第62話 架け橋
空色の目がぼんやりと辺りを見渡し、しばらく目の前の少年を見つめていた。徐々に覚醒の光を取り戻すにつれて、その目が大きく見開かれた。
「……え? ……なんで?」
「……呼んだだろ……」
なんとなく拗ねたような口調になる。ツグミの顔がみるみる赤くなった。モゾモゾと毛布の中に潜り込んでしまう。
「……聞いてたんか……」
「隣の部屋だからな……」
「うち……呼んでた?」
「ああ。ハッキリと……な」
言いたい事も聞きたい事も沢山あった筈なのに、何も出てこない。フィアードは隣の寝台に腰を下ろして大きく息を吐いた。頭の中の霧が少し晴れて、気持ちが落ち着いてきた。
「……ごめん。俺、何も知らなかったんだ。……アルスから聞いた……」
「……」
ツグミには反応が無い。フィアードはその事についてはこれ以上聞けないような気がした。
少し考えて、一番気になっている事を口にした。
「……ヨタカはさ……その……何で一緒にいるの?」
先ほどのやり取りで何となく察しはついたが、どうしても解せない事がある。ツグミが彼を頼っているのは仕方ないとして、何故、彼はそんなツグミを受け入れられるのか。
「……あいつはな……うちの事、別に好きちゃうで」
ツグミは毛布から少しだけ顔を出した。空色の目がチラリとフィアードを見る。
「……そう言ってた……。だから余計に分からないんだ……」
「……あいつはな、うちを通して別の奴を見てるんや……」
「……え……?」
思いも掛けない言葉にフィアードは目を見開いた。
「誰?」
「それは……うちの口からはよう言わんわ……」
「……そっか……」
「お互い様やねん。だから、居心地ええんや……」
そしてまた毛布に潜り込んでしまった。
「……ツグミは……その方がいい?」
拒絶された。そんな気がして声が震える。
「……うちがさっきまで何してたか知ってるんやろ?」
ズキリ、と胸が痛んだ。
「……無理やろ?」
「そんな事……ない……」
フィアードは立ち上がって毛布に手を掛けた。手が震えて動かない。
「……だから、無理やねんて……」
「そんな事ないっ!」
勢いよく毛布をめくった瞬間、ツグミの匂いと別の男の匂いが立ち上った。
「……あ……」
はだけた寝間着の間から象牙色の肌が見える。そこに刻まれた幾つもの赤い刻印……。
フィアードの目から涙がこぼれた。心が、彼女を拒絶している。
ツグミは身を起こして寝台に腰掛けると、フィアードを真っ直ぐ見据えた。
「な? 無理やろ?」
「……俺……最悪だ……」
グラリと身体が傾むいて、ドサリと寝台に座り込む。ツグミの人差し指がその鼻に突き付けられた。
「あのな、ティアナの言ってたフィアードと、あんたは別人や」
「でも……俺なんだろ?」
「違うやろ? もう一人のフィアードは、三十歳くらいでうちに会うたんや。それまでの人生もあんたとは違う。
目の前で両親を処刑されて、弟妹達を売り飛ばされ、ダルセルノにいいように遣われてたフィアードや」
「……」
「そんだけどん底味わったフィアードやったから、うちの事、受け入れられたんかも知れん……」
「ツグミ、でも俺は……」
続けようとする口をツグミの唇が塞いだ。フィアードは目を見開く。ツグミはゆっくりと唇を離してフフッと笑った。
「嫌な顔しとるな……」
「……」
フィアードが答えられないのを見て、ゆっくりとその身体を寝台に押し倒した。その胸に自分の顔を埋める。
「あのな……うちがあの時、どうしていなくなったか知っとる?」
「……だから、ティアナの為だろ?」
フィアードはなんとなくその空色の髪に触れる。
「ちゃうねん」
ツグミはフィアードの手を振り払い、身を起こした。フィアードも身を起こして二人は向き合った。
