第65話 奔流
フィアードは名を呼ばれた瞬間、身体が見えない鎖のような物で縛られた気がした。
痺れるような感覚の中、ジリジリと手を動かして首の水晶に触れると、スッとその鎖が消えて行くのが分かった。
「……へぇ……。化身の力を上手く流用して自分への干渉を跳ね除けたんだ……。やるじゃない」
フィアードは風で剣先を押し戻すと、ティアナを守るように立った。
「そうだ、ヨタカ。この子達の名前は? まぁいいや、言わないなら殺しちゃうから」
青年が殺気を込めて剣をツグミに向けた瞬間、ヨタカが宙を蹴ってその間に入ろうとした。
「やめろ! ツグミは俺が……!」
言ってしまってハッとする。フィアードの表情が強張ったのを見て、青年はニヤリと笑った。
「……言ったね。いい子だ……」
ヨタカのこめかみに汗が流れる。ダルセルノとは違う、その抗い難い雰囲気に気圧される。
「ヨタカ、君はザイールを手伝って、あの邪魔なアルスを殺しちゃいな。ほら、矢ならいくらでもあげるからね」
青年はヨタカの矢筒にいっぱいの矢を一瞬で補充し、親子で戦う二人を指差した。
ヨタカはつられてそちらを見、ギリと唇を噛み締めた。実力は拮抗している。そして何よりも二人はその戦いを堪能している。そこに水を差せと言うのか、と青年を睨む。
「まあ、二人とも楽しそうだから構わないんだけどさ……僕としては、ザイールを失いたく無いんだよ。将軍としてこれほど相応しい人材はないからね」
言いながらヨタカの腕をグイと引き寄せ、その耳に囁きかけた。
「……ホラ、君だってアルスが憎いだろ? 家族なんか作って幸せになろうとしてるんだよ? 君の気も知らないで。
ここで帰したら、家族の元に帰っちゃうよ? それより君の手で、彼を永遠に自分の物にしちゃった方がいいんじゃない?」
ゴクリ、とヨタカが息を飲んだ。アルス達を見つめるその空色の目が熱を帯びる。
「いい子だね。行っておいで……」
フラリとその身体が傾いだかと思うと、ヨタカは闇色の猛禽類となって颯爽とその場を飛び立って行ってしまった。
一体何を言われたのか分からないが、ヨタカがザイールを援護したら、アルスが危ない。フィアードはヨタカを阻止すべく魔力をためようとしたが、迫る剣先に気付いて慌てて自身の剣で受け止めた。
「さあツグミ、僕の手伝いを……あれ?」
青年は異変に気付いた。ツグミは不可視の繭の中で呆然としている。
「……成る程ねぇ。恋人とは戦いたくないから、閉じ込めちゃったんだ……残念だなぁ……」
青年はつまらなさそうに言うと、その結界を解析して舌を巻いた。
「へぇ〜。精霊まで使ってご丁寧に。僕に解けないように必死で考えたんだね。本当に勉強家だな、君は」
関心したように肩を竦めた直後、その表情が一変する。
獲物を見据える蛇のような目でフィアードを睨み付けた。
「やっぱり君は邪魔だね。神の隣に立つのは僕だよ。君じゃない!」
剣を捨て、純粋な魔力を溜めた両手がフィアードに迫る。
危機感を覚えたフィアードも剣を捨て、両手を突き出して魔力を練り上げた。ティアナは落ちた剣を慌てて拾い上げる。
「サーシャ!」
青年の声と共に、その背後に栗色の髪の女性が現れる。彼女も魔力を練り上げている。
これはマズい! フィアードは咄嗟にティアナを結界ごと洞穴の中に吹き飛ばした。ツグミも反対側に吹き飛ばし、首元の水晶に意識を集中して、膨大な魔力を引き出していく。
「……時間の狭間に飛んで行っちゃえ!」
青年がフィアードの周りを隔絶するのとほぼ同時に、青年達の周りも隔絶される。青年はハッとしてその漆黒の双眸でフィアードを見た。
「貴様……!」
