夏の陽を浴びて
帰投した私は子細を報告する。実戦において、有効な攻撃手段として認められた五式魚雷の生産が決定された。兵器製作所で製造が開始されたのは昭和20年の6月に入ってからである。たが、この時期になると国内の工場はB29の爆撃により破壊されるか疎開を余儀なくされており、生産数は思うようにのびなかった。
……23日。沖縄での日本軍の組織的な抵抗が終結したことにより、本土決戦は一層に現実味を帯びはじめていた。上層部が生産に踏み切ったのは、この日本本土防衛作戦が関係している。
――決号作戦。
連合軍が上陸作戦を開始したとき、日本軍が持ち得るすべての攻撃手段で敵を叩き、敵の侵攻軍の半分を水際で撃破するというものだ。潜水艦隊は水中特攻として出撃。五式魚雷で敵艦隊の防衛線を食い破り、回天によって敵の大型艦や輸送艦を撃沈するという作戦内容である。五式魚雷に与えられた最後の戦場は「特攻」だったのだ。
その後、私は次の仕事にかかることになる。五式魚雷の量産化の副産物として持ち上がっていた「二式魚雷の改良計画」である。二式魚雷とは九一式航空魚雷を原型に魚雷艇用として製造されていた魚雷だ。これに音響追尾弾頭を組み込もうというのだ。
これにも決号作戦が関係している。連合軍を水際撃退するために、製造と配備は進められていた潜航艇に搭載する魚雷が二式魚雷なのだ。例をあげれば「蛟龍」や「海龍」である。海軍はこれら特殊潜航艇の搭乗員の練度に不安があった。訓練も満足に施す時間もなかったので、実際に戦場で満足に航行できるかも不安であるのに、ましてや魚雷を命中させることが出来るのであろうか。
――せめて、魚雷の性能を上げて命中力を高めることができたら。
そんなおりに五式魚雷が信頼できる兵器であることが実証される。五式魚雷そのものではなく音響追尾機能に注目が集まってしまったのだ。五式魚雷は直径の違いで特殊潜航艇には装填できないことは分かっていたが、開発者として私は肩透かしを受けた気分であった。
とはいえ、私は終戦まで二式魚雷の改良に追われることになる。 二式魚雷は、五式魚雷の音響追尾弾頭と相性が悪い致命的な理由が2つあった。
1つは航行音である。二式魚雷の推進方式は熱機関でありエンジンである。五式魚雷の電動式にくらべると、あまりに騒音が大きくマイクロフォンが機能しない確率が大である。
残る1つは魚雷の直径。五式魚雷の直径は約53センチメートル、二式は45センチメートルなので五式よりも細い。同じであるならば音響弾頭部は流用できたのだがそうはいかない。同時に尾部の自動操舵装置も小型化を迫られることになり、事実上にすべての機構の新設計が必要であったのだ。
……二式魚雷の改良型が完成する事はなかった。
あの朝。ヒロシマの方角に火の玉と巨大なキノコ雲を見た。その9日後の8月15日、戦争は終わった。決号作戦は発令されず五式魚雷の出番が訪れることは、ついになかったのだ。
……戦後の30年以上もあと、私は意外な人物からの手紙を受けとる。差出人は、あのときの海戦で敵として戦った駆逐艦の艦長、レイモンド氏であった。とあるホテルの会場で、我々は初めて顔を合わせることになったのだ。
約束の場所に到着すると、さらに私を驚かせる人物が待ち構えていた。呂―500の艦長の山本氏である。知らぬうちに誰もがすっかり年老いてしまっていた。私も。失礼ながら山本氏の姿を見て、私は過ぎた歳月を感じた。
レイモンド氏が来日したのは、とあるものを運んで来るためだった。
「それは、これです」
「五式魚雷……!」
見せられた写真に収められていたのは、紛う事なく五式魚雷であった。朽ち果てた姿ではあったが、私にはわかった。おそらく数少ない量産された内の1本であろう。レイモンド氏の話によれば、この魚雷はあるアメリカ人のコレクションのひとつであったそうなのだが、日本人が博物館に寄贈するために買い取ったのだという。その運搬に偶然にも携わることになったのが彼の経営する海運会社だったわけだ。
五式魚雷はレイモンド氏にとって多くの仲間を奪った憎い敵であった。しかし、あの海戦で戦った日本人と会ってみたいという気持ちもあった彼は、今回の仕事は運命的な出来事のようにも感じたらしい。そして日本全国に散らばった我々を探しだして招待状を送ったのだという。
その会場には五式魚雷に関係した様々な人が招待されていたのだ。かつて敵だった。それなのにこうして話し合えることが、私には不思議に思えてならなかった。
その日にレイモンド氏は、あのときの海戦での駆逐艦側の状況と五式魚雷が米軍に与えた影響を話してくれた。沈没を免れたレイモンド氏の駆逐艦は、ひとまずパールハーバーに入港。艦長であった同氏は新型魚雷について艦隊司令部に報告する。米海軍はドイツとの戦闘経験もあるため、日本軍の音響魚雷開発をそれほど驚かなかった。太平洋に展開する駆逐艦隊に、すでに開発されていた曳航型聴音妨害装置の常備化が進められただけだった。
しかし、不思議な魔術にかかったのが駆逐艦のソナーマンたちであった。日本海軍の新型魚雷とそれによって撃沈された駆逐艦の噂を耳にした彼らのなかに、潜在的な恐怖が宿った。
「航跡のなかに魚雷!」
勘違いと思い込みでブリッジに報告してしまうソナーマンもいたほどであったという。
話はまだある。昭和20年7月の暮れに〈伊-58〉が撃沈した〈インディアナポリス〉の艦長が、戦後に職務怠慢の疑いで軍法会議にかけられたときのこと。
「ジグザグ・コースをとって航行していたにもかかわらず、魚雷が追尾してきた。伊-58は五式魚雷を使用したに違いない」
インディアナポリスの艦長は主張したが、証言台に立たされた伊-58の艦長だった橋本少佐は、
「重巡洋艦はジグザグ・コースを航行していなかったし、五式魚雷なるものを使用した覚えはない。使用したのは、6本の九五式酸素魚雷だけである」
と言って首を横に振ったという。量産された五式魚雷が実際に使用されることはなかった。だが米海軍の最前線で戦う艦艇に言い知れない恐怖を与えたということは確かである。
2015年8月現在。レイモンド氏が持ち込んで、日本で復元された五式魚雷は広島の某所に展示されている。酸素魚雷、電池魚雷、航空魚雷にならんで置かれている五式魚雷は、唯一に形を留めている1本だ。幻ではなく、確かに存在していたことを主張する物言わぬ証人は、今年も夏の陽を浴びて銀色に輝く。
私もついに96歳となってしまった。記憶がはっきりしているうちに、この兵器の物語を諸君に伝えたい。開発に携わった一人として思うところは、戦争末期に登場する兵器のうち、五式魚雷こそ理性的な水雷決戦兵器であることを信ずるものである。
2015年8月 藤堂正英
すべてフィクションです。
完読ありがとうございました。