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短編小説集

夜空の記憶

作者: 摂氏

夜が訪れるのならば、いずれは朝も訪れる。朝が訪れるのならば、いずれは夜も訪れる。こうして、僕が在る世界は時を刻み続けてきた。これまでも。そしてきっと、これからも。

そんな世界に、限りある命を燃やし尽くすまで、僕もまた在り続けるんだろう。

そう、何の疑いもなく僕は、無常を刻む日々を怠惰に生きてきた。傍らに、粗放な僕を恋い慕う少女を置いて。

日々に唐突な変化なんてものはなかった。素朴な幸せと、純朴な少女とのささやかな日常。でも、他に望むものなんて何もなかった。

この日々が、僕が在る限り続けばいい。それが、無欲な僕が望んだ、唯一のわがままだった。


そんな、たった一つだけの願いだったのに……。


気が付けば僕は、色のない世界に立ち尽くしていた。比喩でもなく、言葉通りの世界だ。見渡す限りの黒と白。灰色の世界で、ふと落ちた視線を遮る自分自身の肌の色さえも、白く削げ落ちてしまっていた。

焦りと恐怖に埋め尽くされた僕の心。視界は揺れ動き、冷や汗が浮かび、心は安堵と平静を求めるが、縋るように見渡す自室から得られそうな安心はなかった。

誰か、いないか。僕の家族は?よぞらは、どこに……。

愛しい人の名と、嫌な予感が同時に脳裏を掠める。愛しい人の姿を探そうと、動き出した僕の足は止まらない。よぞらの姿を求めて、心の安寧を求めて、僕は怪我さえも厭わずにひた走った。

見慣れた僕の家の中。外。近所の公園。記憶を頼りに、よぞらとの思い出が散りばめられた場所を探し、町中を駆け回った。でも、よぞらの姿はなかった。

それだけじゃない。家の外には、人の姿さえ見当たらなかった。街中を駆け走って、生き物の影一つすらも見つけられなかったんだ。

在ったのは、生き物の在った痕跡。ただそれだけ。家。車。道に放り投げられたゴミ。物干し竿に揺れる衣類。僕の家族が過ごしていた時のままのリビング。全ての色は褪せていたけれども、僕が目覚める前までは、確かに存在したかのような生活、文明の痕跡が、物静かに主張していた。

放心状態のまま戻ってきた自宅で、僕は憮然とした面持のままで、暗い空を仰いだ。あれだけ全力で走ったのにも関わらず、疲れを忘れてしまったかのように、僕の足は動いた。息切れも、疲労もない。まるで、全ては夢のようで……。

そうだ……これは、夢。意識が隔離された、僕の世界。

的確に現状を表した言葉を、僕は知っていた。色のない世界。生き物のいない世界。肉体的な感覚も、存在しない世界。あるものは、精神的な感覚と感情……自我と心だけ。

これは、なんてことはない夢だ。いつもより、少しだけ鮮明な夢。自我が生きている夢。

そうだ……そうに違いなかった。そうだとも、当たり前じゃないか。

それ以外の可能性なんて、在ってはいけなかった。

僕が在る世界に、彼女がいない。僕の半身のような彼女が、片割れの居る世界に存在しない。それは、僕にとっての『死』と同義だったから。

そう、これは夢だ。そう思えば別段、途方に暮れる必要はなかった。彼女も……人さえもいない状況に絶望することもない。僕の夢の中に在る僕がすべきこと。その答えは簡単だ。

混濁した意識の淵から這い上がるまで、ただ待つ。彼女のいる世界で、いつものように目覚める時まで、ただ独りで待ち続けるだけ。それだけでいい。夢から覚めるために、身体を伴わない意識体でしかない僕にできることは、きっとほとんどない。

でも、自我が介在する夢を今まで経験したことがなかった僕は、それだけで十分だと、信じて疑うことはなかった。


……


「植物状態です」

「……え?」

私の喉から、私の意志とは関係なく、声が漏れた。無礼な返し方だとは承知しつつも、咄嗟に口を飛び出した言葉を引き戻すことはできない。

担当の医師は彼を一瞥し、感情が感じられない瞳で、再び私を見据えた。

「神崎さんは、植物状態です。脳幹部以外の機能の消失が確認されました。」

淡々と告げる医師の言葉が、私の耳から脳に染み込んでいく。でも、意味の理解を拒む。医師の言葉には、現実味がなかったから。私の隣で眠る彼は、いつも通りに眠っているようにしか見えなくて……でも、彼は確かに目を覚ますことはなくて……。


医師が去り、半狂乱のみゆきの家族を落ち着かせた私は一人、大学病院の一室に戻った。彼の眠る、病室に……。

私以外の気配もない廊下は、私の靴の音だけを反響させ、正面の曇りガラスから差し込む日の光だけが、薄暗い廊下を淡く染めた。510とインクの掠れたペンで書かれたプレートの下に、見慣れない書体で記名された、見慣れた名前。

神崎美雪。その名前に、見間違いはなかった。

空調のため、僅かに開かれた窓の外から響く、うぐいすの声。もうじき訪れる、桃色の桜の季節を予感させる、風の便り。春の涼風が吹き込む病室の片隅に、彼は眠っていた。耳元で囁けば、いつもの調子で気怠そうに起きるんじゃないかなって……私は思ったんだ。

一歩一歩と歩を進める度に近くなる、彼との距離。今日の朝みたいに、私と彼の時間を邪魔する人は……今はいない。彼の横に立ち、彼の寝顔を見つめる私はきっと死んだような目をしているのだろうけど、確かに今、私と彼は二人きりだった。

でも私は、未だに信じられなかった。ベッドに横たえられた私の恋い慕う人が、身動ぎ一つさえできず、私を私と知る彼の意識は、遠い夢の彼方に在ること。いきなりそんなことを言われても、信じられるはずがなかった。信じたくもなかった。

