第84話 山を越えて
仲直りしてからのアルスのティアナに対する態度は目に余るものがあった。
とにかく必ず隣に座り、事あるごとに頭を撫で、抱き上げ、膝に座らせるのだ。正に溺愛、という感じである。
「……アルスさんって……幼女趣味だったんですか?」
「むしろ……今のティアナ様の姿的には……美少年趣味……?」
レイモンドとモトロは眉を顰めつつ、その様子を見守り、当のティアナは迷惑そうだ。
「あのさ……普通でいいんだけど……」
「どうせ神族の村でお別れなんだろ? だったら、今ぐらいいいじゃないか」
口笛を吹きながら、足を痛めたティアナをおぶって山道を歩くアルスはなんだか幸せそうだ。他の二人は溜め息をつきながら一列に並べた馬を引いて狭い山道を歩く。
「思ったより急な山だな」
以前はツグミのペガサスでひとっ飛びだったのだが、今回はかなり時間が掛かりそうだ。
「レイモンド、お前の覚えた魔法にはペガサスの召喚は無いのか?」
ふと思いついてアルスが言うと、レイモンドが渋面になる。
「無茶言わないで下さい。あれはツグミさんがご自分で考案した魔術ですよ。そもそも俺の魔力でどうにかなるものじゃないんです」
こんな山道を行くのなら、馬車など用意しなければ良かった、と後悔しながら、レイモンドは馬車を押す。
「……詠唱は知ってるの?」
不意にティアナに聞かれ、レイモンドは頷いた。
「ツグミさんに聞きましたから……ちゃんと書き留めてあります」
アルスとの会話の流れだと敬語になるから面白い。
ティアナはクスクスと笑い、モトロを指差した。
「魔力量の問題なら、モトロが詠唱したら? ツグミとそんなに魔力量変わらないでしょ?」
「え……僕……ですか?」
モトロはキョトンと目を見開き、アルスの背中のティアナを見る。
「な~んだ! ペガサス呼べるなら楽チンじゃない。次の開けた場所で早速召喚しましょうよ!」
問題は馬車だが、少し応用すれば大丈夫だろう。ティアナはレイモンドからその詠唱を見せてもらい、アルスの背中でブツブツ何か言いながら、独自の詠唱を考案していく。フィアードに出来たのだから自分にも出来るはずだ。
「ふふ……出来た!」
ティアナは自分で考えた詠唱を何度も目で読み返し、問題がないか確認した。なにせ、ぶっつけ本番。失敗は許されないのだ。
「どんな魔法だ?」
アルスが興味津々と言った声で聞いてくる。
「後のお楽しみ~!」
ティアナはニヤリと笑って、ギュッとアルスの逞しい背中にしがみついた。
狭い山道から少し広めの草原に出たので、ティアナは作成した詠唱をモトロに手渡した。
馬車は二頭立てに戻されている。
「これを……詠めばいいんですね」
「そうよ。お願いね」
ティアナが自分なりに考えたイメージをモトロに耳打ちすると、モトロはクスリと笑い頷いた。
立ち上がり、二、三歩後ろに下がってからモトロはすうっと息を吸い、静かに詠唱を詠み上げる。
「空を統べる精霊よ、風となりて我に集え。我が思いを形となし我に力を貸したまえ」
言葉に呼応して集まった風の精霊が馬車と馬達を包み込む。
「かの者達に翼を、天翔る能力を与えよ!」
詠唱が終わると同時に眩い光が辺りを満たして消えていく。
精霊達が具現化した大きな翼が二頭の馬の背中に生え、馬車の車輪は旋風を帯び、ヒュルヒュルと音を立てていた。
二頭立ての天翔る馬の馬車である。
「うわっ! 凄ぇ!」
レイモンドはティアナの応用力の高さに舌を巻いた。既存の馬車に飛行能力を持たせるなど、中々思い付かないだろう。
「……空飛ぶ馬車……。ティアナ様の仰ったのはこういう感じですか?」
モトロは慣れない詠唱で顔に少し疲労の色を浮かべつつ、ティアナに確認する。
「完璧よ! 流石モトロ! さ、これで山もひとっ飛びよ!」
