第57話 先駆者
アクセスありがとうございます。
お陰様で、昨日、アクセス数がPVで5000、ユニークで1500を突破しました!
これからも頑張りますので、よろしくお願いします。
フィアードが部屋に入ると、その部屋は血臭に満ちていた。寝台は赤く染まり、バウアーが大きな身体を縮こませて真っ青な顔でウロウロしている。
「あっ……フィアードか!」
バウアーがフィアードに気付いた。その声で寝台に張り付いていたリュージィが振り返る。強張っていた表情が少し緩んだ。
「来てくれたんだね! 良かった!」
リュージィは汗と血でドロドロになっていた。フィアードは何度か出産に立ち会ったが、これ程の惨状を見たことがなかった。
出産時の死亡率は高い。フィアードは沈鬱な表情でリュージィに近付いた。
「母体は?」
バウアーの妻、フラウは大きなお腹を抱えたまま、ぐったりと横たわっていた。
その枕元にグラミィの姿が見える。顔付きが厳しい。
「なんとかグラミィが保たせてる。でも、このままだと母子ともに……」
「頼む! 母体を優先してくれ! うちにはまだ母親が必要な子供達がいるんだ!」
リュージィの言葉を遮ったバウアーの要求は厳しい。出産時の出血は、母体を命の危険に晒す。このような状態で母体から胎児を取り出すことは出来ても、母体をも救った例はない。
グラミィはバウアーの要求に出来るだけ応えようと母体の枕元に跪き、必死で治癒を掛けている。出血によって失われた血液を水分で嵩増してなんとか保っている状態だ。
「意識は?」
フィアードが顔を覗き込むと、強い光を宿した青い目と目が合った。意識を失っていてもおかしくない状態にも関わらず、子供を守る為に気持ちを繋いでいるとしか思えない。フィアードはゴクリと息を飲んだ。
「フラウ……」
白い手が何処にそんな力があるのか不思議なほど力強くフィアードの腕を掴む。なんとしてでも子供を救ってくれ、そう訴えているのが分かる。
フィアードはフラウの傍らに跪き、足元にいるリュージィに声を掛けた。ヒバリが飛んで来てグラミィの横で補佐についた。
「押し出してもいいですか?」
魔力を溜めてラキスの時のように産道に胎児を押し出そうとすると、リュージィが真っ青になってフィアードの腕を掴んだ。
「駄目だ! 胞衣が産道を塞いでいるんだ! 出血が酷くなって母体が危険になる!」
「えっ?」
フィアードは目を見張った。本来、胎児に臍帯を通して栄養を送る為に胎内の奥にある特殊な臓器、胞衣。それが奥ではなく手前にあるが為に通常の分娩が出来ないのである。
「それじゃあ……どうやって……」
フィアードのこめかみに汗が流れる。リュージィが自分を呼んだ意味が分かった。果たしてそんな事が出来るのだろうか。
「フィアード、胎児だけ転移してくれ!」
やはり、とリュージィの申し出にフィアードは眉を潜めた。胎児だけを胎内から転移する……、病巣ではない。か弱い胎児を生きた状態で転移しなければならないのだ。
「無理……です! 転移の衝撃から胎児を護れる自信がありません!」
アルスを転移させただけでもかなりの消耗だった。狭い胎内から他の臓器を傷付けずに胎児だけ安全に転移するなど、彼の許容量を超えている。
「やってみてくれ!」
それしか方法が無いのだ、とリュージィが縋るような目を向ける。フィアードは首を振った。下手をするとどちらも命が無い。出来るならば、どちらも助かる見込みのある方法を選びたい。
「それじゃあ……リュージィ、切開しましょう! あの眠り薬はどこですか?」
先日、二人で同じような家畜の胎児を取り出したばかりだ。立ち上がってリュージィの鞄に手を伸ばしたフィアードの手を、リュージィが制止した。その手が震えている。
「まだ眠り薬は完成していない! 人間に適用できる量が分からない!」
一歩間違えると毒になる眠り薬だ。安易に投与することは出来ない。
だからと言って、意識がある内に切開したら、痛みで暴れられてしまい、手元が狂うのが目に見えている。
フィアードはリュージィが言わんとすることを理解して、鞄を手元に引き寄せた。
「じゃあ、俺が押さえています! 傷口は俺が塞ぎますから!