「みゆき」

空虚な病室に響く、私の嗄れた声。美雪の癖のついた前髪を、指先でそっと梳く。また、あの笑顔が見たくて。また、あの声が聴きたくて……。

でも、彼が微笑むことはなかった。『くすぐったい』の言葉も、彼は囁いてはくれない。瞼を閉じたまま、色素の薄い唇も動かない。僅かに上下する胸だけが、彼が生きていることの証明。

「……みゆ、き」

涙に塞き止められてしまいそうな二度目の問いかけが、虚空に震わせた。

私の独り言のような問いかけが、私の胸に想いを募らせる。募る想いは行く宛てを失い、やがて一筋の雫となって、私の頬をそっと滑り落ちていく。

微かに絞り出せた声なのに……それでも、彼が私を見てくれることはなくて……。

「なん、で……」

彼の袖を握ったまま震える手に、溢れる想いが滴り落ちた。

いつものように、私の名前を呼んで欲しかった。いつものように、か弱いあなたの大きな身体に包まれたかった。あなたが、ただ戻ってきてくれるだけでよかった。他に望むものなんて、何もなかったのに……。

日差しが窓から差し込み、細身のみゆきを包む。あたたかな春の日差し。涼風に桜の舞う季節。私たちの心にも訪れるはずだった、あたたかな春の到来。もうすぐ、出会いと別れの季節がやってくる。

私は、信じていた。これが、永遠の別れじゃないって。また、笑顔の彼と再会できる日がきっとくる。いつもの調子で、へらへらと笑う彼の隣に寄り添う日々が、必ず戻ってくる。いつもの日常が、またいつか、きっと訪れるって……。

だから私はそれまでの間、彼への永遠に潰えることのない想いを胸に抱えたまま、彼の目覚めを待ち続けよう。彼の病症を解決できるほどの知識も技術も持たない無力な私には、そうすることしかできないから。

「……」

でも、何故だろう。それで十分だと、私には思えたんだ。すぐに、彼は帰ってきてくれるって。明確な根拠はなかったけど、いつかまた彼の笑顔に頬が緩む日が来るならば、私はいつまでだって待てるような気がした。


……


夜が訪れ、やがて朝が来る。朝が訪れ、やがて夜が来る。相容れない二つの色も、白と黒の二色になってしまえば綺麗に混ざり合う。

あれから僕は何度、色を失った世界で朝と夜の移り変わりを見たのだろう。それすらも、もう忘れてしまった。

いつ、世界から色が消えてしまったのか。いつから、僕はここに在るのか……それさえも、僕はもう思い出せない。

ただ唯一、僕の心に色褪せないまま在り続けている、一縷の望み。希望。在りし日の日常の記憶。

「……よぞら。」

掠れた声で呼ぶ名は、決して僕から消えることはない、僕の心の在り処。彼女への思慕の情は、消え入りそうな僕に反して、心からは消えない。だからこそ、それは僕を苦しめる。隔絶され、目覚めを失った世界で僕は、ただひたすら君を想うことしかできない。遥か遠い世界の君を想い、孤立した世界で僕は独り、当て所もなく彷徨う。感情さえも麻痺した僕の瞳に映る孤独な世界は、いつの間にか僕の日常の一風景でしかなくなり、涙なんて……疾うの昔に枯れ果ててしまった。

よぞらだけが、今の僕に残された僕の全てだった。

彼女を忘れたその日が、僕の命日になる。薄れた感情の片隅に残った、思慕の情だけが、僕を明日へ明日へと突き動かす力だった。

この世界で目覚めた日から、僕の足は、よぞらとの思い出の場所だけを求めて、ただひたすら転々と彷徨い歩いていた。来る日も来る日も、疲れ方を忘れた身体が心に先導されているかのように、僕はよぞらを求めて彷徨い歩く。まるで時間が止まってしまったような灰色の空間で、僕はよぞらだけを求めた。

どうしてこうなってしまったのだろう。僕が、何をしたのだろう。

何度、問いかけたのか。誰への問いかけなのかもわからない言葉は、僕の喉を震わせることもなく、いつしか僕の心からも消えていく。このまま声すらも消え、やがては言葉さえも、僕から消えてしまうのだろうか。僕を構成する要素の一つ一つが、体感的な時間に合わせて死んでいくような感覚。

僕は、怖かった。

灰色の世界に独り、呆然と立ち尽くす僕。見上げる夜空からは、色を失くした星々の煌めきが降り注ぐ。灰色の星が降る、夢幻の世界。

僕とよぞらの再会の日を、この世界が忘れてしまっているのなら……僕は、よぞらのいる世界で再び瞼を開くことはないのかもしれない。この世界に取り残されたまま、延々と孤独に彷徨い続ける運命だとしたら……僕は、記憶の中で微笑むよぞらにまた会える日が来るのだろうか。

「……」

いつまでも色褪せない、淡い希望に手が届く日を夢見る暗い日常が、ここには在った。


……


一冊の日焼けした書冊に、私は視線を沿わせる。純白のベッドにリノリウムの床、捲るページの上を彷徨う日差し。視界の端に揺れる、初夏の息吹。無機質な病室の壁に、切り取られたような青と緑の世界が映る。新緑の季節を彩る若葉が、一本の大きなミズキの枝に揺れていた。

この美しさに、私はどれくらい見惚れてきたのかな。季節は巡り巡って、いつの間にかここに通う生活にも慣れてしまったけれども、この部屋から見えるこの景色だけは、いつまで変わらずに、新鮮な美しさに満ち満ちていた。

ここに通い始めて、もう3年になる。私の想い人は、未だに深い眠りについたまま、今日も目を覚ますことはない。限りある命の灯火が、無情に終焉を数える。目覚めることを忘れてしまった意識は、私との限りある時間さえも削り取っていく。

誰が悪いわけでもない。わかってる。でも、みゆきと連れ添って紡ぐはずだった明るい未来に暗雲が立ち込める今、想いを吐き出す矛先の一つでもあればよかったと、切に願わずにはいられなかった。

