第86話 母と子
ゆっくりと目を開くと、よく見知った少年の顔があった。
「……レイモンド……?」
「良かった……ツグミさん、気が付いたんですね」
青緑の目がホッとしたようにこちらを覗き込んでいた。そして、その隣には何となく見覚えのあるような隻眼の小さな少年が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。
「……その子……誰や?」
少年が眼帯を外すと、美しい白銀の目が現れた。漆黒の右目と白銀の左目が真っ直ぐにこちらを向いている。その色彩からある幼女のことを思い出し、ツグミはゴクリと息を飲んだ。
「ティアナ……!」
「ツグミ……」
「え……何で……? あ……そや……赤ちゃんは?」
急に思い出し、青ざめたツグミが飛び起きようとするのをレイモンドが止めた。
「子供も無事です。僕達の同行者が治癒してくれました。今、アルスさんが馬車を呼びに行っていますから、しばらくは絶対安静です。いいですか」
「……うん……。でも……何で? 何でここにおるん?」
「ティアナ様が神族の村に向かう途中、この小屋で休憩を取ろうとしたんです。そしたら貴女が倒れていて……僕達の方が驚かされましたよ……」
レイモンドの口調は商会の所長時代に戻っている。ツグミはポカンとしたまま、二人を交互に見る。
「……えと、じゃあ偶然……ここに来たんや……」
「そうよ。びっくりしたわ! もし私達が来なかったら、危なかったんだからね。貴女、身重なのにこんな所にいたら駄目じゃない!」
ツグミの呑気な物言いに苛立ち、つい口が滑る。ティアナは言ってしまってから自己嫌悪に陥った。これではまた今までのようなギクシャクとした関係になってしまう。ちゃんと向き合いたいと思っているのに、感情が先走って冷静に話す事が出来ない。
ツグミはゆっくりと身を起こし、片手で下腹部をさすりながら、ティアナの方を見て困ったような顔をした。
「……うちな……赤ちゃんに全然気付かなかってん……」
「え?」
ティアナは目を見開いた。
「貴女って……確か九十過ぎてたわよね? 碧の村って子供沢山いたし……貴女だって……」
「……せやから、うち……子供出来たん初めてやねん……。で、まさか……って思って……」
頰を染め、慈しむように腹をさする姿にティアナは呆然とした。
「碧の女はな、子供産むのが仕事やねん。沢山子供産んで、育てて……一族を支えなあかんねん」
「……でも、魔人の寿命は長いですよね?」
レイモンドが首を傾げる。子供をどんどん産めば人口が増えすぎるのではないか、と容易に想像できる。
だが、碧の村はそれほど人口は多くなかった。村の住人に対して子供は多かったが、大人が多い訳でもない。
「……うちらは寿命は長いけど、旅が多いから病気も多いし、人里近くを飛んでて他の鳥や人間に撃ち落とされる事も多いねん……」
「あ……」
ティアナはアルスが鳥を落とした時にドキリとした事を思い出した。
「せやから、女は産めるだけ産むねん。うち以外の女で戦士みたいな事してるん、族長だけやったやろ?」
「そう言われれば……」
「うちはどうしても子供が出来へんかった。……ずっと半人前扱いやったから……魔術だけは負けたくなくて頑張ってたんや……」
「そうなんだ……」
ティアナはそれまで気にも留めていなかった事だった。ツグミが男勝りの女戦士として活躍していた理由に、そのような事情があったとは。
これまで考えようともしなかったツグミの人となりを知って、ティアナの心に燻っていた嫌な気持ちがスッと溶けていくのが分かった。
「……あれから……どうしてたの?」
ティアナの態度の変化を感じ取ったのか、ツグミの肩から力が抜ける。初めて会った時からのあの苦手意識は、ティアナから発せられる敵意から来ていたことに今更ながら気付かされた。
ツグミは溜め息をついて、苦笑いを浮かべた。
「あんたに謝ろうと思って、あの村まで行ってんで。でも……なんかまた喧嘩になりそうな気がして、怖くて逃げて……。
色んな村を転々としながら、春になったらまた行って謝ろうと思ってたんや。そしたらなんか気持ち悪くなって寝込んでしもて。
……もしかしてって思った時にはもう、体調悪くて飛べなくて、ここから動けなくなっとったんや……」
瞑目して両手を下腹部に添える。
「で、出血してるのに気付いて、ああ、もうあかんなぁ……って思ったんやけど……、この子と一緒にヨタカの所に行くならまぁええか、と思って……」
ツグミの目からポロリと涙がこぼれ、ティアナは言葉を失った。自分がアルスに支えられて立ち直ろうともがいていた時、彼女は誰の支えもなく苦しんでいたのだ。
レイモンドも掛けるべき言葉を見付けられず、ただ俯いてツグミの腹を眺めていた。
誰もが押し黙る気まずい空気を破るように、突然軽やかな靴音が響いた。
「せっかく助けたんですから、ちゃんと元気なお子さんを産んでください」
いつの間に目覚めたのか、モトロが温めたスープを盆に乗せ、そっとツグミの前に差し出していた。
「飲めますか? 臭いは大丈夫ですか? もしつわりが酷いようならまた治癒しますので、いつでも言ってください」
ツグミは顔を上げた。
モトロは母譲りの美貌でニコリと笑い掛ける。
「アルスさんの妻、ヒバリの息子でモトロです。はじめまして」
「あんたが助けてくれたんやね……」