フィアードには彼等にかまっている余裕は無い。如何なる魔術も理論上は問題なくても、実践するとなれば状況は刻一刻と変化するのだ。
サーシャは極限まで高めた魔力に耐え切れなくなったようで、その身体からは白銀の光が迸り始めている。
「サーシャ! まだだ! 待て!」
青年が焦って声を掛けるが聞こえていない。この状態で魔力を放ったら自分達も巻き添えだ! と言おうとした時、サーシャが放とうとしていた白銀の光と同じ物がフィアードの胸元から放たれた。
三人を包んでいた隔絶された空間に白銀の光が満ち、そして……
……空間ごとその場から掻き消えた。
◇◇◇◇◇
いきなり突風に飛ばされてティアナは呆然としていた。
今までも戦いの最中は良く分からない内に居場所が変わっていたりしたが、このように吹き飛ばされたのは初めてだ。
フィアードの剣を抱いたまま、なんとなく空中でバランスを取り、フワリと着地してみると、自分を覆っていた結界が消えた。
「……あれ?」
洞穴の出口付近に降り立っていた。
「お兄ちゃん?」
胸騒ぎがして洞穴から走り出る。
フィアードが同じ髪色の青年と魔力をぶつけ合っているのが見える。先ほどまでいなかった栗色の髪の女性も何かを唱えている。
力になれるとは思わないが、とにかく嫌な予感がして、そちらに向かって走り出そうとした時、急に膝に力が入らなくなった。
「え……何……?」
魔力が水晶に吸い上げられて行く。洞穴を開けた時とは比較にならない勢いだ。
ティアナの身体中の力が抜け、その場に跪いた。剣を杖にして無理やり顔を上げると、フィアード達が白銀の光に包まれている。
「……あ……駄目!」
元は自分の力であるその光がどういう作用を持つのかを漠然と感じて背筋に冷たい汗が流れる。
「お兄ちゃんっ! 駄目!」
光が迸り、視界を白銀に覆う。
「お兄ちゃん……!」
剣を杖にして立ち上がる。膝が笑っていてとてもではないが走れない。だが、行かなければ!
気力を振り絞って歩き出したその時、白銀の光が収まった。
「お兄ちゃ……」
視線をフィアードに向けたはずが、そこには何も無くなっていた。
「あ……、嘘……!」
それが何を意味するのか、神の化身たる彼女には明白で……。
「……フィ……アード……!」
ポロリとその名が口を突いて出てきた瞬間、パアッと視界が開けるように記憶が奔流となって襲いかかってきた。
「フィアード……フィアード!」
もつれる脚で駆け出そうとしてその場に崩れ落ちる。
彼らが何をしてどうなったのか。溢れる記憶と知識で認識する。フィアードと繋がっている筈の水晶に触れるが、反応がない。
「……どうしよう!」
魔力さえあれば、この場にフィアードを呼び戻す事も叶うというのに、全く魔力が集まらない。恐慌状態に陥っているティアナに耳障りな声が掛けられた。
「ダイナ! わしと一緒に来るんだ!」
ハッとして顔を上げる。いつの間にか目の前にダルセルノが立っていた。
「……お父様……」
◇◇◇◇◇
激しい剣戟の音が響いている。アルスは滝のような汗を流しながら剣を振るっていた。
「思ったより強くなったじゃないか」
「やかましい! 大人しく隠居してろ! クソ親父!」
ザイールの大剣を弾き返しながら、アルスは舌打ちする。こんな状況でなければ、父との手合わせは望むところではあるのだが。
チラリとフィアード達を見ると、ヨタカが敵に回ってしまっている。ツグミもフィアードも防戦一方だ。
「よそ見するとは、舐められたものだな!」
鋭い蹴りがアルスの鳩尾を抉る。
「っぐ!」
思わず身を屈めそうになって、慌てて剣を構え直す。
