第77話 春の森
雪が溶け、草の芽が所々で顔を出し始めた頃、湖畔の村の村外れには風変わりな集団が集まっていた。
赤毛の大男に赤毛の隻眼の少年。赤毛の赤ん坊は乳白色の髪の少女に抱かれ、その少女の身内と思われる女性と少年、黒髪に紫の目の神秘的な美少女、そして空色の髪の男性。
とにかく目立つ集団で、乗合馬車を待つ他の客は関わり合いになりたくないと目を逸らしてコソコソと逃げて遠巻きに様子を見ている。
「参ったな……」
アルスが頭をガシガシと掻きながら顔を顰める。
「やっぱり町までの乗合馬車は一杯だとよ。明日にしないか?」
春一番の乗合馬車は混雑する。冬をこの湖畔で過ごし、町に戻る連中が多いからだ。
「別々の馬車って訳にも行かないしなぁ……。辻馬車だと全員乗れないし……」
町に向かうのはアルス、ティアナ、モトロ、リュージィの四人である。アルスの他に何かあった時に戦えるのはモトロだけだが、実戦経験が殆どないらしい。
乗合馬車の定員は箱馬車が四人。幌馬車が六人。辻馬車だと荷台が無いので、三人が限度だろう。
「ダメよ! ちゃんと四人で行動して! 貴方が責任を持って守ってちょうだい!」
赤ん坊を抱きながら、妻が厳しい顔をする。今朝まで甘い睦言を囁きあっていたと言うのに、突然母親顔をされ、アルスは少しムッとした。
「分かってる。お前の大切な息子と親友は俺が守るから、出発をずらすしかないだろ?」
「よく言うな。お前らがいつまでもベタベタしとるから出発が遅れたんだろうが」
黒髪の美女が冷ややかに言い、隻眼の少年が同調して頷いている。
「……あの、あちらの荷馬車なら乗れそうですよ?」
今日が初対面の妻に瓜二つの少年が、別の乗り場を指差した。
「荷馬車……! 乗ってみたかったんだ!」
赤毛の小さな少年は隻眼を輝かせる。
乗合馬車は基本的に風雨から客を守る為に箱馬車が幌馬車で、あまり景色を楽しめない。だが、荷馬車の荷台は幌部分と露出部分があるので、乗り心地は悪いが思い切り景色を堪能できるのだ。
「……仕方ない、途中までは荷馬車で行くか……」
アルスは肩を竦め、荷物を担ぎ上げた。
こういう馬車の行き先表示は土地に名が無いために、方角しか記載がない。位置関係が分からなければ、思い通りの場所には向かえないという弱点があり、相当旅慣れなければ利用できないのが現状だ。
もちろん、それぞれの土地に通称はある。だが、それぞれの地域によって呼び名が異なっていたり、すぐに呼び名が変わるので、公式の場では使われることは無い。コーダ村のようにはっきりとした支配者が存在する土地を除くと、ほとんどの土地でその傾向が顕著だ。
ティアナは乗り場に掲げられている案内を見ながらその問題点をしっかりと頭に焼き付けた。
「いってらっしゃい」
ヒバリはラキスを母親に預け、ティアナとリュージィに笑い掛けた。そして、モトロに手を差し伸べる。
「気をつけてね。貴方がティアナを守ってあげて……」
「はい……お母さん……」
旅立つ事が決まって、初めてゆっくり語り合う時間を得た二人は、不思議なほどにすんなりと離れていた時間を取り戻していた。
まるで鏡を見るかのような心地でモトロは母の手を握り、そしてアルスから荷物を受け取って、彼の背中を押した。
「あ、おい……」
モトロの計らいに戸惑いながら、アルスはヒバリの前に一歩踏み出し、その細い身体をそっと抱き締めた。
「悪いな……また、離れ離れだ……」
「ううん……。大丈夫。待ってるわ、アルス」
二人は軽く口付け、人目も憚らずに熱く抱き合った。やがてお互いの唇を貪り出したので、モトロは目のやり場に困り、赤面したままティアナを抱き上げて荷台に登った。
「……すみません、そろそろ出ます……」
荷を積み終わった御者が言うと、リュージィと別れを惜しんでいたヨシキリが二人につかつかと歩み寄り、アルスの頭を思い切り殴った。
「続きは帰ってからじゃ! わいも我慢しとるのに、好き勝手すんな!」