想像通りの出来栄えに、ティアナは満足して馬車に乗り込む。ホッとしたモトロに続いてレイモンドが乗り込もうとすると、アルスがレイモンドの腕を引き寄せた。
「……頼む……御者はお前がやってくれ……」
「え?」
順番で言うと次はアルスの筈だったので、レイモンドは首を傾げる。心なしかアルスの表情が固い。
「……頼む……」
「……いいんですか? せっかくの景色……見れませんよ?」
上空から地上を見下ろす事など、そうそう出来る事ではない。レイモンドもシエラが羨ましかったのだ。
「……見たくないんだ……」
アルスの苦笑いにレイモンドはハッとある事に思い至った。
「ああ……、そういう事ですか……」
「そういう事だ……」
高い所が苦手……。ツグミとの旅では移動は格段に楽だったが、とにかくアルスにとっては地獄のような移動時間だったのだ。
「アルス、大丈夫?」
その事を思い出したティアナがヒョイと顔を出すと、アルスは青い顔のまま馬車に乗り込み、ギュッと目を瞑った。
「さあ、いつでも出発しろ!」
「……はぁ……」
レイモンドはノロノロと御者台に登ってからふと不安を感じて振り返った。
「なぁ……この馬達、大丈夫だよな?」
「……さぁ……?」
座席でティアナが首を傾げる。本来、馬は用心深い生き物だ。いくら翼を与えられたからといって、いきなり翔べるものだろうか。
「さぁって……お前……!」
レイモンドは思わず手綱を引いてしまった。
「しまっ……!」
「ヒヒーン……!」
馬達は驚いて嘶き、そして宙を蹴って空に一気に駆け上がった。
「うわぁっ!」
「きゃぁっ!」
馬車は大きく揺れながら暴れるペガサスに引きずられ、空高く登って行く。
レイモンドは振り落とされないように必死で御者台にしがみつき、手綱を引き絞ってなんとか馬達を宥めようとするが、興奮した馬達はお互いがぶつかりながら上へ上へと駆けて行く。
「ティアナ様! 大丈夫ですか!」
「だ……だ……大丈夫……!」
馬車そのものが風を帯びているので落下の心配はないものの、とにかく激しい揺れだ。荷物は山道に備えて固定してあったのが幸いしたが、ティアナの小さな身体は振り回され、そこかしこに頭や身体をぶつけてしまうだろう。慌ててモトロが手を差し伸べ、ティアナもその手を取ろうとした。
「……あれ……」
気付けばアルスが瞑目したまま、ティアナの身体をしっかりと抱き締め、衝撃から庇ってくれていた。
アルスに抱き締められたまま、ティアナは揺れに身を任せる。目が回りそうになり、慌てて目を瞑った。
「お前達が……怖いのは……分かってるっ……から、落ち着いて……くれっ!」
レイモンドは片手で御者台にしがみつき、必死でバランスを取りながら手綱を持つ手を緩めて馬達に語り掛ける。
「大丈夫だ……。落ち着け……。お前達はただ、空を駆けてるだけだ。道が無いんじゃない。ちゃんとあるだろ? ホラ……」
穏やかな声音で、ゆっくりと語り掛けると、二頭の馬は次第に落ち着きを取り戻し、それぞれの歩調を揃えようとする。
「そうだ。一緒に行こう。大丈夫だ……。大丈夫だ……」
レイモンドの声が呪文のように馬に届き、二頭は空中の道を並んで小気味良く駆け始めた。
レイモンドの奮闘のお陰か、ようやく馬車が水平に近い形で飛行し始めた。
ティアナはアルスを仰ぎ見て、その腕から逃れようとした。
「……アルス……ありがとう。もう大丈夫よ」
「まだ……だ。地上に降りるまで安心するな……」
アルスの顔は蒼白だったが、その赤銅色の目はしっかりと開かれていた。
「……分かった……」
ツグミのペガサスでさえ空中で破壊された事があるくらいだ。何が起こるか分からない。
この場で咄嗟に風の魔術を駆使できる者もいない。用心に越したことはないだろう。