「お、陛下のご到着じゃな」
ザイールが薄緑色の髪の青年の姿を認めてニヤリと笑う。
「……陛下だと?」
アルスが眉を顰める。王たる者の称号ではないか。
「あのお方は世界を統べると仰っとる」
「なに……!」
「その為に、化身を娶られるともな……」
「冗談だろ……?」
アルスは目を丸くした。神の化身を王妃に迎えて世界を統べる、ということか。
「なあに……あと十年もすれば、釣り合いも取れよう。あのお方は歳を取らんからな」
「それで、親父はその国の将軍になるってのか!」
「中々面白い話じゃろ?」
「ふざけるな! 本人の意思は無視かよ!」
「統治とはそういうものじゃ。お前には分からんじゃろうがな」
「俺はな……、自分の欲望の為に子供を犠牲に出来るような奴は大嫌いなんだよ!」
アルスは地を蹴って父親に剣を振り下ろした。ザイールは大剣を振り上げ、その剣先でアルスの剣元を跳ね上げた。
柄が汗で滑り、弾き飛ばされたアルスの愛剣が宙を舞う。
丸腰になったアルスに大剣の刃が迫ったその時、無数の風刃がザイールの身体を切りつけた。咄嗟に払われたその大剣が闇色の翼を切り裂く。
「……ふん……お前らは本当に……」
屈強な身体を朱に染めて崩れ落ちる父親の姿にアルスは息を飲んだ。これまで敵対する者の命を奪う事に頓着してこなかったのかも知れない。
そして今の今まで、父と命のやり取りをしている意識なく刃を交えていた事に、ようやく気付かされた。
「……親父……」
呆然と呟く。
あの風刃は一体誰が? ツグミか、フィアードか? と思いを巡らしていると、ドサリと音がして、アルスの脇に黒髪の青年が落ちてきた。
肩から胸に掛けて大きく斬りつけられ、傷口からはドクドクと鮮血が流れている。
一目で致命傷と分かる傷だ。ザイールが倒れる間際に斬りつけた黒い鳥は彼だったのか! アルスの心に動揺が走る。
「ヨタカ!」
「……アル……ス」
その身体を起こして、思わず周囲を見渡す。今、彼を救える者の姿を探して。
みるみる血溜まりが広がる中、胸を締め付けるような記憶が蘇った。あの時、救ってくれたあの幼女の能力を心から欲した。
そして、薄緑色の髪でうずくまる幼女の姿を見付けてホッとしたその瞬間、白銀の光が視界を覆った。
◇◇◇◇◇
「フィアード!」
ツグミは必死に叫びその壁を叩くが、結界はびくともしない。
何故自分がこの結界に閉じ込められたのかは分かっている。
もし名前を奪われて思考誘導されたとしても、この結界の中ならば手出し出来ないからだろう。
あの青年がヨタカに何かを囁いている。ヨタカの目付きが変わった。
「あかん! ヨタカ!」
ツグミの声は届かない。ヨタカは変身してアルス達の方向に飛び立ってしまった。見てみると、あのアルスがザイール相手に苦戦している。ヨタカはザイールに加勢してしまうのだろうか。
ツグミは結界の中でなす術なく状況を見守ることしか出来ない。
一瞬、青年に呼ばれた気がしたが、結界に阻まれてその能力は影響しないようだ。
ホッとしたのも束の間、青年はありったけの魔力を溜めはじめた。フィアードもそれに対抗すべく、魔力を高める。
「な……なんや?」
フィアードだけの魔力ではない。膨大な量の魔力がフィアードの身体を包み込んでいる。
戸惑うツグミの視界に、栗色の髪の女性が現れた。彼女も魔力を極限まで溜めている。
「一体……何するつもりなんや……?」
フィアードがティアナを吹き飛ばしたと思った瞬間、凄まじい衝撃がツグミを襲った。
「……っつう……」
完全に不意をつかれて結界ごと吹き飛ばされたツグミは、そのまま地面に叩きつけられて意識を手放した。