「うちな……目を開ける前に決めたんや。フィアードがこっち向いてたり起きてうちの事見てたら一緒になる。背中向けてたり居なかったら別れる……ってな」
「……え?」
フィアードが息を飲んだ。
「……そんなもんやて。誰かの為でもなくて、色々考えてそうしたんや」
ツグミははにかんで、呆然としているフィアードに軽く口付けした。
「……うちらはな、人間より長生きやろ? 五十年後もあんまり変わらへんねんで? ……その意味分かるやろ?」
「でも、それって……」
駆け落ちした未来においても言えることだ。それは理由にはならないんじゃないか。フィアードの目が泳ぐ。
「あのな、理由は色々あるねん。でも大抵の場合、最後のキッカケは……意外とどうでもいいようなことやねんで?」
「ツグミ……」
「この話はこれでおしまい! 明日からはちゃんとやっていこうな」
ツグミが微笑む。フィアードの指がそのふっくらとした唇をなぞった。
「……ツグミ……」
「……おしまいやて……」
ツグミが困ったようにフィアードの手を払おうと自分の手を伸ばす。
「明日から……だろ?」
その細い手首を捕らえたフィアードがゆっくりと立ち上がった。
◇◇◇◇◇
空が白み始めている中、黒髪の青年は露天風呂に浸かっていた。
特に何を考えるでもなく、立ち上がる湯けむりを眺めていると、ペタペタと誰かが近づいてくる音が聞こえてくる。
軽く身体を流し、湯舟に浸かったその人影は徐々に移動し始めた。
「おはよう」
ヨタカがその人影に声を掛けると、人影は驚いてこちらに近づいて来た。
「ヨタカ……。どこに行っとったん?」
「一応気を遣ってたんだが……?」
どうやら妻を心配させていたらしい、と考えて吹き出した。妻は今までの悩みが解決したようで、とてもスッキリした顔をしている。
「……ちゃんと話せたのか?」
「うん……。おおきに……」
その細い肩を抱き寄せようかと手を伸ばしたが、なんとなくやめておく。
「良かったな」
ヨタカの言葉に今度はツグミが吹き出した。
「どうしたん? らしくないで?」
「……俺らしいって何だ?」
「変な事聞くなぁ……どないしたん? うちの旦那様やろ?」
「……そうだったな。じゃあ、遠慮なく……」
ヨタカはツグミの肩を抱き寄せた。湯の中で二人の身体が密着する。
「ちょ……、朝っぱらからあかんて……」
二つの影が湯しぶきを上げていると、頭上から冷ややかな声が聞こえた。
「おい、朝からお盛んだな……」
赤毛の大男が立って二人を覗き込んでいた。
「お、アルス。おはよう」
ヨタカはそのままの体勢で言ったが、ツグミは真っ赤になってパシャパシャとその場を離れてそそくさと湯から上がってしまった。
「じゃ、うちはお先に~!」
ペタペタと走り去る少女の後ろ姿を見送り、アルスは不機嫌な顔で従兄に向き直った。
「お前ら、好き勝手やり過ぎだ。今日から難所だって分かってるのか?」
「俺は昨日あいつに譲ったんだぞ? 今朝くらい好きにさせて貰ってもいいだろうが」
悪びれない態度に呆れて溜め息が出る。
「……昨日はあの後どこに行ってたんだ?」
「……さてな……あいつはどうした?」
あいつ、というのが誰の事かは聞くまでもない。
「少し前にえらくスッキリした顔で、湯浴みまで済ませてから帰ってきたぞ。会わなかったのか?」
「……へえ……」
「なのに、お前とイチャイチャしてるツグミは何考えてるのか……俺には分からん……」
てっきりフィアードとヨリを戻したんだと思っていたのだが。首を傾げるアルスをヨタカは鼻で笑う。
「お前はいつも一筋だからな……」
「俺はお前と違って人のモノには手を出さない主義だからな」
ギロリとヨタカを睨みつける。アルスにも思う所があるらしい。
「なんだ、流石に気付いてたのか」
「当たり前だろ!」
悪戯を見つかったかのように笑うヨタカの頭を殴る。