怠惰な日々の思い出が色褪せることはなく、あの日々への郷愁にも似た気持ちは、日に日に強くなる一方だ。

「みゆき」

お気に入りの書冊をみゆきの枕元に置き、彼の耳元で囁いた。例え僅かな可能性でも、これが彼の目覚めに繋がるのなら、私は何でもしたい。あの日々に、また手が届くのなら……。

でも……私は今日もこうして、目覚めることのない彼の元へ通い続ける。彼のため、私のため。

みゆきは、死んでしまったわけじゃない。燃え尽き、灰となった身体が、土の下に眠っているわけじゃない。生きて、私の隣にいる。こうして、彼の肌に触れることだってできるのに、彼は目覚めてはくれない。私の言葉も、彼の意識には届かない。

それでも……彼は生きている。だから、私は諦められないんだ。僅かな可能性でしかない望みだってわかっていても、彼が生きている限り、縋りついてしまうんだよ。

また、優しい彼と過ごす日常が戻ってくる。怠惰な彼と、怠惰に過ごす日々が、私の日常に置き換わる。そんな幸せに輝いている日々を生きていた、あの頃の私を羨望する日々が、今の私の日常だった。

みゆきは、相も変わらずに眠ったまま。私はそっと彼の前髪を梳き、彼の枕元に置いた本へと手を伸ばした。

彼が深い眠りに落ちたあの日。趣味も、特技も、仕事もなかった私に与えられた、真っ新な空白の時間。永遠の孤独を感じた、あの時間。みゆきを見舞って、みゆきの世話を終えて、家に帰って床に就く。独りの私に与えられた『一生』という時間は、あまりにも長すぎた。

何にも手が付かず、ただボーっと過ごすだけの怠惰な日々は、あっという間に過ぎていった。彼と過ごす有意義で怠惰な生活とは違う、もっと生産性がなくて、寂寥感を増長させるだけの日々。

そんなある日、彼の部屋の整理中に見つけた本がきっかけだった。

彼の少ない趣味の一つだった読書。本の話になると、必ず彼が話題に出していた著者の作品を見つけ、私は手に取った。

『Little cuckoo』と題された、一冊の洋書。丁寧な装丁に惹かれながら、一ページ目を開いた時の記憶は、今でも鮮明に残っている。

彼が目覚めたときに、彼と共有できる趣味が一つでもあった方がいいかなって、私は思ったんだ。暇を弄んでいた私の小さな趣味として、眠る彼の横で、目覚めた彼と共通の趣味の話題で盛り上がれるようにって……。

今、私の手元にも一冊の書冊がある。日に焼け、黄土色に変色したページを目で追う毎に、彼の心に近づいているような……そんな気分になれる。彼の読んだ本を読み、彼と心を通わせる。同じ感覚を共有し、同じ思想に至る。彼と私は似ているかもって……読書は、私と彼の心の再会を許した。

彼が目覚めたら、まず初めに『おかえり』って一言を伝えよう。そして、彼の大好きな本を掲げて言うんだ。読書、好きになったよって。きっと、あなたは喜んでくれるよね。あれだけ私に、読書の楽しさを伝えようと必死になっていたんだから。

「みゆき。早く、起きてよ」

早く、あなたと言葉を交わしたい。あなたの声を聞きたい。あなたの温かい手で、私の身体に触れてほしい……。

ミズキの枝葉が揺れる、昼下がりの蒼穹の下。暖かな日差しが差し込む病室内で、そよぐ風の音が私たちを包み込んだ。

もうすぐ、7月がやってくる。みゆきの服も、そろそろ半袖を出しておいた方がいいかもしれない。

視界の片隅で、純白の入道雲と広大な蒼穹を背景に、ミズキの木がさざめいた。


……


記憶は、徐々に薄れていく。パズルのピースが、一つずつ欠けていくように……。

経年の感覚を失い、この世界に閉じ込められてから幾星霜。在りし日の日常の全ては泡沫、幻、妄想の産物に過ぎなかったと思ってしまえば、多少は楽になれた。

灰色の月明りに、舞う埃が煌めく。まるで、僕の間近で揺らめく、幾つもの星のようにも見えた。

僕は廃墟のような自宅にある、薄汚れたベッドに寝転がり、割れた散ったガラスの残る窓から覗く夜空を独り、ボーっと眺めていた。この、偽りの世界を。ただ、ボーっと……。

本当は、最初から気付いていたのかもしれない。今となってはもう、わからないことだけれども。

僕の頭から欠けていく記憶に沿うように崩壊していく街、物、自然。僕の頭から抜け落ちる記憶のピースは、この世界を構成するピースに反映されていた。

忘却の果てに追いやられた世界は、無に還る。僕が居たはずの世界に係る記憶が抜け落ちていく度に、この世界は暗黒に浸食されていく。

僕が手に持っている本もそう。僕が大好きな著者の書冊だって、記憶の中には抽象的な粗筋でしか残っていない。だから、僕はこの本を読むことができない。本文に係る記憶が欠けてしまった今、この本に書かれた文字はもう読めない。所々が破れ、擦り切れた空白のページに、黒く滲んだインクが延々と続くだけ。稀に、僕の記憶に残っているフレーズや文字が無造作に並べられてはいるけれども、どのフレーズも言葉も、僕の記憶の中にあるものばかりだ。読み耽る楽しみなんて、ほとんどない。

ここは、そんな世界だ。僕の記憶に係る世界。なんで僕がこの世界に在るのかはわからないけれども、この世界は確かに僕の記憶に依って存在していた。

僕は、空白のページで埋まった本を閉じる。やることはない。目を閉じて、在りし日の思い出に耽る時間が、一番楽しかった。

「……」

よぞら、と囁いたはずの言葉は、もう声にはならない。絞り出す気力も、今となってはもう残ってはいない。

でも、よぞらに係る記憶だけは、確かに僕の中に残っていた。彼女が存在したという証が、この部屋には確かに残っているから。

僕は、ベッド脇の棚に置かれた、古ぼけた1枚の写真を手に取った。

そこに写る、微笑みを浮かべながら、僕の肩口から顔を覗かせるよぞらと、気怠そうにピースサインを作る僕の2ショット。色は抜け、白か黒かの境界も曖昧になりつつあるけれども、それは確かに僕とよぞらが共に存在した証だった。

