第92話 母娘の語らい
ティアナはフィーネに連れられて家の中に入った。木造だが、丁寧な作りの家だ。調度品も必要最低限だが、品質の良く長持ちしそうなものばかりでホッとする。
フィーネは台所で煮込んでいたシチューを器に盛り付け、食卓に並べた。
「残り物でごめんなさいね。貴女が来るって分かってたらもっとちゃんと作ったのに……」
言い訳しながらパンを切り分けてティアナに着席を促すと、自分も椅子に腰を下ろす。
「……無事で……良かったわ……」
フィーネはホッとしたような表情でティアナの顔を覗き込んだ。
「うん……あのね、何から話したらいいんだろう……」
「食べてからゆっくり聞くわ。とりあえず食べましょう」
混み入った話になるのは目に見えている。確かに先に食事を済ませた方が無難だ。
ティアナは頷いて姿勢を正した。
「いただきます」
二人は顔を見合わせて軽く会釈をするように頭を下げ、木匙を取った。
若干の緊張感を保ったまま、二人は黙々と食べ進める。それでも、居心地が悪い訳ではない。この場にレイモンドがいなくて良かったのかも知れない。
不意にフィーネが顔を上げ、ティアナの髪にそっと触れた。
「その髪……染めてるのよね?」
「うん……そのままだと目立つから」
フィーネはその色に少し引っ掛かりを感じているようだが、あえてそれは口にせず、ただシチューを口に運び、パンをちぎって食べる。
「……ご馳走様でした」
二人は食べ終わり、後片付けを終えると再び向かい合って椅子に腰を下ろした。
ティアナは呼吸を整え、真摯な目で母親を見詰める。
「……お母様……まずは私の話を聞いてもらえますか?」
ティアナの言葉にフィーネはゴクリと息を飲んだ。あの襲撃の後、詳しい事を聞く事なく別れてしまった事をずっと後悔していた。
何故、生後間もない我が子が言葉を巧みに操る事が出来たのか。名を付け替えた意味、自分を遠ざけた意味。全てをもっと詳しく聞きたかったのだ。
「私は……、人生を何度かやり直してきたの……大体十六歳前後を繰り返してたんだけど、色々あって、今回は生まれた直後からやり直すことにしたの」
ティアナは一息つくと、驚きに見開かれている若草色の目を見据えた。
「……私が今まで経験した人生では、お母様は私が物心つく前に亡くなっていて、こうしてお話しするのは初めてだから……」
フィーネはその内容に顔色を失い、狼狽えた。想像していたよりも遥かに複雑な内容のようだと姿勢を正すが、なかなか思考がついていかず、混乱した頭を整理しようとする。
「……貴女が神の化身で、途方も無い力を持って生まれた事は分かっているつもりだったけど……」
「ごめんなさい、いきなりこんな突拍子も無い事を言い出して。でも、これを理解してもらわないと……お父様の事や、フィアードの事をお話し出来ないの。だから……」
フィーネは俯いて深く溜め息をつく。
しばらく瞑目し、深呼吸をしてからゆっくりと顔を上げてティアナの目を見た。
「分かったわ。順を追って話してくれる? 分からない事はいちいち聞いても大丈夫?」
ティアナも母の目を見て頷く。
「もちろん。私も上手く話せる自信はないの。だから……」
ティアナはポツリポツリと自分が経験してきた人生を、主にダルセルノの所業に焦点を当てて話し始めた。
「……つまり、フィアードを解放するために各地を名付けて回らなければいけないのね」
フィーネの言葉にティアナは頷いた。
「やっと一緒に暮らせるかと思ったけど……仕方ないわね」
普通の親子関係が築けるとは思っていなかったが、ティアナが背負っている運命の重さを知り、それ以上の言葉を継げない。
「……サーシャは……どうしたらいいのかしら……」
ティアナの呟きに、村の襲撃で命を落とし、歪んだ形で蘇生されたという妹を思ってフィーネは瞑目する。
「貴女には治せないのよね?」
「……分からない。フィアードを解放すればサーシャも解放されると思う。でも、私は記憶を操作したくない……お父様みたいに……」
「……あの人はそんな事もしていたのね……」
聞けば聞くだけ自分の夫の恐ろしさを知り、鳥肌が立つ。もうこの世にいないと言われても、安心できたものではない。
「……サブリナ様から聞いたわ。お父様はお母様にも暴力を……」
ティアナの言葉にフィーネはゴクリと息を飲んだ。
「サブリナからは何を聞いたの?」
「……それだけよ……」
今、一番聞きたい事を飲み込んで、ティアナは小さな声で答える。
「そう……」
フィーネは頷いて立ち上がった。いつの間にか日はとっぷりと暮れ、燭台の蝋燭ももう少しで燃え尽きそうだった。
「……こんなに遅くなってしまったわね。もう寝ましょう」
フィーネはティアナを客間に連れて行き、アランが予め運んでいた荷物を渡した。
客間には寝台と机、椅子が備えてあり、しばらく滞在することも出来そうだ。
「今晩はここに泊まってくれる? もししばらく滞在するなら、必要なものを用意するから……」
フィーネは寝台を整えて、燭台に灯りを灯す。
「お母様、私……聞きたい事があるんだけど……」
ティアナが荷物から寝間着を取り出しながら母親に振り返ったが、フィーネは困ったように首を振った。