アルスは渋々ヒバリから離れると、リュージィを荷台に乗せ、自分も荷台に登った。
「じゃあ、行ってくる」
アルスは白い歯を見せて愛する家族に笑いかけた。
◇◇◇◇◇
荷馬車の乗り心地は最悪だ。値も安いが、田畑で荷を受け取る為に道中を急ぐため、ついでに乗せている客に対する配慮の欠片もない。
同乗している三人の男達は皆商人らしい。自分の荷物を大事そうに抱え、荷台の隅でじっとしている。
「おしり……痛い……」
ティアナが言うと、モトロが優しく自分の膝の上にティアナを座らせた。それを見てアルスは少し複雑な気分になる。
二人が何か楽しそうに話していると気になってしまう。モトロの顔が妻に瓜二つだからなのか、ティアナが自分よりモトロを頼りにしているように見えるからなのか。よく分からないが、とにかくなんとなく落ち着かない。
「どうした? 嫉妬しとるのか?」
気がつくと、すぐ横にリュージィが腰掛けていた。彼女の肩が荷馬車に揺られるとアルスの胸に時々当たる。その距離が近すぎて、思わずアルスは仰け反った。
「いや……そういう訳じゃないが、お前……近くないか?」
「ふむ、ヒバリに頼まれておるからな。もしアルスが我慢出来なくなったら相手をしてやれ、とな」
「はぁっ?」
しれっと言うリュージィにアルスの顔が引き攣る。どこの世に夫の浮気相手の世話をする妻がいると言うのだ。
「どこの誰かも分からん相手と寝られたら寂しいらしい。乙女心というやつか?」
「……どこが……」
アルスは深く溜め息をついた。どうせ、それをネタに帰ってから散々焦らされるだけだ。ヒバリは母親になって余裕が出たらしく、アルスを焦らす快感に目覚めてしまった。
出会った頃、体力の限界までお互いをただ貪っていた頃が懐かしいくらいだ。
しかし、長い旅の中では何が起こるか分からない。ティアナやモトロの手前、あまりそういう事態にはなりたくないが、人肌恋しくなる事もあるだろう。
「……まぁ、その時は頼むかも知れんが……な」
ゴニョゴニョと呟くと、拳二つ分くらいの距離を取った。リュージィは相変わらずの淡々とした表情で流れ行く景色を眺めている。
綺麗な横顔だ。このいつも冷静な少女が乱れる姿はどんなものだろう、とふと考え掛け、アルスは慌てて首を振った。
「どうした? 私の顔に何か付いているか?」
首を傾げる姿も美しい。色気というものは感じないが、その分好奇心が刺激される。
ヒバリと会う前ならば、間違いなく口説きに掛かっていただろうな、と苦笑いして場をごまかすと、アルスも景色に目を向けた。
地平線の辺りに淡い桃色の絨毯が見える。
「夢想花……か」
あの集落に滞在したのがつい最近のように感じられ、アルスは不思議な感慨を覚えた。
「おお、そうだな。もうすぐ満開になるだろう。あの草は本当に優秀だ。例の眠り薬の主成分だからな。これからは需要も増えよう……」
「へえ……」
「その為に町で薬師の勉強会を催す算段だ。商会に登録している薬師に指導するのだ」
「そうか……。流石だな……」
知らない内に、彼女は醫療の普及に務めていたらしい。驚きを隠せず嘆息すると、いつの間にかティアナが反対側に座っていた。
「そっか……。じゃあ、あの集落は……」
「うむ。大分豊かになっとる筈だ」
「……良かった……ね。父さん……」
ティアナが嬉しそうにアルスを見上げてくる。人前ではすっかり親子の演技が板についてきた。アルスは赤く染め上げられたティアナの髪をワシャワシャと撫で、自分の膝に座らせた。
成る程、やはりモトロに嫉妬していたらしい。アルスは妙にしっくりくるティアナの感触に苦笑した。
馬車はやがて森林地帯に入り、少し速度を落とした。何となく不穏な空気を感じる。以前襲われたのもこのような森林だった、と思いながら、アルスは念の為に剣の位置を確認する。
森には盗賊だけではなく、人を襲うような獣も多く、冬眠明けでまだ食料の少ないの今の時期は、最も危険な時期とも言える。
