ヌゥの影
遠い遠い過去の時代、未だこの地上を照らすものが宙天に浮かぶ焔の珠と、夜空に浮かぶ薄光の珠だけであった時代。
現代ではアジアと認識される地域の大河のほとり、小さなムラ。
そこに、ヌゥという男がいた。
ヌゥは妙な男であった。
農耕など影も形も存在しない時代である故、ムラが食物を得る手段は採集と狩りのみに絞られる。
女衆が採集を行えば、男衆が狩りに出かけることは至極当然。
動物の皮を体に纏う屈強な男たちとともに手に硬い木でできた槍を携え、狩りに加わるのはムラに住まう者の義務であった。
しかしヌゥはそうしようとはしない。
一日中、ウロウロとムラの周辺を歩き回り、時たま木の実を携えて戻ってくる。
それがヌゥの生活だった。
これはヌゥが臆病であるというよりも、その性向が大きく関係したことだった。
ヌゥは他人とうまく接することができなかった。
狩りに赴こうとも、他人とともに獲物を狙うというその行為そのものが性に合わなかったのである。
仮に現代にヌゥが生まれ落ちていれば、彼は共感能力欠如症候とでも診断されうるのかもしれない。
しかしこの時代にはそもそも精神疾患という発想すらもなく、ヌゥはただ臆病な者と見られていた。
この時代のムラにおいて臆病者と誹られることは致命的であった。
狩りにより得てきた肉の多寡が男の価値を決定する時代のことである。
臆病者と呼ばれるヌゥは、たとえ木の実を取ってきたとしてもムラの一員とは認められなかった。
ある日、ムラオサが三日分ほどの干し肉を抱えてヌゥに言い渡した。
狩りに参加する気はないのか。
参加しないのならば、この食料を与えるからどこへでも去ってしまえ、と。
ヌゥは悩んだ。
ヌゥは数えで十七であった。
母も父も寿命で息絶え、天涯孤独であった。
悩んだ末、ヌゥはムラを出て行くことに決めた。
ムラにはヌゥを引きとめようとする者はいなかった。
ヌゥは誰にも見送られず、ある日の夜明けとともにムラを出た。
ヌゥは西を目指して歩いた。
干し肉はすぐに尽きたが、これまで木の実の採集や川魚の釣りなどで生きてきたきたヌゥはそれほど困らなかった。
旅には恐るべき困難が伴った。
道なき道を行き、あらゆる厄災を切り抜ける。
雪が積もるほど高い山も、日の射さぬほど深い谷の底も、猛獣はこびる沼地も、沈めば生きて帰れぬ湖も、死にかけながら踏破した。
そうして日々、ヌゥは逞しくなっていった。
ムラでこそ発揮されなかったが元々身体能力は優れており、その体力は日が出ている間ずっとの移動にも衰えを見せなかった。
ある日ヌゥは焚き木を燃やしながら、一人溜息をついた。
一体、いつになったら自分の求める者は見つかるのか。
ヌゥの探し求めているのは、自分を受け入れてくれる他人であった。
自分を丸ごと抱きしめてくれる人間がいれば、それだけで幸せになれると思っていた。
焚き木の炎にチラチラと揺れる己の影。
ヌゥはそれを見つめて小さく呟く。
――お前がいなくば、おれはたった一人だ。
日中、ただ西を目指すヌゥにとって、己の影はどこまでも付いてきてくれる唯一の友であった。
何度、挫けそうな心をこの影に励まされたことか。
何度、この己の影を心強く思ったことか。
ヌゥは揺れる己の影を見ながら、知らぬうちに寝入った。
長い月日が流れた。
どれだけの距離を旅してきただろうか。
いや、幾年を旅に費やしただろうか。
それすらもヌゥには判然としなかった。
相変わらずヌゥの探し人は見つからず、ヌゥは一人、己の影を連れるままであった。
無論、当然のことである。
いったいどこに、ムラからすら追い出されて旅するような者を、心から受け入れてくれる人間が存在するというのか。
言うまでもなく、そんな奇特な存在などなかった。
ヌゥもまた、薄々とそれに感づいてはいた。
しかしながら、旅を止めようとはしなかった。
これまでの己の歩みを否定することを恐れたのである。
仮に、この足を止めてしまえば。
放浪に費やした己の生が、一息にその意味を失うような予感がした。
この日、ヌゥは土でできた壁を持つ廃屋の下で雨宿りをしていた。
この地方ではめったに雨が降らないものの、一年に一度か二度、猛烈な雨が降るのであった。
ヌゥは運悪くも、その機会に直面したのである。
ヌゥは顔を顰めた。
土でできたこの壁は、雨を吸い込んでしまう。
崩れ落ちることは無くとも、足元には泥水が溜まるし泥水は時々頭上にまで跳ね上がってくるし、大変に不快であった。
夜が明ける前から降り続いていた雨は正午になる前には止み、もう雨が降っていないことを十分に確認してからヌゥは外に出た。
太陽の光が燦燦と降り注ぎ、一過性の湿度が辺りを満たしていた。
ヌゥは汗を拭って歩き始める。
と、ふとヌゥは気づく。
――無い。どこにも、無い。
己の大切な、唯一友とする影が。
どこにも存在しないのだ。
ヌゥは声にならぬ絶叫を上げた。
どこに行ったのだ!?