こんな顔だったっけな、僕の顔は……。

よぞらが隣に連れ慕う、あの頃の僕から溢れ出る幸せは、隠せていなかった。

僕の記憶に残る、確かな思い出。決して色褪せてはいけない、僕にとって何よりも大切な記憶の欠片。この思い出と、そこに繋がる一縷の希望があるから、僕は孤独を克服できたんだ。

だから僕は今日も、よぞらのことを想い、夜空に彼女の姿を思い浮かべる。星の煌めきも、この世界から消えることはない。それも、彼女との大切な思い出の一部だったから。

もし、僕の記憶に残る彼女に係る思い出が薄れてしまいそうになっても、その記憶に依る世界が教えてくれる、彼女との繋がり。記憶が薄れてしまう前に、この世界に在る僕の記憶が、ここにいる僕の記憶を補完し、彼女との繋がりは保たれる。

「……」

よぞら。何よりも大切な人……。

音のない世界で、声を失った僕が独り、想い慕う。また、もう一度だけでも会いたいと想い願う。一心不乱に、それだけに縋る。本当に、よぞらと過ごす日常が戻ってきてくれるのならば、他には何もいらないんだ。

だから……僕はまた、僅かばかりの可能性に縋って、この世界を彷徨う。

それだけしか、僕にはできないから。


……


この世界に在る命のそれぞれに平等が分け与えられていると、いつの日から錯覚していたんだろう。平等は、言葉でしか存在しないと、どうして気付けなかったんだろう。

古ぼけた椅子に痛む腰を下ろしながら、私は彼に朝の挨拶を済ませる。秋も間近に控えた、残暑の厳しい9月の下旬。今日は、彼の45歳の誕生日だった。

あなたが深い眠りに落ちて、今日が20回目のあなたの誕生日です。自分の誕生日、覚えていましたか?

「みゆき」

夏の終わりに先だって、短い生を謳歌する蝉のけたたましい叫声が響く病室。私は、小さな声で囁いた。反応は……今日も返ってはこない。

今日も、変わらないか……。

私は、いつもよりも少しだけ多めの荷物から、包装された手のひら大の小包を取り出した。

みゆきは、本を読むことが大好きだった。私と一緒にいる時も、みゆきの傍には必ず本が重なっていて、寝転がっているだけで倒してしまいそうになることもあったくらい。

でもね……あなたが、一度も目覚めることがなかったこの20年間。読書が大好きだったあなたが今までに読んだ読み物の数を、私はきっと超えてしまいました。あなたとの共通の趣味が欲しくかったから、あなたに追いつきたくて読み始めたのに……いつの間にか、あなたは私の後ろで立ち止まっている。私の方にも気付かずに、独りで立ち止まっているの。

だから……私から、あなたへ送る誕生日プレゼントは、これ。

彼の枕元に、包装された小包をそっと置いた。

私が好きな著者の作品から、選りすぐった一冊。あなたが持っている本の中では珍しい、純粋な愛を綴った一冊です。

私の愛の押し売り……と言っては、ちょっと自己満足なところもあるけど。

「誕生日、おめでとう」

小さく囁いた『おめでとう』の言葉と、心の中だけで鳴らす、大きなクラッカー。弾けたクラッカーから飛び出した紙吹雪は、胸の内で静かに舞い、そして散った。

年に一度の大事な日。10年以上も前の話だけど、彼が植物状態に陥ったと知った親族の方々も、その日から数年の間、誕生日の日だけは、お見舞いにも来てくれていたのにね。

今はもう、私一人だけになってしまった。他には誰も、彼の誕生日を一緒に祝ってくれる人はいない。薄情だと言いたい気持ちもあるけれど、彼らの気持ちがわからなくはないから……強く叱責することなんてできない。

植物状態から復帰する可能性は、時間が経つほどに低くなってしまうという。今の彼が、まさにそう。5年以上も目を覚まさない彼の姿を見て、目覚めの期待が薄れてしまうことは当然のことだった。

だからって、生きている彼の見舞いにも来なくなってしまうなんて……やっぱり、間違っているって私は思う。少なくても、私は違う。あなたを見捨てたりなんて……絶対にしないから。あなたが目覚めるまで、いつまででも待ち続けるって、そう決めたから。

「ほら、誕生日のケーキも買ってきたんだ」

私は、ここへ来る途中の洋菓子屋で買ったケーキ入りの箱を、紙袋から取り出して見せた。小分けのケーキしか買えないけど、この日くらいは贅沢してもいいかなって……いつもの言い訳。

「みゆき、今年はショートケーキだけど……いいよね?」

備え付けの小皿にショートケーキを載せながら、みゆきの顔色を窺うけれども、反応は相変わらず。私の分のケーキも、数年前から病室に常備してある皿に乗せ、みゆきと同じテーブルの上に並べた。

こうして、小分けのケーキで彼の誕生日を祝うのも20回目。早いなぁ……。

感慨に耽る私の歳も、今年で45を数える。人生の折り返し地点は、もう超えてしまったかもしれないね。90まで生きられる気は……流石にね。

「みゆき。誕生日、おめでとう」

彼のケーキの上に乗った一枚のプレートを一瞥し、もう一度だけお祝いの言葉を囁いた。

と、その瞬間のこと。病室後方の扉が、潤滑油の足りていない歯車のような音を立てながら開いた。

「あれ、あおいさん。今日は、美味しそうなものを持ってきたんですね」

振り返る間もなく聞こえてきた、馴染みのある声に、跳ねた心は安堵の色を取り戻した。

ゆうきさん。フルネームは覚えていないけれども、みゆきの担当の看護師さんだ。担当の医師が外されてしまった今、彼の面倒を見てくれる人は、彼女だけになってしまった。

「はい。でもごめんなさい。ゆうきさんの分は用意できなくて……」

「いえ、いいんですよ。それに職務中なので、いただくことはできませんからね」

優しく微笑む彼女がいるだけで、この病室の雰囲気も、パッと明るく変わったような気がした。

ナースシューズとリノリウムの床とが擦れる音が、日の差し込む病室に響く。いつの間にか聞きなれてしまった、心地のよい音だった。ゆうきさんは、彼を中央に挟んで、私の真向かいに立った。