「……モトロ、お前はどの程度戦える?」
ティアナをリュージィに託し、義理の息子に声を掛ける。予感は確信に変わっていた。
「……獣相手ならば大丈夫ですが、人とはまだ戦った事はありません……」
何となく緊張した面持ちのモトロは周囲に警戒している。その表情にアルスは関心し、小さく頷いた。
「フィード……今はどの程度魔力が使える?」
アルスのやや硬い声に、ティアナはゴクリと息を飲む。湖畔からは然程離れていない。ティアナは冷静に自分の魔力を分析する。
「……馬車を覆う結界ならなんとか……。でも補強や修復は出来ないから、手早く片付けてね」
「おう、もちろんだ。じゃあ、結界頼む」
「了解」
アルスとモトロが馬車から飛び降りると同時に、ティアナが素早く結界を編み上げて馬車を覆う。
商人達が何事かと焦って周りを見渡すと、馬の嘶きが聞こえて馬車が急停車した。
馬車の前に、数人の人影が見える。御者が緊張した面持ちでその人影を睨みつけていた。
「……そこをどけ」
低い声で威圧する。中々気骨のある御者だ。腰に下げていた剣を抜き、進路を妨害する人影に対峙した。
アルスとモトロは荷台からぐるりと回り込み、馬車の両側を守るように立つ。
人影は少しずつ歩み寄り、一人の男の姿が顕になった。筋肉隆々の熊のような男だ。
アルスは剣を抜き、一歩前に出た。御者にはこの相手は少々荷が重いだろう。立ち位置も悪い。
「荷を置いていって貰おうか……」
男の言葉に、御者はフンッと鼻を鳴らす。
「生憎だったな。まだろくな荷は無いな」
「なら、荷を買う為の金ならあるんだろ。そいつを寄越せ。乗ってる女子供もこちらに寄越すんだ」
下卑た笑いを浮かべる男の剣がギラリと光ると同時に、周りの人影が動き、一斉に馬車を取り囲んだ。
「モトロ!」
アルスの声と共に、馬車の周囲に氷の刃が広がり、男達は驚いて後退った。頭と思われる男の鼻先にも氷の刃が突き付けられる。
「……何だこれは……!」
男は剣でその氷の刃を叩き壊す。その隙にアルスが男の懐に斬り込んだ。袈裟懸けに斬り払われた男は鮮血を上げ、そのまま崩れ落ちた。
「ひいっ! お頭っ!」
舎弟たちが悲鳴を上げる。頭は百戦錬磨の強者だったのだろう。それが一撃で斬り伏せられ、一気に士気が下がる。
目の前に立ち塞がる氷の刃に二の足を踏んでいる間に、頭の亡骸は馬車の進路の外に放り出された。
「ほら、今の内だ! モトロ、乗れ!」
モトロは慌てて馬車に戻り、アルスは御者の隣に座ると手綱を取った。
「振り切るぞ!」
馬が嘶き、馬車は頭の亡骸の脇をすり抜けて走り出した。頭を失った盗賊など恐るるに足らないが、全て斬り伏せる必要はない。何故ならば……。
「うわぁっ! 狼だ!」
「ひぃっ! 助けてくれ!」
血の匂いに興奮した狼の群れが一斉に盗賊達に襲いかかり、統率の乱れた男達を食い散らす。狼は男達で満足してこちらには襲って来ないだろう。ここは少しでも距離を稼ぎたい所だ。
ティアナは荷台からその様子を見て、春の森の恐ろしさに息を飲んだ。
「……いちいち止まるほどでも無かったんじゃないか? 最初から蹴散らせば良かったものを……」
旅慣れたリュージィの言葉にモトロが苦笑した。
「彼らの頭は相当の手練れでしたよ。アルスさんがいなければ、危なかったです……」
「そうか? お主一人でも充分だろうが……」
あの氷の刃を防御ではなく攻撃に使えば、一気にカタがついただろうに。リュージィの紫の目が冷ややかにモトロを見る。
「買い被りです……」
リュージィに言われ、モトロは肩を竦めた。まだ人を殺める覚悟はない。今後、その必要性が出るかも知れないが、アルスがいる以上、モトロが出しゃばる必要はないだろう。
「大丈夫ですか、ティ……」
「……フィード……だよ、モトロ」
ティアナはモトロの唇に指を当て、囁いた。モトロはハッと息を飲んだ。
「……すみません……」
ティアナの隻眼は荷台の上で縮こまる三人の商人に向けられていた。




