第94話 運命の結び目
フィーネの回想です。
前回寸止めだったので、続きを予定を繰り上げてアップします。
「これで、少しはマシだろう」
男の熱い身体に抱き竦められ、指先の感覚がじんわりと戻ってくるのが分かる。フィーネが動悸を抑えようと深呼吸すると、青年の吐息が耳に掛かった。
「お前……あんまり動くなよ……」
切なげな声に驚いて肩越しに振り返ると、潤んだ赤銅色の目が苦しそうにフィーネを見ていた。
「じっとしてろ。眠っちまえ」
「あ……ご、ごめんなさい……」
フィーネは真っ赤になって前を向いた。名も知らない青年の鼓動が背中越しに伝わってきて、頭の奥がジンジンと痺れてきた。
人の肌の心地よさを初めて知り、その逞しい胸にコトリと頭を預けた。
「……おい……お前。誘ってるのか?」
「……え?」
「だから、動くなって言ってるだろ」
青年の鼓動がさっきより早くなっている気がする。そして背中に熱いモノを感じ、フィーネは赤面した。
「あ……」
「……ったく。人が親切で温めてやってるのに……」
青年はバツが悪そうに顔を背けた。
「……ねぇ……、本当に……貴方の所に行ってもいいの?」
「おま……今更……そういう事……言うな」
フィーネの言葉に、青年の声が掠れる。自分を抱き締める腕に力がこもるのが分かる。
夫に見向きもされなかった自分が、初めて女性として求められている。それでも尚、必死で理性を保とうとしてくれるその優しさが胸を焦がす。
「……貴方に……もっと早く出会ってたら良かった……」
「だから……」
青年は苛立ちも露わに言い、片手でフィーネの顎をとらえてその口を己の唇で塞いだ。
フィーネが驚きに目を見開き青年を見つめると、青年は一瞬で我に返り、パッと顔を背けた。
「あ……悪い。とにかく、黙ってろ」
青年はそっぽを向いていたが、フィーネは呆然とその逞しい腕に自分の手を添えた。寒さからではなく、指先がわずかに震えているのが分かる。
「……あの……」
「……だから黙ってろって!」
青年は声を荒げる。
「私……貴方の所に行きたい……っ!」
フィーネはその逞しい腕に顔を埋めた。
「……何……言って……」
青年はゴクリと唾を飲み込んだ。腕に娘の睫毛が当たり、ゾワゾワと身が震える。
「お前、何言ってるか分かってるか? 俺を試してるのか?」
「違う……。本当に……、すぐにでもあんな人の事……忘れたいっ!」
フィーネの若草色の目からポロポロと涙がこぼれ落ちて男の腕を濡らす。
男の口から漏れる熱い吐息がフィーネの耳をくすぐる。
「……後悔しないか?」
「……うん……」
フィーネが頷くと、その身体を抱き締める腕が熱を帯びた。
「じゃあ……忘れさせてやる……!」
男はフィーネを抱きしめたまま身を起こした。毛布がパサリと床に落ち、その上にフィーネを座らせる。男は正面からその唇に食らいつくように荒々しく口付けし、痣だらけの身体にその肌を合わせた。
◇◇◇◇◇
最初にくべた薪が灰になって、組み上げていた薪がゴトリと音を立てた。
「……わ……悪かった……」
赤毛の青年は一糸纏わぬ姿のまま、偶然この小屋に居合わせた栗色の髪の娘を抱き締めて呆然としていた。
「……え……?」
全身汗だくでグッタリとしている娘の髪をそっと掻き上げると、若草色の目がトロンとして自分を見つめていた。
「……いや……だって……、結婚してるって言ってたから……」
腰の下に敷いていた毛布は赤く染まっている。青年はオロオロしながら片手で荷物を引き寄せ、手拭いを出して娘の身体を丁寧に拭き始めた。
「……ううん……大丈夫……」
フィーネは頰を染めながら、青年の胸に顔を埋め、全身を無防備に人に委ねるられる心地よさに浸っていた。
