上がっている。
ヒグドナは扉の前に立ち、軽く戸を叩いた。
「開いてますよー」
奥からそう声が聞こえ、ヒグドナは扉を開いた。
居間にある暖炉の火が、玄関からでも見える。
温かい空気が漂う部屋の中で、見えないところから声がした。
「いつもごめんなさいね。お手紙は靴箱の上に置いておいてちょうだい」
どうやら、ヒグドナのことを郵便屋と勘違いしているようだ。
このような人里離れたところでは、他に来客もないのだろう。
「……あー、悪い。配達じゃないんだ」
ヒグドナは迷いながらそう言った。
なんと声をかけたらいいものか分からず、困ってしまう。
「……その声、もしかして、ヒグドナ? 来てくれたの?」
彼女は顔を出さず、そう言った。
「ああ、死んじまう前に会っておこうと思ってな」
「相変わらず、不愛想ね。会いたくて仕方なかったって言いなさいよ。ちょっとごめんね、こっちまで来てもらえる?」
ヒグドナは彼女がこちらに来ないことを不審がりながらも、声のする方へ向かった。
小さな部屋のベッドに、彼女はいた。
歳をとっていることは想定内だったが、そのやせ細った体は、明らかに加齢のせいだけではない。
「ひさしぶりね」
「病気か?」
「……うん。少し前からね」
そんなこと、手紙には書いていなかった。
ヒグドナはもっと早くに会いに来なかったことを悔やんだ。
憧れの彼女が病気になって、こんなに弱ってしまっていることが、たまらなく嫌だった。
目をそらすと、彼女のとなりに、眠っている赤ん坊がいることに気がついた。
「ロジーナの子か?」
「まさか。私はもうお婆さんよ。この子はひ孫のテレジア。私にそっくりでしょう?」
「ひ孫? それにしては、この家に誰もいないようだが」
「みんな、死んでしまったわ。この子は少し前まで村で暮らしていたのだけど、逸り病が起こってね。私の元に父親と一緒に逃げ込んできたってわけ」
「そうか……」
ひ孫が生まれてしまうほど、世代を重ねていることに驚いた。
オークであったなら、まだ孫がいるかいないかくらいの年齢だろうに。
「ヒグドナは元気にしてるの? ちゃんとご飯食べてる?」
「ああ、問題ない。これでも狩りの腕は一流だ」
「私が教えたからね!」
ロジーナは以前と変わらない表情で、どうだ、とばかりに鼻息を荒くする。
「そうだな、ありがとう」
「ま! この子がお礼言うなんて!」
「子って、おれは大人だぞ……」
「私からしたら、まだまだ子供よ。年齢の問題じゃないの」
口元に手を当てて笑うロジーナを見ていると、どうしても昔の姿を思い出す。
ヒグドナは、言うつもりのなかった言葉が、内に沸いてくる感覚を味わっていた。
「あんたに会えて、本当に良かった。あんたに憧れていたから、俺は今ここにいられる。だから、頼む。死なないでくれ。あんたが死んだら、おれは……」
ロジーナはただ微笑んで聞いていた。
死なないでくれ、なんて、無茶な注文だ。
「ヒグドナ、もうあなたは立派にひとりで立っているじゃない。もし、あなたが生きていくために、まだ誰か他人が必要だと言うのなら、そうね、次は誰かにものを教えてみてはどうかしら?」
「え?」
「私に憧れたように、今度はあなたが誰かの光になるの。どうしようもなく行き詰ってて、行き先を失ってしまっている人を、導いてあげてちょうだい」
「そんな大役、おれにできるのか?」
「やるのよ。私にできたとあなたが言うのであれば、あなたにもできるはずなんだから」
「無茶苦茶だ……」
「死なないでくれってお願いよりよっぽど現実的よ」
彼女は冗談めかして笑った。
そうして話していると、ロジーナのとなりで眠っていたテレジアが起きてしまい、大声をあげて泣き始めた。
「わー、ごめんね、うるさかったね」
そう言ってあやすロジーナは、ふと思いついたように、ヒグドナを見る。
「抱いてみる?」
「いや、無理だろう……」
「やる前から言わない。ほら」
無理矢理渡された赤ん坊は、最初はヒグドナに戸惑っていたようだが、やがて、すやすやとまた寝息を立て始めた。
「あなた才能があるのよ」
「嘘をつけ。オークの体温が高いからだろ」
「変なところで現実的ねえ。誰に似たのかしら」
「あんただろ。他に誰がいるんだ」
もっと早くに会っていればよかったという後悔は、そのころにはもうすっかりなくなっていた。
彼女が年をとっていたからこそ、素直に話すことができたのかもしれない。
その日は一日、動けない彼女の代わりに身の回りの世話をした。
人間の赤ん坊というものは実に可愛く、素直だ。
ロジーナにもこのような時期があったのだろうか、と考えても、うまく想像できない。
夜が更け、そろそろ、とヒグドナが談笑を打ち切って席をたった。
「もう帰るの?」
寂しそうな顔をして、ロジーナが言う。
もう少しいてやりたいが、この子の父親が帰ってきては面倒だ、と考えた。
「今日は会いにきてよかったよ」
「またいつでもいらっしゃい。……って言ってもあなたはもう来ないのでしょうけど」
「……人間には、できるだけ会いたくないからな」
「そう、そうよね。来てくれてありがとう。ヒグドナ、今日言ったこと、しっかり考えてみてね」
「……ああ、考えとくよ」
テレジアをひと撫でして、彼女に背を向けると、そのままヒグドナは振り返ることなく家屋を出た。
別れの挨拶は、しなかった。
彼女が死んでしまうという事実を、直視できなかったからかもしれない。
夜の帳はすっかり降りて、ヒグドナの気持ちを表しているかのように、辺りは真っ暗になっていた。