「まだ……ちゃんと気持ちが整理できていないから……一晩ゆっくり考えさせてね。ごめんなさい」
フィーネは客間から出て扉を閉めようとしたが、ティアナが慌てて取っ手を引いてそれを止めた。
「ティアナ?」
「一緒に……寝ちゃ……ダメ?」
よく考えてみたら、襲撃の後はいつも誰かと同じ部屋で眠っていて、それが当たり前になっていた。
この部屋に一人で寝るのかと思った途端、言いようのない不安が胸を締め付けたのだ。
娘の可愛らしい言動に、フッとフィーネの緊張が解けた。
クスリと笑い、扉を開けると少ししゃがんでティアナの顔を覗き込んだ。
「……あら……なんだか、子供みたいね……」
ティアナは頰を赤らめて口を尖らせる。
「い……一応……今は六歳だから……」
「じゃあ、支度ができたら突き当たりの部屋にいらっしゃい」
フィーネは笑いながら扉を閉めた。
◇◇◇◇◇
フィーネの寝室には寝台が二つ並んでいた。なんとなくその理由を聞きそびれたまま、隣の寝台に潜り込んだ。
しばらく取り留めもない話をしながら、ボンヤリと天井を見上げる。
「ティアナは……フィアードの事を本気で想っているのね……素敵ね」
「……お母様は? どうしてこの寝室には二つ寝台があるのかしら?」
ティアナが冗談めかして言うと、フィーネは少し慌てた。
「あ……やっぱり気付いちゃったわね……ごめんなさい」
「……何をしてる人なの?」
謝るフィーネがまるで少女のようで、少し胸が温まる。きっと今、幸せなのだろう、と思い至りホッとした。
「私に協力してくれた人よ。……大工をしているの。今日は、友達の所に泊まってくれてるわ」
「……ちゃんと紹介してくれるわよね?」
「勿論よ。貴女に……軽蔑されるかと思って、つい隠してしまったわ。ごめんなさい」
フィーネの言葉につられ、ティアナはポロリと自分の疑問を投げかける。
「……お母様……、お父様と結婚したのって、サーシャの代わりだったって聞いたんだけど……」
「……知ってたのね」
フィーネは苦笑してティアナの方に身体を向けた。
「あの人はね、サーシャと結婚して地位を築きたかったのよ。でも、欠片持ち同士の婚姻は認めないって、ガーシュ様が言って、なら私をって……」
「それじゃあ身代わりってこと?」
ティアナの言葉にフィーネは首を振る。苦い思い出を呼び起こしてしまったようだ。
「……違うわ。身代わりですらなかったの。あの人にとっては私はサーシャと結婚する為の道具だったのよ」
「……どういう事?」
あまりにも酷い言い方に、ティアナの心がざわつく。
「もし私に何か問題があったら、それを私の両親に問いただし、サーシャを差し出すように要求するつもりだったの」
「……な……! 問題って……?」
「逃げ出したり……子供が出来なかったら……っていう条件があってね……」
フィーネは溜め息をついてから、真剣な眼差しを向けた。ティアナは話が核心に迫っているのを感じ、ゴクリと息を飲む。
「あの人はね……私に指一本触れなかったの」
「……え……」
「ただ、家の仕事が疎かになったら鞭打つだけ。まるで女中……いいえ、奴隷みたいな扱いだったわ……」
ティアナは呆然とした。
「酷い……。でもそれじゃあ……」
指一本触れていない……。それが意味する事を聞こうとして、母親に制される。
「……貴女が全部話してくれたから……、私も全部話すわ」
「お母様……」
動悸が収まらない。この話を聞くためにやり直したんだ。ティアナは確信しながら母の言葉に耳を傾けた。
「結婚して半年くらいね。ある真冬の雪の日、私はとうとう耐えきれなくなって家を飛び出したの……」
◇◇◇◇◇
一歩出ると一面の銀世界。月明かりに照らされ、いつもより明るい夜だった。
フィーネは夜着の上に厚手の上着を引っ掛けた出で立ちのまま、ひたすら村の出口まで駆けていく。この後でまた雪が降って足跡を消してくれる事を期待して。
村から一歩出ると、鬱蒼とした森が広がる。一瞬躊躇したが、意を決して森の中に分け入った。
森の中は驚く程静かで、雪を分けるザシュザシュという音だけが響いている。フィーネは白い息を吐きながら、少しでも村から離れようと必死で雪を掻き分けていた。
「……もう……無理よ……!」
この雪の中、畑から芋を取って来いと言われ、何も持たされずに放り出された。
素手で必死に芋を掘り当てて帰ると、汚れていると言われて鞭打たれ、冷水で身体を清めろと言われた。
あの男の爬虫類のような目の前で全裸になり、震えながら冷水で身を清めていると、あの男は欲情するどころか、殴る蹴るの暴行に及んだ。
ただ、自分が欠片持ちではないというだけの理由で。
もう我慢できなかった。
あの男が眠ったのを見計らい、こうして逃げ出してしまった。これであの男の牙が妹に向かうかも知れないが、もうそんな事はどうでも良かった。
その場しのぎで自分を身代わりに出した両親を恨みながら、雪を掻き分け進んでいく。
「あっ!」
村から離れる事に夢中になりすぎ、足元の確認を怠っていたフィーネは、ズルリ、と自分の乗っている雪がそのまま崩れ落ちようとしている事に気付いた。
「きゃあっ!」
ズズズ……と雪がずり落ちながら、崩れていく。
フィーネは雪に飲み込まれ、崖下へと転がり落ちて行った。