「……神崎さんは、まだ?」

「はい。今日も、変わらずです」

ゆうきさんは彼を一瞥し、また私に視線を戻した。微笑みの中に感じる、憂愁の念。他人事のはずなのに、心の底から悲しみを感じてくれている彼女だけは、私も心の底から信頼していた。

「困ったものですね、彼には」

ゆうきさんは、小さく溜息をついた。

「ええ。でも、いつものことですよ。」

私は、言葉を区切った。ケーキの載った皿をテレビ台の上に置き、みゆきの顔を眺める。

「みゆきは、寝たきりになる前も……私を困らせてばかりだった」

家に引きこもってるくせに家事の手伝いはしないし、飼っていた猫の世話も、一緒に遊んで、エサの補充をするだけ。本当に怠惰で、仕事もしないで、読書にお金を費やすだけの人。

周りからはよく、社会人のクズって言われてたよね。背と顔だけが取り柄のクズだって……。

「でも、私はそんな彼が好きだった。それ以上でもそれ以下でもなく、怠惰な彼が大好きだったんです」

「あおいさん……」

「だから、いつまででも待てます。好きな人を待つくらい、訳ないです。彼は、私の隣で眠っているだけ。寝惚け眼をこすりながら、『おはよう』と、何事もなかったかのように目覚める日が、いつか必ず来る。そう信じて待つだけで、私には楽しみができるんです」

机の上に置いておいた皿を、私は膝の上に乗せた。

「ゆうきさんの前ですけど……いただきますね」

彼の誕生日を祝うために買った甘い甘い洋菓子を、私は小さく切り分け、口に運んだ。久しぶりに食べた、甘い洋菓子だった。

「……私には、真似できないですよ。あおいさん」

「そう、ですか?」

「いくら好きな人のためでも、20年以上も身動ぎ一つしない人に、自分の20年間を費やすなんて……」

私から見えた彼女の表情は、とても悲しそうで、慈愛に満ちた目をしていた。彼ではなく、私の心を見透かすように……。

「本当に……虚しさを感じないんですか?」

彼女は、私の瞳を見たまま、そう問いかけた。その目は、どこまでも真っ直ぐに私を見つめていた。

長年の付き合いだから、彼女はきっと私の本心はわかってる。でも、その意志を維持できる理由が……きっと彼女にはわからないんだ。私が、彼にここまで尽くせる理由が……。

ならば、私の答えは決まっていた。

「……感じますよ。もちろん」

「じゃあなんで……」

「好きだからです。ゆうきさんも、好きな人がみゆきと同じような状態になってしまったら……きっとわかります」

あれから20年。未だに身動ぎ一つしないしない彼と、言葉を交わすことすら許されない生活は、確かに虚しさで溢れる日々の連続だ。もちろん、つらい日々ではある。泣いてしまいたい時もあれば、全てを投げ出してしまいたくなる時もある。

でも……それでも、譲れない想いがある。全てを投げ出してしまいそうなほどの虚しさに襲われた時でも、全てを諦めさせないほどの強い想い。残酷な現実の中にある一縷の希望が、私に強い想いを抱かせるんだ。

私は、窓の外へと視線を映した。

「彼は、生きているんです。死んでなんかない。意識はなくても、言葉を話すことはなくても、彼の心臓は私に語り掛けてくれるんです。彼の鼓動が教えてくれる、命の主張……」

深緑が揺れる、ミズキの枝葉。代わり映えのない、見慣れた景色。新鮮な美しさに、心が揺れ動いた日々も、時が経てば色褪せる。現に今、この景色に感動を覚えた日々は、遥か遠くの記憶の引き出しに仕舞われた、他の雑多な記憶に紛れてしまっていた。

綺麗だとは思う。でも、新鮮な感動は、いずれ薄れる。同じものに感動できる回数は限られている。人は、同じ刺激に慣れてしまうんだ。

でも、薄れないものも確かに存在するんだって……私は、私を通して理解しているつもり。

強い想い。私が彼を想う、強い気持ち。愛。恋い慕う気持ち。いつまで経っても色褪せない想いがあるからこそ、私は今……ここにいる。

彼はまだ、目を覚ます可能性があるのに、私がここを去ってしまえば、彼の目覚めを待つ人は本当にいなくなってしまう。

ゆうきさんにも、愛しい人がいる。その愛しい人が、みゆきと同じ状態になってしまったら……きっとゆうきさんも、私と同じことをするはずだから……。

「だから、私は待ち続けます。いつまでも。彼が目覚める時まで……」

それが、私の答えだった。

しばらくの間、無言の静寂に包まれていた病室内だったけれども、ゆうきさんの表情に表れていた寂寥感が今、僅かに薄らいだような気がした。

「生きているから……あおいさんは、大好きな彼の目覚めを信じて、ここへ通い続けるんですね」

「はい。それくらいしか、私にはできませんから」

私は、ゆうきさんに向かって微笑んだ。心から、笑うように。心から、笑ったつもりで。心の底から、笑いたかった。

「……早く、目覚めるといいですね。神崎さん」

「はい。きっと、もうすぐです」

ゆうきさんも、私と同じように微笑んでいた。

その言葉を最後に、ゆうきさんは仕事に戻った。私はというと、みゆきの点滴を取り換えてくれるゆうきさんの姿を、ただ見守っていた。その間、私たちの間に会話はなかったけれども、私は一つの小さな違和感を覚えた。違和感というよりも、疑問に近いかもしれない。

