第73話 決意表明
ヨシキリを見送ったその日は特に何事もなく、二人は夕方には繁みの間の目立たない所に天幕を張る事ができた。
ティアナの提案で、天幕の周りに糸を張り、その糸に複数の乾いた木片を結び付けるという簡単な罠を仕掛けた。何者かがその糸に触れると音がなるという単純な仕掛けだ。
たまたまアルスの服の裾が解れて糸が見えた事で思い付いたのだ。
その罠のお陰で、今晩はアルスも天幕の中で少し横になることが出来た。勿論手には愛剣を持ったまま出口に頭を向け、もし賊が入ってきてもそのまま頭上を剣で払うつもりだ。
「……よくこんな事思い付いたな……」
アルスはティアナの提案に感心していた。
「結界を参考にしただけよ。よくフィアードが結界と籠が似てるって言ってたから……」
ティアナは少し恥ずかしそうに笑い、アルスの背中にしがみついた。なんとなく一人で天幕で寝たくなかったのだ。
よく考えてみると、誰かと添い寝するなど、生まれてすぐに母親の胸の上に乗せられて以来かも知れない。
アルスの大きな背中に耳を当てると、穏やかな鼓動が聞こえてきて、それだけで安心する。
「おやすみなさい……」
「ああ、おやすみ」
アルスは大きな手を背中に回して、ぎこちなくティアナの頭を撫でた。向かい合って眠ってしまうと動きが取れないので背中を向けているのは仕方ない。
すぐにティアナの寝息が聞こえて来て、アルスはホッと息をついた。
これまで追手らしい者は現れていない。このまま何事もなく、次の村でヨシキリとグラミィと合流出来ればいいのだが……。
規則正しいティアナの寝息を聞いていると、徐々に意識が混濁してくる。
昨夜、ヨシキリがいてくれて久しぶりに眠ってから、少し緊張の糸が緩んでいる。これはあまりいい傾向ではないな……そう思いながら微睡みの中に意識を放り出してしまった。
カラカラカラカラ……
乾いた木片が音を立て、アルスはハッと目を覚ました。ティアナは日中の疲れからか、まだ眠りの中にいる。
天幕の周りを何者かに囲まれている気配がする。その中の間抜けな一人が罠に掛かってくれて助かった。アルスは呼吸を整えると音を立てずに身を起こし、剣を抜いてゆっくりと出口から姿を現した。
五人の男達がぐるりと天幕を囲んでいた。身なりからして山賊だろう。
「……お……」
「よお……、何か用か?」
抜き身の剣をダラリと下げてぐるりと周囲を見回す。
アルスの迫力に気圧されたのか、男達はその場に縫い付けられたかのように動かない。
「……荷物を置いていけ」
頭と思われる男が低い声で言った。
「あ? 聞こえねえな」
アルスは不敵に笑い、剣先をユラユラと遊ばせる。
「てめぇっ!」
男の内の一人がその挑発に乗って剣を振りかざしてアルスに斬り掛かった。
「あっ! こらっ!」
頭が焦って止める間もなく、その男の剣を持つ腕にアルスの剣が走った。
「うぎゃあっ!」
宙を舞う自分の腕を見てパニックになった男は、鮮血を迸らせながらのたうちまわる。
近くにいた仲間がその男に駆け寄り、大急ぎで止血を施しているようだった。
「さ、次はどいつだ?」
アルスは赤銅色の目を光らせ、ニヤリと笑った。
男達の間に緊張が広がり、全員が息を飲んだ気配にアルスは目を細める。
「……引き上げるぞ……」
しばしの沈黙の後、頭は顎をしゃくり、男達を下がらせた。敵わない、とすぐに判断したようだ。斬り掛かった男は勇み足だったとしか言いようが無い。
片腕を失った男は呻き声を上げながら、仲間に引きずられて行った。
「邪魔したな……良い旅を……!」
仲間が消えたのを確認し、頭は舌打ちしてアルスに背を向けた。
「おう、すぐに出て行くから許せ!」
すぐに諦めてくれて良かった。戦いが長引いて、万が一にもティアナの存在が知れたらどうなってしまったか。アルスはホッと胸を撫で下ろし、剣を収めた。
「油断したな……」