己の大切な影は、友は、いったいどこに行ってしまったのか!?
しかし探してもどこにも見つからぬ。
その辺の枯れ木の影は存在するというのに、どこにもヌゥの影は無いのであった。
ヌゥは水も飲まず、声を枯らしながら己の影を求め続けた。
そして数時間の後、ヌゥは眩暈を感じて地面に倒れ伏した。
ヌゥは気持ちの悪く痛む頭すらも無視して、影のことを考えていた。
――おれが影のことを大切に考えていなかったのだろうか。
影はいつだってすぐそばにいてくれていたのに、おれがいつまでも理想を探し続けるから、嫉妬してどこかに隠れてしまったのだろうか。
ヌゥは強烈な後悔を抱くと同時に、影への感謝を思い浮かべていた。
――ありがとう、影よありがとう。
お前がいなくなって初めてお前の大切さがわかった。
だから影よ、おれのそばに帰ってきてくれ。
既に太陽は西に傾いていた。
ヌゥはふと太陽から目を背けた。
あの焔の珠が己を嘲っているように思えて仕方がなかったのだ。
――すると、ある。
ヌゥの影が、探し求めた影が、すぐそこにあるではないか!
ヌゥは驚喜した。
己が右手を挙げると、追従して影もまた手を挙げる。
その当然のことの、なんと素晴らしいことであるか!
ヌゥは笑った。
けたたましく、今まで生きている中で一番の大声で笑った。
最高の気分だった。
己の望んでいたものは、今ここにあるのだ!
ヌゥの笑い声はいつまでも続いた。底抜けの笑い声は、遠く夜の闇の中に響いた。
数日後、そのあたりを通りかかった近隣のムラの住民は、奇妙な人間の死体を見つけた。
死体が転がっているのはそう珍しいことではない。
しかしどうだ、あの死体は、あんなにも嬉しそうな顔で笑っているではないか!
住民たちはひとしきり変なこともあるものだと言いあって、そこを離れた。
後には幸せそうな男の死体が転がるだけであった。
場所は現代で言うエジプトのシエネ、時期はちょうど夏至であったという。
◇◇◇
珈琲の香りがふわりと広がる室内。
ユタカはその香りを楽しみながら、己の目の前にある機械が吐き出した文章を読んで、軽く頷いた。
ここは東都大学工学部工学科知能発達研究室。
ユタカはここの主任であり、ちょっとした実験をしていたところであった。
文学部の何とやら教授の持ってきた妙な企画であった。
その教授の発掘した頭蓋骨から、我が研究室の誇る世界に一つしか存在しないボトムアップ型AI『hubit』に、それにまつわる物語を作らせようというのである。
数年前に開発されたこの人工知能hubitは当時、世界中を議論の渦に巻き込んだのだが、それもあって高い注目度を有している。
それを狙って何とやら教授が自分の研究に世間の耳目を集めようと、ゴリ押しでこの企画をねじ込んできたのであった。
教授によれば、その二万年前のものと思われる人の頭蓋骨はエジプトのシエネで発見されたらしいが、どうやらアジア人の形質を有するようだった。
hubitがそれにまつわる奇想天外な物語を作れば、教授はそれを公表して世間の歓心を買おうという心づもりだろう。
ユタカとしては己が丹精込めて作り上げたhubitにそんな客寄せパンダのような真似をさせるのもあまり気が乗らなかったのだが、hubitは提案を拒否するでもなく、ただ淡々とこなした。
ユタカはもう一度hubitの作りあげた文章を読む。
大筋では特に小説として破綻はない。
ただ、最後の影が消えてしまうという部分は、シエネという場所についての予備知識が無ければ少し厳しいだろうか。
シエネという場所は、夏至の日の正午、太陽が完全に南中する場所なのである。
つまるところ、地面に対しちょうど九十度に太陽の光が差し込み、あたかも影が無くなってしまうように見えるというわけだ。
……もっとも、かがんでしまえばその部分には影ができてしまうわけであるが。
それは小説なのだから細かく追及しなくともよかろう。
ユタカはもう一度軽く頷いた。
これなら何とやら教授に渡しても問題あるまい。
ご満足いただけるかはともかく、最低限以上の仕事はこなしたはずだ。
ユタカは珈琲を飲みほし席を立った。
今日はワイフから早く帰って来いと厳命されているのだ。
たまには早く帰らねば、ワイフはまた怒ってしまうだろう。
退出する旨をhubitに伝え、足早に研究室を出る。
外に出ると、すっかり月が出ていた。
しまった、そんなに早くもなかったと冷や汗をかきながら帰路を急ぐ。
その途中、ユタカは不意に街灯の下で足を止めた。
後ろを振り向くと、背後には黒々と影ができていた。
ユタカは右手を挙げる。
影もまた追従して手を挙げる。
ユタカはどこか安心して、再び帰路を急ぐのであった。