青年はその髪を優しく撫でながら、ギリリと奥歯を噛み締めた。
彼女の夫は、妻に手も出さずに暴力を振るっていたという事だ。妻として認めていないと示しているとしか思えない。
「……朝になって、雪が止んでたら……一緒に俺の村に来てくれるか?」
青年はフィーネの瞼に優しく口付けする。
「……あ……」
フィーネは顔を上げ、ボンヤリと青年を見つめた。
「……名前を……教えてくれないか?」
「……名前……?」
フィーネがそう呟いた途端、まるで霧が晴れるかのようにパアッと意識が明瞭になった。
「……あ……私……」
フィーネの表情に戸惑いが浮かんだ事に気付き、青年は眉を顰めた。
「俺は……」
「ダメ……。名前は……まだ……ダメ」
「まだ?」
「貴方とは、ちゃんと向き合いたい。だから、あの人との関係をちゃんと終わらせてから……。それから一緒になりたい……」
フィーネは大きく吐息をつき、青年の腕を解いた。
立ち上がろうとして、膝に力が入らない事に苦笑しながら、ズルズルと青年と向き合うように座り直す。
「あの人は私じゃなくて、妹と結婚したかったの。だから……私に辛く当たってたんだと思う」
妙に頭がスッキリして、不思議な事に、今まで考えもしなかった夫の気持ちを察する事が出来る。
「だから、ちゃんと話し合って……、あの人と妹との結婚を村のみんなが認めたら……私は自由になれるの……」
フィーネの言葉に青年は顔を顰める。
「……そんな男に嫁いで、妹は幸せになれるのか?」
妹を生贄にして自分は自由を手に入れる、と取られてもおかしくない言い方だ。
「……分からないわ。でも、あの人が妹を求めているのは本当。それだけ切望してる妹に手を上げるとは思いたくない……」
「……希望だろ……?」
青年の指摘はもっともだ。だが、フィーネは肝心な事をすっかり失念していたと思い至ったのだ。
「それに、妹なら絶対に負けないわ。私と違って、嫌だったら斬って捨てるくらいの事する筈……」
「……物騒な妹だな」
青年は驚いて少し仰け反った。フィーネはその様子が可笑しくて吹き出してしまった。
村一番の戦士である妹が、あの卑怯な男の思い通りになる筈がないのだ。村長からの反対さえなければ、自分がこんな思いをする事はなかったかも知れない。
「だから、対等な立場で結婚させないと。私が足枷になって、妹の立場が悪い状態で結婚させる訳には行かないわ」
フィーネの若草色の目には穏やかだがしっかりとした意思が宿っていた。
「……そうか……」
青年は吹っ切れたフィーネの様子に感心したらしく、コクリと頷き、それから少し拗ねたような顔でフィーネの顔を覗き込んだ。
「……じゃあ、俺はどうすればいい? 何処の誰かも知らないお前と、どうすれば一緒になれる?」
フィーネは頰を染めながらポソリと呟いた。
「もう一度……ちゃんと出会い直したい……」
「なんか……狡いな」
青年は苦笑した。やはり女は開き直ると強い。
「ごめんなさい。でも、名前を知ってしまったら、きっと貴方に迷惑が掛かるから……。一年後の満月の夜に……またここで……」
フィーネの提案に青年は少し皮肉げに言う。
「また、雪の中か?」
「ええ。だって、他の季節なら誰かいるでしょ?」
この小屋に蓄えられている薪や、部屋に渡された紐、備え付けの毛布を見ると、それなりに利用者がいる事が伺えるのだ。他の人間のいる場所で再会したいとは思わない。
「……その頃には全部カタがついてるって事か?」
問題の夫と別れて自由の身となって故郷を捨てる覚悟を決めるのに、一年は長いと取るか、短いと取るか。