アルスは肩を回して伸びをすると、そっと天幕を覗き込み、気持ち良さそうに眠るティアナの顔を眺めて溜め息をついた。
◇◇◇◇◇
翌朝、二人は並んで素振りをしていた。だが、今日は二人の素振りのリズムが合わない。アルスの素振りが早すぎて、ティアナがついて行けないのだ。
「……ちょ……まっ……」
ティアナはハアハアと息を切らせ、隣のアルスを見上げた。
彼は難しい顔で黙り込み、瞑目していた。昨日の山賊が様子を見に来たら面倒だ、とアルスは常に周囲を警戒していたのである。
「……っつうっ!」
カラン、と音を立ててティアナの手から木剣が転がり落ち、初めてアルスが彼女の方を見た。
「どうした?」
落ちた木剣を拾い上げ、その柄が赤く染まっている事に気付き息を飲む。
「お前……、手、見せてみろ!」
アルスはティアナの前に屈み込み、その手を無理やり広げさせた。ティアナが小さく悲鳴を上げる。
「痛いっ!」
慣れない剣術の修行で、彼女の手のひらの柔肌には血豆が出来、それが潰れて血だらけになっていたのだ。
「……あ……」
アルスは自分の配慮が足りなかった事に気付き、顔を顰めた。
それまで重たい物など持った事のないティアナが剣を振るなど、生半可な事ではない。しかも、素振りを五種類三十回ずつ、合計百五十回など、こんな小さな身体には負担が大きすぎたかも知れない。
「気付かなくて悪かった……」
慌てて服を引き裂き、傷付いた手に巻き付ける。本当なら脂を塗ってやりたいが、とりあえず応急処置だ。
「ありがとう! さ、続き続き!」
ティアナは両手を布で覆った途端にまた木剣を振り始めた。
「おい、無理するな……」
「十七、十八……」
ティアナは額に汗を光らせながら、歯を食いしばって素振りを続ける。その姿に溜め息をつき、アルスも再び素振りを始めた。
アルスは荷物の中から軟膏代わりになる脂を取り出した。湖畔の村を出る時に、醫師のリュージィに持たされた物だ。
「ホラ、手を出せ!」
ティアナは黙って両手をアルスの前に突き出した。
無造作に巻き付けた布切れには血が滲み、乾いてバリバリになっている。
「沁みるぞ、少し我慢しろ」
水袋の水を布に染み込ませ、ゆっくりと剥がしていく。
「……っいったい!」
「じっとしろ!」
布を全て取り払い手のひらを水で洗い流す。そのあまりもの激痛に、ティアナは思わず手を引っ込めてしまった。
「痛いっ!」
アルスは有無を言わさずに彼女の細い手首を掴んで、手拭いで水気を取り、片手ずつ丁寧に脂を塗り込んだ。
痛みが嘘のように引いて驚いたが、動かすとまだ少し痛むので、表面の刺激を和らげる為のものらしい、と察しがつく。
「これで少しは楽になるだろう」
アルスは清潔な布を両手に巻き付けてそっとティアナの手を放した。
「……ごめん……」
「いや、よく考えたら、俺も剣を始めてすぐの頃は手を豆だらけにしてたもんだ」
「そうなんだ……」
「剣を始めたばっかりの子供の手って、みんな同じなんだな。なんか凄く懐かしかったぞ」
アルスは笑いながら脂を片付け、朝食の鍋を持って来た。
「その内、皮膚が硬くなって強くなる」
「……え……硬くなるの……?」
ゴクリ、とティアナは息を飲んだ。そう言えばサーシャの手は女性にしてはゴツゴツしていた気がする。
自分の手もそうなってしまうのだろうか……。今までの白魚のような手にはなれないということか。
「……ゴツゴツした手になるの?」
「まぁ、そうだろうな……」
アルスの言葉にティアナは布でぐるぐる巻きにされた両手をしげしげと眺めた。
「どうした? もう剣はやめるか?」
アルスは目の前にパン粥を突き出して尋ねた。いくら心が大人でも、体は六歳の子供。今から鍛えたら充分剣士として通用するようになる。
だが、そうなると女性らしい丸みを帯びた細っそりとした体形や、ふっくらとした柔らかい手とは無縁になるだろう。恋する乙女は外見に敏感な筈だ。