グラミィ、ヒバリ、フラウの血液をこれ以上流さないで下さい! 体温を下げて、痛みを和らげて!
バウアー! あんたもしっかりフラウを押さえて! リュージィの手元が狂わないように!」
フィアードがフラウの手足を押さえた時、アルスが駆け込んで来た。事務所から走って来たのだろう。息が大分あがっている。
「アルス! お前も手伝え! 今から切開して胎児を取り出す! フラウが動かないように押さえるんだ!」
アルスはいきなり呼ばれ、その惨状に立ち尽くした。そこは彼の知る産室とは全く違うものであり、まるで戦場のようだった。
「アルス! 早く!」
アルスは再び呼ばれてハッと我に返り、弾かれたようにフィアードに駆け寄った。言われるがままにフラウの手足を押さえこむ。
「リュージィ! 今の内に! 早く!」
これ以上悩んでいる暇はない。リュージィは蒼白になって頷くと、鞄からナイフを取り出した。フワリとその刃を清浄な光が包み込む。
「俺が消毒したから! さあ!」
フィアードに促され、リュージィは大きく膨らんだ妊婦の腹にナイフを走らせた。
◇◇◇◇◇
なんとか取り出した胎児は女の子であった。全身を覆う膜を取り去り、身体を拭いてやるが、ぐったりしたままだ。
「お願いだ……起きろ……!」
リュージィは必死でその背中をトントンと叩いている。
フィアードは胎児のことはリュージィに任せて水の精霊でフラウの胎内を清めて傷口を丁寧に塞いでいた。
「赤ちゃんは……?」
フラウの消え入りそうな声を聞いてドキリとする。リュージィは震える指でその小さな胸を触ってみた。微かな振動が指に伝わった。
「生きてる!」
リュージィは小さな命を抱き上げて迷わずにその小さな鼻と口を咥え込んで飲み込んでいる羊水を吸い出した。
吸い出した羊水を吐き出したリュージィの耳に、コンコン、と小さな咳が聞こえた。全員がその小さな命に注目する。
「ふ……ぇ……ぇ……」
弱々しいがその存在を主張する、立派な産声が、朱に塗れた産室に響き渡った。
「母子ともに……無事……!」
アルスは押さえていたフラウの手足を離し、呆然とつぶやいた。死んだ母体から胎児を取り出した話は聞いたことがある。リュージィもその経験はあると言っていた。
だが、母子ともに救った例はない。母親の痛みに耐え抜いた凄まじい精神力と、持てる力を振り絞って産声を上げた子供、そして魔術と醫術を組み合わせなければ不可能だっただろう。
弱々しいながらも母親を探して両手を伸ばす小さい手。リュージィは紫の双眸に涙を溢れさせながら、フラウの胸の上に生まれたばかりの娘を乗せてやる。
「女の子だよ……。おめでとう」
「……ありがとう……」
フラウは壮絶な痛みに絶叫し、何度も気絶しかけていたので、声が掠れている。胸はまだ激しく上下している。
グラミィがゆっくりと治癒を掛け、痛みと腫れを和らげると、その呼吸と鼓動が少しずつ落ち着いてきた。
「とにかく、綺麗にしないとね」
ヒバリがニッコリ笑って産室全体を洗浄する。魔力の大盤振る舞いだ。立ち会った全ての者が血と汗で汚れていたが、それも一瞬でスッキリとした。
「すみません、フラウ。俺がもっとしっかりしていれば、あんなに痛い思いをしなくて済んだのに……」
フィアードは傷口がちゃんと閉じているか確認しながらフラウに謝罪した。フラウは生まれたばかりの命をその胸に乗せたまま、首を振った。
「そんなことないよ……。あんたのお陰でこうして我が子を抱けるんだから。まぁ、後にも先にもあんなに痛い思いをすることはないだろうね」
思い出すだけでも恐ろしい。フラウは苦笑いした。フィアードもつられて苦笑する。