ツグミは涙を拭ってスープを受け取った。モトロは頷いてそっと片手をツグミの腹に置いた。ふわりと温かい気が身体を包み込む気がしてツグミはモトロを見上げる。
「赤ちゃんは頑張りましたよ。貴女はちゃんと栄養を摂って、しっかり身体を休めて下さい」
「……おおきに……」
モトロの言葉に救われたような気がして、ツグミは小さく微笑んだ。
◇◇◇◇◇
夜通し馬で駆け続けると、流石に意識が朦朧としてくる。ただでさえ旅が続き、恐怖の飛行体験を済ませた直後で身体は緊張の連続だった。
コーダ村まであと半日、という所でアルスは水場で馬を休ませながら、顔を洗った。
「……うわ、疲れてるな……」
水面に映った自分の顔が疲れ切っている事に気付き、溜め息をつく。
慌てて出て来たので、食料も持って来ていない。辺りを見渡すが、食べられそうな木の実は見当たらず、仕方なく水の中を見た。
「……何か食えるもの……、お、エビがいるか……」
石の下で蠢く触覚を見つけて、裸足になり、エビを捕まえ始めた。
夢中になってエビを捕まえていると、少し先で水音が聞こえたので、ふと顔を上げた。
「あ……ケイト……」
「あらアルス、久しぶりね」
網を手に、アルスと同じエビを大量に捕獲していた長身の女性が、その白髪混じりの黒髪を掻き上げた。
「ふうん……あの子……死んだの」
軽く炙ったエビを食べながら、アルスの話に耳を傾けていた女性が呟いた。
「あんたを庇って……ね。本望じゃない。良かったわ……」
「……おい、あんたの子だろ?」
あまりにもアッサリとした言い方に耳を疑った。仮にも親が、自分の子に先立たれて言う台詞とは思えない。
「だってあの子、いつもあんたより長生きしたくないって言って、自殺しかねなかったのよ。傭兵になっていつもあんたにくっついてたのも、あんたに先に死なれたくないからだって言ってたし。よくまぁ、ここまで生きてきたものだわ」
「……え?」
アルスは食べかけたエビを落としそうになり、慌てて叔母の顔を見上げた。
「私が老けるのにヨシキリが変わらないでしょ? それに気付いてから相当悩んで、いつあんたが自分より年上みたいになるか心配して毎日怯えて暮らしてたわよ」
「知らねぇ……」
いつも憎まれ口ばかり叩いて皮肉げに笑っていたヨタカの顔しか思い浮かばない。
ケイトは豪快に笑い、アルスの広い背中をバシバシと叩く。
「そりゃそうよ。あんたの前では格好つけてたものね。大好きなアルスに嫌われたくなくて一生懸命だったわよ」
「なんだよそれ」
アルスは戸惑いを隠せない。彼の知らない従兄の姿を赤裸々に語られ、どう反応していいのか分からない。
「相当屈折してたから、あんたには分からないわよ。……それにしても、嫁がいたとはね。聞いてないわよ」
自分の分のエビを食べ終わり、水を飲むとケイトは立ち上がった。スラリとした体型は歳を取っても変わらないようだ。
「一応、結婚式の案内は出しただろ?」
「あら、あれって……あんたの結婚式に対する嫌がらせだと思ってたわ」
「どういう親だ……」
アルスは頭を抱えた。道理で反応が無かった訳だ。
「で、その嫁を預かればいいのね? 念のために聞いておくけど……お腹の子はヨタカの子なのよね?」
「あ……それは……」
そうだ、と言うには微妙な出来事を目撃しているので、アルスは口籠った。
「あ、もしかして、あんたの子? いっつも女を共有してたものねぇ……あんた達。
それに、碧の魔人なら分からない……か。まあ、妊婦を預かるのはいいわよ。仕事として、ちゃんと責任持って面倒見てあげる」
ケイトは村では助産師をしている。アルスはホッと胸を撫で下ろした。
「助かる……。じゃあ、とりあえず一緒に村まで戻って、馬車を借りたら俺が迎えに行くから受け入れ体制整えてくれ」
「あぁ……それねぇ」
ケイトは気まずそうに髪を掻き上げた。手慣れた手順で焚き火の始末をして、荷物を担いだ。
「兄さんが帰ってないから……今、村は大変なの。デュカスに味方した連中と、その反対派で揉めてるわ」
「え……兄貴は?」
てっきり兄が父に代わって村を治めていると思っていたアルスはゴクリと息を飲んだ。
「ラッセは反対派だったから、兄さんの取り巻きと対立してるわ」
「げ……マジか……」
確かに、何故ザイールがデュカスに加担したのかは自分達の世代には理解しがたいものがあった。恐らく兄もそれで対立したのだろう。
ケイトは自分の馬に荷物を括り付け、ひらりと身を躍らせた。
「あんたが帰ったら、間違いなく巻き込まれて身動き取れなくなるわ。私が一人で戻って馬車を持って来る方がマシね。その娘が何者かも伏せておいて、完全な他所者の急患として預かる方がいいわ」
ザイールの姿を最後に見たのは恐らく自分だ。本来ならばそれを伝えなければならないだろう。だが、村の抗争に巻き込まれている余裕はない。
「……頼めるか?」
「私を誰だと思ってるのよ。明日のこの時間、この場所に馬車を持って来るわ。もし私が来なかったら他を当たりなさい、いいわね」
ケイトは手綱を器用に操りながら、馬の首を叩き、ゆっくりと駆け始める。
「親父の事は後でちゃんと伝えに行くから……すまない」
アルスは叔母の背中に向かって頭を下げた。
「了解。じゃあ、あんたと会った事は今回は誰にも言わないわ。巻き込まれる覚悟が出来てから顔を出しなさい」
ケイトは大きな声で答えながら片手を上げて村の方角に消えて行った。