何故かはわからない。でも、ゆうきさんは目を始終赤く腫らしていたような、そんな気がしたんだ。その目に、最後まで涙が浮かぶことはなかったけれども、彼女の心にはきっと、私には察することのできない想いが燻っていたのかもしれない。

軽く会釈し、ゆうきさんが病室を去る間際なっても、私は彼女の心に触れることを躊躇ったまま、胸の内に宿っていた小さな蟠りを言葉に出すことはできなかった……。


ゆうきさんが去り、病室はいつも通りの物寂し気な雰囲気に包まれた。二人の呼吸と、時分を刻む指針の単調な音。聞きなれた規則的な響きが、意識の片隅に居座っていた。

時々あるんだ。普段は全然気にならない音なのに、突然、意識が乗っ取られたみたいに、その音が気になってしまうこと。意識を逸らそうと思えば思うほど、その規則的な音に意識は傾いてしまうのに、気づいた時には、意識の外に放り出されてる。そんな経験。

さっきまで、ゆうきさんがいてくれたから……突然訪れた静寂に、耳が敏感になっているのかもしれない。

「……ごちそうさま」

私は、ケーキを覆っていたシートと銀紙、フォークの乗った皿をテレビ台に置き、近くの自動販売機で買ったお茶で、口を潤した。

と、指針の規則的な音を掻き消すような不協和音の響きが、私の鼓膜を震わせていることに気付いた。

「……セミ?」

僅かに開いた窓の外から響いてくる、夏の風物詩たちの喧騒。聞き覚えのある激しい旋律も、数を重ねれば、不快な雑音でしかない。それなのに……。

私……今まで、こんな大きな音も聞こえていなかったのかな……。

一抹の不安が心を掠めると同時に、私は彼らの奏でる旋律に、ある種の虚しさを感じていた。

夏の終わりを間近に控えた、この時期だからかな。もうじき、その声を響かせることもなくなり、成虫はみな土に還って、次の世代に種の存続を託す。生物が生まれながらに持つ、種族保存本能の賜物だと思うと、けたたましく鳴く声も、種の存続を訴える叫びのようにも聞こえてくる。種を残せずに終焉を迎える人生への、最後の抵抗のようにも感じるんだ。

彼らは、何のために生まれてきたんだろう。生を賜ってから10年ほどを地中で過ごし、表舞台に立って、夏の風物詩として生を謳歌する期間は、たったの7日。その生も、種の存続のために、毎朝毎夕毎夜、ひたすら鳴き叫ぶだけの命。与えられた命を、種族保存のためだけに燃やし尽くす。魂の円環を保つためだけに、命の炎を燃やすことに、果たして意味はあるのだろうか。何の楽しみも……意味さえも感じられないのは、私が人間だから?彼らは、それで満足なのかな。意味がないと思うことさえ、彼らにとっては意味のないことなのかな。

窓の前に立って眺める、眼前に太く伸びるミズキにしがみ付き、与えられた短い生を足掻くセミたち。きっと、ミズキの根元には、たくさんのセミたちの死骸が転がっているのだろう。ただ叫んで、散る。ただ叫んで、種を残して、散る。それが、彼らの命だ。

じゃあ、私はどうだろう。与えられた命を、眠ったままの彼のために費やした月日は20年。与えられた80年の人生のうちの4分の1は、目覚めない彼のために捧げてきた。女の楽しみも、女として生まれてきたことの自由を楽しめる華の20代は全て、一方的な彼への愛のために費やした。

「私も、これで満足なのかな……?」

セミの命を考え、自分の人生と照らし合わせて考えた私の命は、彼らよりも遥かに恵まれているはずだった。

10代前半には、数は少ないけれど、友達もいた。学校にも、ちゃんと通えた。家族はいなかったけれども、毎日が新しい人生の繰り返し。新鮮な発見と出会いに満ち溢れた10代だった。私の人生は、恵まれているはずだった。

なのに……今の私は、自分の人生が恵まれていると断言することができなかった。断言することを躊躇する心が、確かに在ったんだ。

ゆうきさんの言葉を思い出しては、心の中で復唱し、考え、また思い悩む。この20年間、何度も繰り返してきたこと。彼が目覚める日を夢見て、彼のために捧げる人生に対する自問自答。強固な決意も、この時だけは揺らいでしまった。もう迷わないと誓った決意も、所詮は何の強制力もない、自分の心の取り決め事に過ぎないから。

「でも……それでも私は、ここにいる」

彼が好き。その事実が、私の全てだった。大好きな彼のために、私はここにいる。目覚めた彼を出迎えるため、私はここにいる。それは、私のためでもあるから。

ここで彼を見捨てたら、きっと私は、一生後悔することになるって……。

もう、私が彼から離れる術はない。離れようとも思わないけれども、離れようと思うことができない理由がある私には、もう選択肢がないんだ。

忘れたら、また思い出せばいい。彼のことが大好きな私に残された運命は、彼の目覚めをひたすら待つこと。

でも、それでいいと思う。大好きな彼が目覚めた時の嬉しさは、私だけにしか味わえないから。私だけしか味わうことのできない楽しみが、この世界にはある。この生き方は、彼のためでもあり、私のためでもあるんだって。

そう……これが、私の命だ。


……


よぞら。君の名を、僕は忘れたことはなかった。母親の顔も、通っていた大学の名も、大好きだった本の題も忘れてしまったけれども、君だけは決して忘れなかった。

片時も、忘れたくないんだ。君に繋がる記憶だけが僕の拠り所なのに……僕の意思とは関係なく、僕の記憶は闇に蝕まれていく。どうでもいい記憶は消え、大切だったはずの記憶も消え、遂には僕が大切にしている記憶さえも、目に見える形で消滅していく。いつか、君に繋がる思い出まで消えてしまったら……僕はどうなってしまうんだろう。

