06-4.死人
波は穏やかで、小船であっても比較的進みやすい。
イザベルタたちは小船の中に身を伏せて、見つかることなくエレシエル海賊団の船にたどりついた。
遠くからでも見張りがいることは、遠眼鏡のレンズの反射で確認出来たが、どうやらあまり熱心に警戒してはいないようだ。
ヒグドナの放った大銛は、船体に八割まで埋まっている。
こんなものを至近距離で討たれたら、人間の体など木っ端みじんになってしまうだろう。
「ここから上がるの?」
「行けそうか?」
「やってみる」
船体は滑らかな木材で出来ているため、素手では登れない。
そこで、ゴナゴの海賊船にあった、鉄の爪を借りて来た。
三本のかぎづめがついている革手袋をして、船体に引っかけながら、テレジアはゆっくり登っていく。
そのあとを追って、イザベルタも上がり始めた。
甲板に上がると、見張りのひとりがうろついていた。
「なんだてめえら、うっ……」
言いきる前に、テレジアの肘が、見張りの腹部に鋭く叩きこまれる。
「で、これからどうする? 私は、派手にやる方が好きだけど」
手袋を外しながらそう言って、テレジアは笑った。
彼女はこそこそひとりずつ相手していくのが苦手な性格なのだろう。
面倒だから、やるならまとめて相手をしたいのだ。
「あたしが育てたやつらだ。強いぞ」
「私の方が強いよ」
「返す言葉もないね。よっぽど自信があるのかい?」
「自信って言うより経験かな。見えない敵の気配を察知できない相手なら、何人いても同じ」
彼女の目が、細く輝く。
闘技場で会った時に見た、あの怪しい光。
今なら、それが何であるか分かる。
値踏みだ。
「……任せるよ。そもそもあたしは、あんたにも、こいつらにも一回負けてんだ。ここにいる中じゃ、一番弱い。好きにしてくれ」
「わかった。……あっ、船、無傷で返した方がいい?」
「いや、もういらない。あたしには必要ないものだ」
「うん、じゃあ、いくよ」
テレジアは、腰に下げた剣を抜いて、帆を支える主柱へ歩み寄った。
そして、腰に低く構えた剣が、一閃の元に柱を切り抜ける様子を、イザベルタは茫然と見ていた。
(あたしは夢でも見ているんじゃないか)
これまで何度も海上での白兵戦を行ったが、あの太い柱が切り飛ばされるところなど、見たことがない。
せいぜいが、引っ掻き傷をつけるだけだ。
それを彼女は、たった一度の剣で、見事に切断して見せた。
柱は、ゆっくりと、海へ向かって倒れていく。
繋がった縄に引っ張られ、船体が大きく揺れる。
テレジアはそんな揺れも感じていないかのように、二本目の柱へ歩いていくと、同じように切った。
三本ある柱全てを切り終えるころには、慌ただしく出て来た団員たちに、すっかり周囲を囲まれていた。
「てめえどこのやつだ! 何しやがる!」
灯りをかかげる男の名はオリヴァン。
その隣りで訝し気な顔をしているのが、マーヴィン。
オドリオ、トーマイア、ジェイシー、アーミュー、アントム、ルフレッド、アンデレク。
コーディー、ケアリアン、ランダン、ウェイルズ、ニコラッド、ヴァレミー、マイケネス。
ミルトミー、アラスター、ランダリル。
そして、シュリック。
みんな、ほんの少し前まで家族だった。
イザベルタは情に流されそうになったところをなんとか踏みとどまり、言った。
「よう、地の底から、帰ってきたぜ」
その姿を見た船員たちからは、どよめきがあがった。
「なんで船長がここに……」
「こんなこと、ありえるのか?」
そんな声が、聞こえる。
シュリックはその不安をかき消すように、怒鳴った。
「何を怯えていやがる! こんなもんは幻だ! てめえら、海賊だろうが!」
どよめきは小さくなったが、まだ続いている。
そんな状況で、最初に動き始めたのはテレジアだった。
「さっさと始めようよ。私はテレジア。よろしくね」
テレジアは剣を鞘に納めて、落ちていた縄の切れ端で抜けないように縛りながら言った。
そして、終えると同時に、一番近くにいた団員へ風のように音もなく詰め寄り、殴りつけた。
その瞬間に、一本の矢が、オリヴァンの持っていたランタンを貫通し、破壊した。
それがヒグドナの仕業だとイザベルタが思った時には、テレジアはすでに五人を倒していた。
暗いから、などということが言い訳になる状況ではなかった。
おそらくは明るくても、同じ結果になっただろう。
シュリックを除く十九人の男が、一分ももたずに、あっという間にやられていた。
本気のテレジアの剣を間近で見て、絶対に勝てないと、イザベルタは思った。
あの闘技場の時は、半分も実力を出していなかったのだ。
天災とでも呼ぶべき、不可避の猛撃。
人間の剣は、あそこまで早く動くものなのか。
「イザベルタ」
テレジアに声をかけられて、イザベルタは我に返った。
気がつけば、広い甲板で、シュリックと向かい合っていた。
テレジアは階段に腰を降ろして、戦う気がないことをふたりに示している。
「とんでもないやつを連れてきやがったな……!」
「悔しいかい? あんたが無駄だと言っていた闘技場には、こんなやつもいるのさ」
シュリックは小さなナイフを構えている。
イザベルタの曲剣と間合いは違えど、構えは同じだ。
半身になって、剣先を相手に向け、じりじりと近づいていく。
空気が、張り詰めている。
海賊は命のやり取りをしない。
だから、今この場に流れている空気に、ふたりとも動けないでいる。
しかし、やらなければならない。
これはけじめだ。
彼のやったことの責任を、彼にとらせるために、彼を切る。
イザベルタは、大きく一歩を踏み出した。
「シュリック、身内切りは海賊の中でもやっちゃならないことだ。海賊やりたきゃ船降りて勝手にやりゃよかったものを……」
「死人は黙ってろ。もうこの船は、俺のもんだ!」
シュリックのナイフが、先に動いた。
首を狙って、素早く何度も突く。
イザベルタはそれを見切って、ギリギリで躱す。
隙を見て、剣を下から振り上げ、ナイフを弾いた。
舌打ちをして、新たなナイフを取り出すシュリックに、イザベルタは切りかかった。
しかし、まったく危なげなく、距離をとって躱される。
普段の力が出せない。
相手が仲間だからだ。
(あたしも、甘い人間だ)
切る決断をしたのに、体がそれを拒否する。
仲間を切ることに対する抵抗が、決意を鈍らせる。
「どうした? 動きが悪いぞ」
「言ってろ馬鹿」
シュリックの攻撃は止まらない。
イザベルタはなんとか当たらないように避けるだけで精一杯だ。
このままではらちがあかない、と大きく右に出ようとした瞬間に、心を読まれたように、シュリックの体が目の前に現れる。
(しまった!)
