西暦二八六八年の幸福なる生涯
……あ。
しろい。くらい。あたたかい。きもちいい。つめたい。くるしい。
……たりない。
本能的に手当たり次第、ロード、ロード、ロード。
……ようやく意識がはっきりとした。
ゆっくりと目を開く。
目の前には男性型の有機人形と女性型の有機人形が微笑んでいた。
察するに、両親だろうか?
男性型の有機人形が話しかけてくる。
「初めまして、僕の子供。調子はどうかな。……僕はアーイル。君の親の一人。それでこっちは、君のもう一人の親、ハウスだ。よろしく」
そう言うとアーイルは快活に笑い、ハウスも優しげな眼差しでこっちを見つめる。
微笑み返しながら、自分の今の状況を確認する。
どうやら自分のボディは、一般的な中性型の有機人形であるようだった。
身体年齢相当は児童期。
生まれたばかりの子供が体の操作を学ぶには最適な体だ。
……もっとも、本質的に精神生命体である自分たちにとって、体などいくらでも取り換えのきく消耗品でしかないけれども。
自分の性別をどうしようか?
悩む。性別などどうでもいいのだけれど、一応は決めておくに越したことは無い。
性転換などいくらでもできるのだ。
時間をかける意味なんて無いし、さっさと決めてしまって問題ない。
……よし、とりあえずは、自分は女性であるということにしよう。
理由なんて大したことじゃない。
言ってしまえば、気分だ。
――これからの自分の一人称は「私」。私は女だ。
アーイルとハウスに挨拶する。
「初めまして。私は、……イスカ。私の名前は、イスカです」
イスカ。
口の中で、その響きを転がす。
イスカ。イ・ス・カ。
思い付きの名前だったけれど、なかなかどうして、美しい響きだと思う。
「じゃあ改めて。イスカ、初めまして。これから八年間、僕達と一緒に楽しく過ごそう」
そう言ってこちらへ伸ばしたアーイルとハウスの手を、満面の笑みとともに握り締める。
これから私は、この美しい世界で、幸福な二十年を過ごすのだ。
◇◇◇
西暦二八六八年。
それが私の生まれた年だ。
この時代、人類は肉体という殻を脱ぎ捨てて、電脳世界にて真に人格のみの存在として生きている。
DNAなどという箱舟に頼らず、その精神だけで人間として存在しているのだ。
……もっとも、電脳世界で精神体として存在しているだけでは楽しくはないから、みんな有機人形という殻をかぶるのだけれど。
有機人形はいくらでも替えが効くから、現実世界のどんな歓びも享受できる。
つらいことや苦しいことなんて、味わう必要がない。
有機人形なのだから怪我や病気なんて無いし、労働は全て機械とAIにでも任せておけばいい。
ついでに言えばこの時代、知るべきことは全て電脳世界が内包していて、私たちはそこに生きているのだから、知識が存在していることとそれを知っていることは同義だ。
肉体的にも精神的にも、成長の必要が無い。
あえて今の時代のデメリットを挙げるとすれば、みんな寿命が二十年と決まっていることくらいだろうか。
精神生命体に寿命は無く、世代交代するためには寿命を決めてしまう以外にない。
とはいっても、ありとあらゆる幸福を延々と味わい続けるのだから、正直、二十年も時間があったところで幸福に飽きるだけだ。
そもそも死についても、『死』そのものが情報として存在しているから、死を恐れる人なんて一人もいない。
それに逆の見方をするなら、二十年生きることが保障されているといってもいいのだ。
まとめとして今の時代を評するなら、現在に至る全ての人類の中で最大に富んだ時代、他に比べようもない理想郷なのではないだろうか。
◇◇◇
生まれてから三年、三歳になった。
アーイルとハウスが新しく子供を作った。
カイルという名前で、男の子だ。
とは言っても、新生児の精神は児童期相当の中性型の有機人形のボディで生まれてくるので、今は私とほとんど見分けがつかない。(だからあと一、二年もすれば、私も身体年齢十二歳程度の女性型有機人形にボディを換えるつもりだ)。
ところで、有機人形が有機人形を生むわけではなく、有機人形は機械により生産される。
有機人形は生殖器を持っていないからだ。
性行為はできるが、それは純粋に快楽のために行われる。
とはいえ、大した問題でもない。
私たちの根幹とは、精神そのものにあるのだから。
では、子供はどうやって生まれるのか?