ただ、それだけが怖かった。

僕は、疲労さえも忘れてしまった身体を横たえ、モノクロの空を長い間、ボーッと眺めていた。今は、夜。星の煌めきが、色のない光点となって、僕の瞳を埋め尽くしていた。僕は、この光点の一つによぞらの姿を思い浮かべて、在りし日の美しい思い出に浸る時間が大好きだった。

よぞらへと繋がる記憶は、僕の心の拠り所。いつまでも、色褪せることなく残り続けている。でも、僕とよぞらが二人一緒に紡ぐ思い出に、新しい1ページが書き足されることはないのだろう。よぞらの瞳に、再び僕の姿が映ることはなく、全ては泡沫。淡く、儚く、美しい思い出となって消え去る。

僕の思い出の中にいる君は、いつだって笑っているのに……。その笑顔を、もう僕の腕の中に抱きしめることができないって……僕は理解してしまったんだ。

時間は、限りない無限。果てのない永遠に囚われた万物は、死をもってその束縛から開放される。僕だって、例外じゃない。僕が在る世界の終焉。僕が僕でいられる時間の終わりは、もうじき訪れる。孤独に、この世界に取り残されたまま、生か死かもわからないまま、僕は消えていく。僕が生み出した、僕の記憶に依る世界が……そう告げているんだ。

僕の記憶のピースが形作る世界は、僕の老化と共に崩壊を続けてきた。僕が生きた表舞台の記憶は薄れ、目に見える闇となり、世界を塗りつぶしていく。

儚いもんだ。記憶から消えてしまった思い出は、僕の記憶の中に、最初から存在しなかったものとして扱われる。いや、扱われるという表現もおかしいのかもしれない。記憶から欠けてしまえば、その思い出は無になってしまうんだ。少なくとも、この世界では……。

もし、僕がよぞらのことを忘れてしまったとしたら?僕の思い出の中に、最初から『よぞら』という女の子との思い出は、きっと存在しなかったことになってしまうのだろう。孤独に彷徨う僕の心の拠り所ともいうべきベールを失うことになってしまう。

その時こそが、僕が僕でなくなる瞬間……僕の最期なのかもしれないって、そう思ったんだ。

会いたいと願えど、届かぬ想い。手を伸ばせど、届かぬ距離。夜空を見れども、君は見えず。宛て所なく彷徨う僕の意識を奮い立たせた君との思い出が、僕の拠り所であり、僕の枷だった。

縛られた心は、永久に届かぬ夢に溺れ、もうじき無に帰す。永遠の闇が僕を包み込む瞬間、僕は僕で在ることを忘れ、感情を忘れ、思考を忘れ、生さえも忘れ、無となる。それは、圧倒的な闇。

……違う。闇を闇とさえも認識できない、言語化が困難な世界。

いや、これも違う。世界とも呼べない、ある種のパラドックスを内含する概念。死を以って、ありとあらゆる束縛から開放され、万物は永遠の無へと融けて消える。そんな、死という概念だ。

そんな途方も無い瞬間が、まもなく僕にも訪れようとしていた。

僕がこの世界のためにできることは、もうなかった。よぞらとの思い出が詰まった、近所の公園の芝生に寝転がり、後頭部で手を組み、色のない空を見上げる。圧倒的な闇が覆う、欠けた記憶の穴の広がりを肌に感じながら、僕はもう立ち上がろうとも思わない。よぞらを想い、夜空に想いを乗せ、浮かぶ星によぞらを描き、最期の時まで、僕はよぞらと繋がっていよう。死が二人を、因果律ごと引き裂くまで……僕と、よぞらの心は繋がり合って生きる。

「……」

声にならない君の名が、世界を震わせた。


……


白い天井。一人の医師と、一人の看護師。点滴の管と、輸液パックが吊られた点滴スタンド。銀のフレームに映った、痩せ細った私の姿。二人の再開を信じて、光り輝く未来を信じていた頃の私の姿は、疾うの昔の記憶。泡沫。追憶に追憶を重ね、未来に淡い希望を抱き続けてきた私の人生は、いつの間にか枯れ果ててしまった。

ねぇ……みゆき。私の声、聞こえていますか?あなたは今、どこにいるのでしょうか。あなたは今、何を思い、誰を想っているのでしょうか。

私は、あなただけを想い続けて今日までずっと……あなたの傍に居続けてきました。こうして、あなたのために捧げてきたこの命の灯火も、間もなく消えるでしょう。

後悔は、もちろんありません。あなたと一緒に生きることができた人生です。誰よりも……きっと、あなたよりも幸せな人生でした。

だから……。

「ありがとう……」

靄がかかった視界と、朦朧とした意識。思考も覚束ない私が絞りだす声は、私を見下ろす看護師さんと主治医の表情を曇らせた。

ゆうきさんも、ありがとうございました。あなたはきっと、わかっていたのでしょう。みゆきが目覚める可能性は、限りなくゼロに近かったことを……。それでもあなたはみゆきを、献身的に世話して下さいました。

私の次に、みゆきを知るゆうきさん。私の最期を、あなたに看取ってもらえることが何よりの救いです。孤独のまま、独り死んでいくことだけは避けたかった。

今思うと、ゆうきさんにはお世話になってばかりでしたね。ありがとうと、もう一度だけ言わせてください。

ぼやける視界の端。病室の外でゆらゆらと揺れる、青々と茂ったミズキの枝葉が見えた。蒼穹を背景に、常緑樹は揺れて、揺れて、揺れる……。彼が25の時からずっと彼を見守り続け、私と共に在り続けたその一本は、私の旅立ちさえも見届けてくれるとでも言わんばかりに、雄々しく枝葉を揺らした。

そして、もうじき旅立つ私の隣には、私の愛しい彼が眠る。僅かに上下する胸が、彼の命の証明。でも……彼は、目覚めてはくれなかった。事故の日から今日まで、海よりも深い暗闇の渦中に独り……一筋の光を探して、誰もいない暗黒の世界を漂う。誰の声も届かない、深い深い暗闇で、前も後ろもわからないままで……。

もしもそこに、意識と自我が介在するとしたら?果ての見えない暗黒の世界で、自分の存在さえも希薄なまま、孤独に、永遠のような時を彷徨い、彷徨い、延々と彷徨う……。

私の想像の先にある世界。そこに在るのは、恐怖?苦痛?寂寥感?虚無感?それとも、何もない……無の世界?