「モトロ、風の魔法はどれくらい覚えてる?」
「咄嗟に使えるのは……落下を緩和する……くらいですかね……」
やはり、生きている馬に無理矢理飛行能力を与えるのは無理があったな、とティアナは内心舌を出し、小刻みに震えるアルスの膝をトントン、と叩いた。
「……アルス、大丈夫?」
「……ああ……。馬車の中で車輪の揺れ以外の揺れを感じるのは気持ち悪いもんだな……」
空中を滑るように飛んでいるかと思えば、時々ふわりと舞い上がったり沈んだりする感覚がたまらなく不安を煽る。
これなら御者台で外の様子を見ている方がマシだったかも知れない、とアルスは溜め息をついた。
「……もうすぐ山を越えます。もう降りますよ……ね?」
御者台でレイモンドが声を張り上げる。その声が大分疲れているので、彼も限界だろう。
「そうね。降りて今日はもう休みましょう……」
山道を半日、天翔る馬車で一刻ほど。数日かかると思っていた山を一日足らずで越えてしまった事になる。ゆっくり休んでもバチは当たらないだろう。
「降りますよ! 掴まってて下さい!」
レイモンドの掛け声を聞いて、モトロはしっかりと窓枠を掴み、アルスはティアナを抱き締めた。ティアナもギュッとアルスの腕にしがみ付く。
急な坂を下っていくような感覚が襲い、加速しかけた所でぐっと速度を落とすと、次の瞬間、ガタン! と車輪が地面に触れる感触があり、馬車が大きく揺れた。
「きゃ……」
着地と同時に魔法が解け、いきなり重力の支配を受けるようになった馬車は、あちこちで軋むような音をさせながら、ゆるゆると速度を落として止まった。
「……降りました……」
なんとなく老け込んだレイモンドの声に、三人はホッと安堵の息を漏らした。
◇◇◇◇◇
雨が降る山の麓を歩いていると、ふと見覚えのある景色が広がった。
ティアナは御者台のアルスに声を掛ける。
「ねぇ、この辺りに小屋があったわよね。雨が激しくなりそうだし、今晩はそこに泊りましょう」
雨粒が徐々に大きくなっている。このままだと夜中には大雨になるだろう。
「ああ……そうだな。確か、この辺りだったな」
アルスは道の脇に馬車を止め、車輪を固定して近くの木に括り付ける。荷台の鍵を確認していると、三人が貴重品と生活用品、食料を持って降りてきたので、扉も施錠する。
施錠した所で壊されては意味がないが、モトロが目くらましを掛けたので恐らくそう簡単に盗難に遭うことはないだろう。
空を飛んで疲れたであろう馬達を引きながら、藪の裏に懐かしい小屋を見つけた。
「……ツグミと会った場所ね……」
あの日も確か雨だった。ティアナは感慨深くそう言うと、ふと煙突から煙が出ている事に気付き、アルスに向き直る。
「誰かいるわ……」
「本来の住人が帰って来てるのかもな」
アルスは言いながら、木陰に馬を繋ぎ、何のためらいもなく扉を叩いた。
「すみませ~ん」
アルスの声が響くが、反応がない。
「……留守か?」
「出掛けたばかりなのかも知れませんね」
四人で扉の前に佇んでいると、徐々に雨足が強まってきた。
「……入れてもらいましょうよ……」
あの時と同じだな、と思いながら、ティアナは扉を押し、その内部の惨状に目を見張った。
想像を絶する程に散らかった部屋……アルスとティアナは既視感に目を奪われ、お互いを見合わせる。
「え……?」
「なんだ……この匂い……?」
そして、薄暗い小屋の奥の寝台で身じろぎする人影。枕元からパラリと空色の髪がこぼれ落ちる。
「……ツグミ……?」
ティアナは考えるよりも早く小屋に飛び込み、寝台に駆け寄った。
部屋に立ち込めているのは……血の匂いであった。
「……う……ん……」
寝台にはきつく眉根を寄せて空色の髪の少女が腹を抱えて横たわっており、その着衣は下半身が赤く染まっていた。