二人がまだ思春期だった頃、アルスが気に入った女はことごとくヨタカに奪われ、捨てられ、結局アルスに泣きついて来ることが多かった。その時にはすっかり興味を失っていたのだが。
よくもまあ、二人の関係がこじれなかったものだ、と今更ながら不思議である。
「俺はちゃんとお前に相応しい相手か確認してただけだぞ。簡単に俺になびく女が悪い」
「ほざけ!」
そんな事が重なって、本気の恋人捜しを諦めざるを得なかったのだ。一夜限りの付き合いであれば、その後その女が誰と寝ようが気にならない。
「でも、お陰で結婚できたじゃないか。あれは俺には無理だからな……」
大切な嫁をあれ呼ばわりされて、アルスは流石にムッとするが、そう言えば二人は姉弟だった、と思い直す。
「……ま、色々問題が無いわけじゃ無いけどな……」
「だろうな」
こうして離れているのも不安である。守る者を持つという事がこれ程不安になるとは思いもしなかった。
そして、考えないようにしているが、やはりそれぞれの寿命の問題だ。
「……ツグミは結局、お前を選んだのか?」
「多分な。……寿命ばっかりはどうしようもないからな……」
「俺も……それが一番辛いんだよなぁ……」
朝日がアルスの赤毛を金色に染める。ヨタカは弱気になっている従弟の頭をコツンと叩いて立ち上がった。
「さっさと片付けて、家族の所へ帰るんだろ? 援護してやるから行こうぜ」
アルスは頼もしい従兄の言葉に頷いた。
「ああ。頼りにしてるぜ」
◇◇◇◇◇
一行は宿の食堂で朝食を摂っていた。昨夜の夕食時に比べると、格段に雰囲気がよく、ティアナもご機嫌である。
「ねぇ、今日も空飛ぶお馬さんに乗るの?」
ティアナがツグミに言うと、ツグミは少し困った顔になる。隣に座るヨタカが代わりに窓の外を指差した。
「空が暗いだろ? あそこは飛ぶと危ないんだ。だから、歩いて山を登ることになる。頑張れるか?」
「ええ~! やだぁ!」
「えっ? ……嫌か……? 子供って山登り好きじゃないのか?」
「ご本読んでる方がいい~!」
ティアナの我儘にヨタカの顔が引き攣る。子供の相手をするヨタカを見るのが珍しく、アルスはその様子を面白がっていた。
フィアードは何やら考え込んでいたが、ポツリと言った。
「いや、山は登らない」
「え?」
アルスは耳を疑った。まさか、この人数を転移するつもりなのだろうか。
「おい、いくらなんでも転移は危険だろ? またしばらく魔力が使えなくなるぞ?」
「いや、転移はしないけど……、ティアナの力を少し借りたら、多分大丈夫だと思うんだ……」
「それがお前の言ってた秘策か?」
「いや……まぁ無関係ではないけどな」
一行は食事を終え、荷物をまとめて山岳地帯を越える為の登山道入り口まで移動した。
急斜面に獣道のようなものがある。村人達の話では、この道をグラミィ達は馬で登ったらしい。
「……無茶するなぁ……」
アルスは呆然とする。確かに登れなくはないが、馬への負担も相当なものだ。治癒術師だからこそ出来る強引な技だろう。
フィアードはその道から少し外れた崖を丹念に調べている。この辺りは火山で一気に出来たらしく、ほぼ均一の地盤だ。
「……この辺りからならいけるかな……。ティアナ、こっちに来てくれ」
ティアナはフィアードの横にちょこんと立った。
「ちょっと疲れるけど、大丈夫だからな」
フィアードは魔力を高めて首元の水晶に触れた。フィアードの魔力に呼応するようにティアナの身体からも魔力が湧き上がり、水晶を介してフィアードに流れ込んでいく。
ツグミとヨタカはその様子を食い入るように見つめていた。あり得ない程の魔力量。それが一つの方向性を持って、崖に吸い込まれていく。
崖に小さな穴が空いたかと思うと、それがみるみる広がって、あっという間に大人が立って通れる大きさの洞穴を形作った。