「……やめない! 決めたんだもの。自分の事を自分で守れるようになるわ」
今までとは明らかに違う状況。それが何を意味するのか分からないが、身を守る術が無いのは嫌だ。
ティアナは器を受け取り、漆黒の目線に強い意志を込めてアルスを見据えた。
「そうか。それなら続けよう」
アルスはニヤリと笑い、木匙を渡した。
◇◇◇◇◇
二日後、特に大きな問題もなく村に辿り着き、アルスはようやく肩の荷が下りた気がした。もしかしたらあの山賊が気を利かせたのかも知れないが、ティアナの存在が広がらなくて良かった。
二人が宿を探していると、フードを被った女性が近付いて来た。
「……無事で良かったわ」
水色の目がアルスを見上げる。
それ程長い時間離れていた訳ではないが、妻によく似た彼女の顔を見てアルスの気持ちも少し揺らぐ。
「グラミィ、こっちまで出て来てたんだな」
別れた土地から引き返さずに、一人で三頭の馬を引きながらこの土地まで出てきてくれたのだ。虫の知らせという奴だろうか。
「ええ。なんとなく戻らない方がいい気がして。麓の村まで行っておけば、帰りには力になれると思ったのよ……。こんなに早く戻って来るとは思わなかったから」
治癒術師としての力も必要になると思ったようだ。山を越えるのに掛かる時間を考慮しても、充分に間に合っただろう。まさか山に穴を開けて通り抜けるなど、誰が想像しただろうか。
ヨシキリが駆けて来て二人に気付き、破顔した。そっとグラミィの肩を抱く。
「宿は取っといたど。今日は休んで明日の朝出発やな」
ヨシキリの言葉に頷くと、何となく注目を集め始めている事に気付いた。魔人二人に赤毛の巨漢、小さな隻眼の少年。当然と言えば当然だ。
とりあえず宿に移動する事にして、一行は歩き出した。
宿の部屋に入り、荷物を置く。
「ヨシキリ、消音の結界を」
命じ慣れた口調でティアナが言うと、二人の魔人は少し肩を竦めて顔を見合わせた。
小さな隻眼の少年からは風格さえ漂っている。流石、と言うべきだろうか。
ヨシキリは手早く結界を施して寝台に腰を下ろした。グラミィがその隣に座る。
アルスは扉近くに立ったまま、ティアナはその隣に立って二人を見た。
「あのね、私……これからどうするか決めたの。それにはみんなの協力が必要で……」
「おう、遠慮するな」
ヨシキリが気軽に頷くと、ティアナの気配が少し和らぐ。
「フィアードを助けたいの。その為に何をするか、ずっと考えてたわ」
その場の全員が息を飲んだ。
「私の魔力が無くなって、そう簡単には助けられそうにないんだけど、きっと方法はあると思うの。だから、私はその方法を探したい。
冬の間に皓の村にフィアードが残した資料を調べて、春になったら商会に行って、レイチェルに会うわ。それから……私達の故郷に帰ってみたいの」
「神族の村……か」
アルスの顔が少し曇る。嫌な事を思い出す。
「地下室にまだ何か資料が残ってるかも知れないし」
「成る程ね」
グラミィが頷いた。
「それで……アルス、私と一緒に来てくれる? 出来ればグラミィも……」
メンバーとして、この二人が一緒ならば安心だ。だが、一つ気掛かりがある。
「ヒバリとラキスには悪いんだけど……」
アルスが家族と一緒に過ごせる時間を奪うのは心苦しい。だが、フィアードがいない今、彼女が心から信頼できるのはアルスしかいない。
「……まぁ、冬の間は家族と一緒に居られるんだろ? その後のことは気にするな。弟子の修行にはちゃんと付き合ってやらないとな」
アルスはニヤリと笑ってティアナの頭をポンポンと叩いた。
「私も構わないわよ」
グラミィは優しい笑顔で頷いた。
「……ありがとう」
微かに呟くような声が部屋に響き、そのまま俯いたティアナをアルスが抱き寄せた。震える肩を優しく撫でる。
「全部抱え込むな。お前はまだ子供なんだからな」
アルスの言葉にティアナはただ頷くことしか出来なかった。