彼女の故郷を知らない青年にとっては、その手続きにどれだけの時間が掛かるかは分かりかねるのだ。
「……なんとかしてみる。だから……」
「分かった。一年後……だな。でも、その前に……」
青年はフィーネを抱き寄せて口付けた。軽く触れるだけの口付けだが、フィーネの心は跳ね、身体から力が抜けていく。
「……一年間のお預けは……辛いな」
「約束……するから……」
青年はフィーネを抱き締め、瞑目した。
◇◇◇◇◇
「……それじゃあ……その人とはそれっきり?」
母の道ならぬ恋の話に、ティアナの胸は早鐘を打ち続けていた。
「ええ。村に帰って、サーシャとの結婚を反対していた村長夫妻に全て話して、なんとか私の離縁とサーシャとの結婚を認めて貰おうとしている矢先に、貴女がお腹にいる事が分かって……」
「それって、つまり……」
ティアナはゴクリと息を飲んだ。自分の父親があの男ではない事がハッキリして、戸惑いと喜びで頭が混乱している。
「そう。あの人は私に触れてなかったから……すぐに彼の事を問い正されたわ。名前を聞いていなかったから良かったけど、もし聞いていたらどうなっていたか……」
「お母様はどうなったの?」
不義を働いたと分かった妻に対し、あの男がどういう行動に出るのか、想像しただけで鳥肌が立つ。
「まさか、妻を抱いてないなんて言えないでしょ? だから、体面上は父親面して、祝福を受けてたわ。いい気味だった。でも、家に帰ると本当に怖くて、貴女を……お腹の中の貴女を殺されるんじゃないかって……ずっと怯えてた」
フィーネは手を伸ばしてティアナの頭を優しく撫でた。
「でも、貴女は踏ん張ってくれた……。定期的に産婆の診察を受けるから、闇雲に手を上げなくなったのもあるわ。閉じ込められて一切外出させて貰えなかったけど」
何でもない事のように言う母に驚きを隠せず、それまでの辛さを痛感する。
「……不義の証拠として……あの人は、生まれてくる子が明らかに自分の子ではない特徴で生まれてくる事を望んでいたわ。それで、私を追い詰めるつもりだったみたいね」
「それが……鍵が生まれたから……」
「そう。面白いほど手の平を返したの。貴女は自分の子だって言い張って……。本当の事を知ってるのは私とサブリナ、ガーシュ様だけだったけど、本当に滑稽だった……」
「それで……約束の場所には?」
「襲撃の後よ。行ける訳なかった……。約束した時とは何もかも変わってしまって……。彼もまさか、たった一夜の事で子供ができてるなんて思わなかっただろうし」
フィーネは自嘲気味に言い放つ。確かに、あの襲撃で全てが変わってしまった。
「そうなんだ……。……じゃあ……その人、もしかしたらその小屋でずっとお母様を待ってたかも知れないわよね……」
「……そうね。せめて手紙でも置きに行けば良かったかも知れないわ……」
ティアナには母親の声はもう聞こえていなかった。
ティアナはずっと不思議に思っていた事がある。
あれだけ方向感覚のいい男が、何故、あの雪の日、自分の故郷すら分からないほどに道に迷っていたのか。
そして何故、明らかに訳ありの女性(に扮した少年)に求婚して、故郷を飛び出してしまったのか。
「……きっと……凄く……傷付いたと思うよ……」
ティアナはポツリと呟き、毛布に潜り込んだ。二人の運命はその一瞬交わっただけだったのだ、と思うと胸が苦しい。
「……そうね」
フィーネは寝台から下りて、ティアナの毛布を整え、額に口付けした。
「おやすみなさい、お母様。お話を聞かせてくれてありがとう……」
「喋りすぎたわね。遅くなってしまってごめんなさい。明日はゆっくりお休みなさいね」
フィーネは半分ほどになってしまった枕元の蝋燭を吹き消した。