シュリックのナイフは、右の肋骨の隙間に入って、正確に心臓を突き刺した。
「勝った!」
勝ちを確信した彼の気の緩みを感じ、イザベルタは曲剣で、彼の体を袈裟切りにした。
「馬鹿な、心臓を止めたはず……」
彼は、ふらふらと後ずさり、やがて船が揺れた拍子に、夜闇の広がる海面へと、姿を消した。
「ばーか。とっくの昔に、死んでんだよ。あたしは」
月明かりに照らされたイザベルタの顔は、半分溶けて、骨が見えている。
体もボロボロで、衣服の切れ端が、腐った肉の上に乗っているだけだ。
左腕は肩から先がなく、彼女を知っている者ですら、彼女が誰だかわからないだろう。
「テレジア、待たせたね」
甲板に座り込み、テレジアの方に顔だけを向けて、イザベルタは言った。
「……ううん、いい勝負だった」
「お世辞はやめとくれ。せめて左手があればもっと楽勝だったんだけど」
イザベルタは、そう言って甲板に寝転んで、空を見上げながら、ずっと疑問に思っていたことを聞いた。
「あんた、なんであたしがイザベルタだってわかったんだ? あたしが名乗る前に、気がついてたろ」
「その帽子だよ」
「帽子?」
三角帽をとって見ると、一か所、大きな切り傷がついている。
それは、闘技場でテレジアに切られた箇所だ。
「さすがに、死体が動いててびっくりしたけど、でも知ってる人だって思ったら、怖くはなくなってた。こういうことってよくあるの?」
テレジアはヒグドナに合図をしながら聞いた。
「よくあってたまるか」
「それもそうだ」
「でも、理由はあるかもしれない。あんたが向かおうとしてる聖島に足を踏み入れた人間には、そういうことが起こりやすいって話だ」
「そんなに凄いところなの?」
あの島の景色を思い出すと、今でも身震いする。
しかし、今はもう恐れるものでもない。
「……あたしは、宝探しに行ったんだ。聖島の奥に何かあると思ってね。でも、宝なんてなくて、あったのは、そう、死者の国だ。あれは、そういうものだと思う」
「死者の国?」
「ああ、なんていうか、口じゃ説明できない。どうせ行くんだろ? その目で見てきたらいいさ」
ヒグドナの動かす船が、隣りについた。
まだ、テレジアの気絶させた団員たちが乗っている船を置いて、イザベルタは乗り移った。
「あの人たちは、いいの?」
「誰かさんが帆を壊してしまったせいで自力では帰られないだろうが、ここは商船が通る。運がよければ明日にでも助けてもらえるだろうさ」
舵輪をヒグドナからゆずってもらい、イザベルタはまた、月に向かって進み始めた。
裏切り者とはいえ、仲間を切ってしまい、安らかな気持ちには当分なれそうもないが、やり残したことをやってしまえたのは、この体のおかげだ。
彼女たちを聖島へ送り届けたら、ゆっくり眠ろう。
もう自分は、死人なのだから。
夜が明けるころ、船はひとつの島を目前に迎えていた。
ゴーラウ・エル島、通称『聖島』は、ひとつの山を中心に森林地帯の広がる、円形の島だ。
町らしいものもなく、漁村と思わしき集落が見える。
「着いたぜ」
イザベルタは島から離れたところで船を停めた。
「ここから先は海が浅い。座礁しちまうから、ここまでだ」
テレジアとヒグドナは、送ってくれた礼を言って小船に乗った。
ここからはまたふたりで行くことになる。
「テレジアとヒグドナ、本当に助かった。ふたりがいなかったら、あたしはあいつらを止められなかった。感謝する」
「イザベルタ、これからどうするの?」
「あたしは死人だ。死人らしくするさ」
その顔には、影がかかっていた。
夜明けと共に、イザベルタの体は、さらに腐食をすすめていた。
ぼたぼた、と残った体を甲板に散らしていく。
もう、残された時間が少ないことを示していた。
「テレジア、行ってくれ。これ以上見られたくない」
「……うん。イザベルタ、私たちも助かった。ありがとう」
「あたしは何もしてねえよ」
イザベルタは屈託のない笑顔を浮かべた。
彼女に見送られながら、テレジアたちは、聖島に向かって小船を出した。
船の甲板で、イザベルタの体は、音を立てて崩れた。
その音が耳に入っても、テレジアは振り向かずに、船を進めた。