でも、靄がかかる視界の端に映る彼の横顔は、いつまで経っても凛々しくて……恐怖も苦痛も、その表情には浮かぶことはなくて……。次の瞬間には目を開いて、何事もなかったかのように『おはよう』なんて言うの。そんな彼の瞳に映る私の姿は、きっと溢れるくらいの涙を流していて……。

「……」

私の頬を、一筋の想いの奔流が伝い落ちた。枕に一つ、二つ……三つ。いけないとは思いながらも、堰を切って溢れ出した想いの奔流は止まらなかった。

涙なんて……もう、とっくに枯れ果てたものだと思っていたのにね。

止まらない想いの奔流の源泉。

何故?どうして?

涙を流すたびに、幾度となく問いかけてきた疑問への答え。今なら、答えられる。ようやく、その答えに辿り着いたような……そんな気がした。


私はただ、みゆきと一緒に普通の生活を送りたかったんだ。


眠ったままのみゆきと、一緒にいるだけじゃ足りなかった。みゆきと一緒に、普通の生活を営むこと。それだけだったんだ。他に望むものなんて何もなかったけれども、一緒にいるだけじゃ……足りなかったんだ。

願っていたはずなのにね。あの日々が、私が在る限り続けばいいなって。それが、ささやかな幸せを求めた私が望み続けていた、唯一のわがままだったんだって。

そして時は過ぎ、彼はひたすらに眠り、私は今に散る。私は消え、彼も……いずれは逝く。片方が散り、もう片方が後を追うように散る未来は……そこに待っているのでしょうか?この世では、こんな形でお別れすることになってしまう私とあなたが、また足並みを揃え、死の先へと続く黄泉の街道、彼岸の旅路を、延々と並び歩く日は訪れるのでしょうか?また、あなたの瞳に映る私の姿に微笑む日が来ると……信じてもいいのでしょうか?

今まで私は、あなたの意識との再会を待ちわびて、待ちわびて、待ちわび続けながら生きてきました。この世で叶うことのなかった、その願い。あの世で叶う日を夢見て……私は先に旅立ちます。

もうじき、私は意識を手放すことになるのでしょう。お迎えが来るその時まで……あなたとの思い出に寄り添い、あなたの横顔に、私たちの明るい未来を思い描きましょう。

みゆきの……その端正な横顔が、何故か眩しかった……。


……


闇が世界を覆う。寂寞とした世界から抜け落ちていく、僕の記憶の欠片。僕の記憶が、僕の瞳の中で死んでいく。僕の身体が迎える限界と足並み揃え、死に逝く記憶の欠片を……僕はこの世界に見た。

こうして死んでいった記憶は、どこへ行くのだろう。僕の意識や自我もろとも、無に帰すのだろうか。あるいは、死後の世界へと旅立ち、死んだ僕の一部となるのかもしれない。

迫りくる、暗い闇。よぞらと過ごした、在りし日の姿のままに残る公園に寝そべり、星空を見上げる僕に、近づく最期を告げる世界。もう、すべきことはなかった。

僕とよぞら。あの日もこうして寝そべりながら、視界を覆う光点の煌めきに思いを馳せていたんだ。誰もいない深夜の公園を包み込む静寂のベールの中で、僕たちはお互いの感性を共有し合った。

好きな星。綺麗な星。ふと見つけた、自分だけの星座。流れ星。月という名の美しい星。心の底から、僕は幸せだった。

美しい記憶に彩られた星々の煌めき。色は失えど、そのどれもが今、僕の瞳を満遍なく覆い尽くしていて……。

止まらないこの涙を堰き止める手段は、きっと存在しないのだろうと、僕は思った。

滲む星々の煌めき。瞳を閉じれば、眼裏に浮かぶよぞらの微笑み。よぞらに係る記憶、思い出。今、その全てがぼやけてしまった僕の記憶は、僕が僕であることの否定を意味した。

忘れてはいけない僕の存在意義さえも曖昧にぼやけ、僕を閉じ込めたまま、世界は闇に融けようとしている。全ての終わりは目の前に在ると理解するために、長い時間は必要なかった。


そんな時に……僕は見つけたんだ。


色を失った世界に、たった一つだけ生まれた……鮮やかな光点。

ありえない。見間違いだと思った。

でも、それは確かにそこに在ったんだ。吸い込まれてしまいそうなほどに美しく、暗い宝石を宿した星の煌めきが……僕を見つめていたんだ。

よぞらの綺麗な瞳の色……蒼穹の青。忘却の果ての世界が、ようやく取り戻した個性の表現。よぞらが僕に教えてくれた、どんな読み物にだって載っていない星座の中心に……その蒼い星は、どこまでも真っ直ぐな美しさを纏い、煌々と輝いていた。

その星の名を、僕は知らない。よぞらだって、きっと知らないだろう。

でも僕は、その星を知っていた。よぞらが見つけた、新しい星の並びを想像させる星たちの一つ。僕たちだけが知っている、新しい星座。

大事な記憶の一つが、僕の最期に、美しい夢を見させてくれたんだ……。

「……」

よぞら。僕は、君との再会を待ちわびて、待ちわびて、待ちわび続けながら、この世界を孤独に生きた。誰もいない世界で、孤独に独り……君との思い出だけを拠り所にしてね。

その果てに、ようやく僕は君を見つけた。吸い込まれそうなほど美しく、暗い蒼を宿した瞳を持つ君と、また会えた。それだけで僕は、終焉までの果てしない苦痛の日々を赦せるよ。

「ありがとう……」

薄れゆく意識の片隅。暗黒に閉ざされ行く世界で、最後まで僕を支えてくれたよぞらへ……最初で最後の『ありがとう』が、消える僕の声帯を震わせた。

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