男達に押さえつけられた箇所が痣になっていたので、フィアードは一つ一つ丁寧に治癒を掛けていった。
親子水入らずの邪魔をしてはいけない、とフィアード達はテキパキと産室を片付けて荷物をまとめ始める。
ようやく落ち着いたフラウは慣れた手つきで生まれたばかりの我が子に授乳を始めた。
「ふふ……この感覚……懐かしいねぇ……。あんたは色んな人に助けられて生まれてきたんだよ。感謝を忘れない子になりますように……」
呟くように語りかけながら、その小さな頭を優しく包み込む。
「感謝……か。じゃあ、この子はグラーチェ……にしよう」
バウアーがフラウに歩み寄り、愛娘の顔を覗き込んだ。母乳を飲むのをやめて、小さな口をめいっぱい開けて欠伸をする。あれだけ大騒ぎして生まれてきたのが嘘のようだ。
「バウアー、おめでとう。夜も遅いし、そろそろ俺達は帰るぜ」
アルスが友人の肩を小突くと、バウアーはハッとして振り返った。
「あっ! そうか、もう夜中だな! 悪い! ちょっと待っててくれ!」
慌てて立ち上がり、バタバタと部屋を出て行ってしまった。
バウアーは助産師としての報酬だけではその感謝の気持ちが伝わらない、と家にある野菜や果物をかき集めて押し付けて来た。
断るのも野暮なので、リュージィはそれを全てアルスに持たせてバウアーの家を後にした。
月が夜空に真円を描いていた。
「フィアード……悪かったね」
いきなりリュージィから謝られ、フィアードは面食らった。謝るのはこちらの方だというのに。
「お前さんがいると、つい甘えちまう。……今までなら絶対に母体を助けようなんて思わなかったさ。でも、お前さんなら……って思っちまうんだよ」
「いえ……俺がすぐに転移させれば良かったんです……。すみませんでした」
魔力に当てられてしまうのが怖かった。せっかくここまで調子が戻ったのに、また一からやり直しになるかも知れない、と二の足を踏んでしまった。
「いや、本当なら眠り薬を試すべきだったんだよ。それなら一人で切開して縫合出来たんだ」
リュージィは星を見上げた。そこに何を見ているのか、フィアードには分からない。
「でも、助かったじゃないですか」
「そうなんだ。助かったんだよ……。いや、助けられるようになったんだ」
リュージィはフィアードに向き直った。
「お前さんには感謝してるよ。ティアナにはもっと感謝だよ」
「……ど、どうしたんですか?」
あまり素直なリュージィは不気味だ。フィアードは狼狽えた。
「ティアナが私を若返らせてくれたから、諦めていた研究の続きが出来たんだ。眠り薬も人間に使う一歩手前まで来たんだよ。
フラウはお前さん達が助けたんだ。婆の私じゃ、母体どころか胎児も助けられなかったよ」
言われてみれば確かにそうだ。連れ込み宿の番頭をしていた老婆がこれだけ優秀な醫師になるなど、誰が想像したであろう。ティアナはそれも見越して、彼女を若返らせたのかも知れない。
「まぁ、何はともあれ、助かって良かったじゃねぇか。グラミィとフィアードのお陰で、フラウもすぐに回復しそうだしな」
アルスは袋から林檎を取り出してリュージィに投げ渡した。
「おっ! 危ないだろ!」
咄嗟に受け取る事が出来てホッとしたリュージィの顔を見て、アルスがケラケラと笑う。
「昼から何も食ってないだろ? それでも食いながら帰ろうぜ」
ヒョイヒョイと三人にも林檎を投げ渡し、自分の分を取り出した。月明かりの下で高々と林檎を掲げる。
「新しい命の誕生に……乾杯!」
「……いや、これ林檎だし」
フィアードは吹き出した。
要するに、前置胎盤による出血で緊急帝王切開の麻酔無し……です。地獄だ!