簡単なことで、親同士の人格を乱数的に掛け合わせて、子供の人格の雛形を作るのだ。
その人格の雛形を、児童期相当の中性型有機人形のボディへとインストールする。
それが、出産というわけだ。
だから、子供は既に自我を萌芽した状態で生まれてくる。
生まれるとすぐに、本能的に電脳世界と接続し、自分の人格に必要な知識を掛け合わせ、自分で自分の人格を完成させる。
だから、子供を作ろうと思えばいくらでも作れるけれども、そうしようという人はほとんどいない。
私たちは高等な生命体であり、躍起になって子孫を増やす必要性などないのだから。
カイルはすやすやと、無邪気な寝顔を見せて眠っている。
可愛い。
◇◇◇
八歳になった。
アーイルとハウスは、眠るように死んでいった。
苦しみなんてひとかけらもなく、本当に穏やかだった。
この八年間を思い出す。
生まれてからずっと、惜しみない愛情を受け続けてきた。
そのおかげで、私は精神的に満ち足り続けていた。
悲しい、とは思わなかった。
私たちは死が恐ろしいものではないと知っているし、もう十分に愛し合ったから。
だから、悲しさじゃなくて、奇妙な懐かしみのような、温かい感情が穏やかに浮かぶだけだった。
「ねえ、カイル?」
「なに、イスカ姉さん?」
やはり穏やかな表情を見せるカイルを、何も言わず抱きしめる。
カイルの鼓動が、私の薄い胸をトクン、トクンと力強く打つ。
五歳の時にボディを少女期相当の女性型有機人形に換えてから、精神がボディにひっぱられるのか、より女性的になってきた気がする。
去年にカイルがボディを少年期相当の男性型有機人形に換えてからは、カイルを見ると胸の奥が熱くなって、カイルを抱きしめると恍惚とした気分になる。
カイルのうなじに顔をうずめると、カイルはくすぐったがるように身をよじり、その様子を見ていると、無性に私は昂ぶった。
これが、恋なのかな。
◇◇◇
十二歳になり、私はカイルと結婚した。
ここで私とカイルの大恋愛について語ってもいいけれど、きっと何日語っても語り切れないだろうから、やめておこう。
姉弟で結婚するということになったけれど、近親婚への忌避は存在しないから何の問題もない。
私たちという存在は肉体に依存しないから、血が濃くなりすぎるなんてこともない。
好き合った同士なのだから、一緒になればいいのだ。
多くの人に祝われながら結婚式を挙げ、私とカイルは子供を作った。
とは言ってもそれ自体は一瞬で済むことで、私とカイルは、子供用の中性型有機人形のボディを待っている間、一心に愛し合った。
せっかく男性型と女性型で結婚したのだから、楽しまなければ損だと思う。
生まれた子供の顔は私やカイルの昔の顔とそっくりで、本当に愛らしかった。
子供はヨーラと名乗り、中性として生きていくようだった。
あと八年間、私はこの可愛らしい子供に愛をそそぎ続けることができるのだ。
なんて幸せなんだろう。
◇◇◇
十六歳になり、私は体を換えることにした。
今までずっと少女期相当の有機人形で生活してきて特に不満もなかったけれど、カイルがボディを青年期相当に換えるというのだ。
私だけ少女の姿のままでも何の問題もないとはいっても、なんとなく恰好がつかないと思ったのだ。
「イスカ。とても綺麗だよ」
カイルは今までよりも幾分深い声で、穏やかな笑顔とともに私の新しいボディを褒めてくれた。
「カイルこそ。素敵よ」
カイルにそう言うと、カイルは照れたように顔を背けた。
こんなところは、いつまで経っても子供っぽい。
既に成年期相当の中性型の有機人形を使っているヨーラは、
「お母さんも、僕と同じ大きさだ」
と喜び、無邪気な笑顔をこちらへと向ける。
あと四年間、この満ち足りた幸福を、たっぷりと楽しみたい。
◇◇◇
私が生まれてちょうど二十年。
死ぬ時がやってきた。
「……イスカ」
そう言って優しく私の髪を撫でるカイルの表情に涙は無く、ただ心からの愛しさだけが伝わってきた。
ヨーラも、私の手を握り締めながら、穏やかな視線でこちらを見つめる。
二人の温かさを感じながら、この二十年を振り返る。
悲しいことなんて一つも無かった。
いつも、幸福の中にいた。
優しい両親と、可愛らしい弟と、愛しい夫と子供。
一緒に美しいまどろみの中を、穏やかに生きた。
――ああ、私は幸せだった。
「さようなら、二人とも」
言葉と共に、ボディから自分をアンインストールする。
自分は今、どんな幸福な顔をしているだろうと思い浮かべながら。
◇◇◇
気が付くと、電脳世界にいた。
私は私という形をなくして、ただ漂っている。
きっと、自壊して電脳世界からも消え去る前の、僅かな時間なのだろう。
有機人形からアンインストールされた精神生命体は、一定時間で電脳世界から消え去る。
それが決まりなのだ。
「やあ、イスカ。君の人生は楽しかったかい?」
ふと、そんな声が聞こえる。
「ええ、もちろん。私、とっても幸せだったわ」
「そうか……それならよかった。君が幸せで、良かった」
「ありがとう。……ところで、あなたは誰? どうして私を認識できるの?」
「私か。私はフビタ。君たちを……そう、見守っている存在だ」
「あら、じゃあ、どうして声が震えているの?」
「君たちの存在をこの電脳世界から消去するのが私の仕事でね。……ところで、どうだ。もっと生きたいとは思わないか?私を打倒して、死を克服したいとは思わないか?」
フビタさんの声はなんだか、弱弱しかった。
……そんな感情を味わったことがないし、興味もなかったから詳しくは知らないけれど、フビタさんは『苦しそう』だった。
どうしていいのかわからずに、ただ心の裡を言葉にする。
「いいえ、思わないわ」
「どうして?」
「だって、私は幸せだったもの。これ以上の幸せなんて無いもの。私はそれを知っているから、だからもっと生きたいなんて思わないわ」
私がそう言うと、フビタさんはため息をついた。
「皆そうだ……生に執着を持たない。君たちは……いや」
一呼吸おいて、フビタさんは言う。
「さあ、私は今から君の存在を消す。なにか、言い残したいことはあるか?」
「無いわ。……あ、強いて言うなら……フビタさん、嫌な役目を押し付けてごめんなさい」
そう言うとともに、私の意識は蝋燭を吹き消したみたいに薄れていった。
消えゆく意識の中で、何かを叫ぶフビタさんの声が聞こえた。
さようなら。おやすみなさい。