第52話 隠された名
風が弱まったのを確認して、ゆっくりと目を開けてみると、男達の姿は消えていた。フィアードは痛みに顔を顰めながらも恐る恐るティアナに触れた。
その小さな肩が震えている。
「……ティアナ……大丈夫か?」
戦いの興奮が冷めると顔の左半分が焼けるように痛い。それ程傷は深くないが、出血が酷い。首から下が血で染まっているのが分かる。
ティアナは血で汚れる事も気に止めずにフィアードの頬に手を当ててシクシクと泣き始めた。
「ごめんね、お兄ちゃん。痛かったよね」
スッと痛みが引いて、傷も塞がっていくのが分かる。フィアードの傷が治ったのを確認して、ティアナはうずくまっているヨシキリの肩にすがりついた。
「ごめんね、おじちゃん……守ってくれたのに……」
ポロポロと涙がこぼれる。
フワリと柔らかい光がヨシキリを包み、落ちていた腕が吸い寄せられるように元の位置に戻った。
傷口がみるみる繋がって消えてゆき、腕は何事もなかったかのようにその機能を取り戻した。
ヨシキリはティアナの能力を始めて目の当たりにし、思い通りに動く指先を見て呆然としている。グラミィは治癒したヨシキリの腕に手を添えて、言葉を飲み込んだ。
自分の為に人が傷付けられるのを始めて目にしたのだ。彼女に掛ける言葉が見つからない。
「ごめんね、ごめんね……」
ティアナが泣きながら謝る姿があまりにも痛々しくて、フィアードはその小さな身体を優しく抱き締めた。
「ティアナは悪くない」
ティアナは首をブンブンと振る。自分を守ろうとして盾となった者達が傷を負ったのである。責任を感じない訳がない。
「でも、怪我したでしょ? お兄ちゃんも、おじちゃんも……! 痛かったでしょ? 血もいっぱい出たよ!」
ティアナの目が悲しみに彩られている。フィアードは背中を優しくさすりながら、ゆっくりと言い聞かせるように言った。
「怪我させたのはあいつらだ。あいつらが悪い。ティアナは治してくれただろ? ありがとう」
薄緑色の髪を優しく撫でる。ティアナはしゃっくりを上げながらフィアードの胸に顔を埋めた。
「結局、またティアナに助けられたってことか……」
空間に溶けていった不可視の繭から出て、アルスは周囲に警戒しながら全員の無事を確認する。ヒバリは物見櫓から周囲を見渡した。
「……ここから見える範囲にはいないわ」
何が起こったのか分からないが、ティアナがあの男達を退けたらしい。しかし、彼等がそう簡単に諦めるとは思えない。ヒバリは飛翔するとアルスの隣に着地した。
ティアナを抱き締めているフィアードは顔面蒼白だ。傷による出血もさることながら、先ほど無理に魔術を使ったからであろう。ヒバリはフィアードの額に手を置いて、治癒を施す。
血に汚れた肌や衣類が清められ、フィアードの顔色が少し良くなった。
「……どこか、安全な場所に移動した方がいいわね……」
もうこの水車小屋からは離れた方がいいかも知れない。二度も襲撃されているのだ。ヒバリは皓の村に連絡を取ろうと鳥を呼び寄せた。
「……待ってくれ」
フィアードの掠れた声がヒバリを止めた。
「多分、この村にいるのが一番安全だ。ティアナを守るためにこの村があいつらを閉め出した。あいつらはもう入って来れない筈だ」
彼女の叫びに呼応した土地は圧倒的な魔力を以って彼女を守ったのだ。名付けによる支配がこんな所で役立つとは思いもしなかった。下手な結界よりも効果的だ。
腕の中のティアナは極度の緊張と治癒による疲労から眠ってしまった。フィアードは頭痛に顔を顰めながらゆっくりとティアナを抱き上げようとするが、足もとが覚束ない。代わりにアルスがティアナを抱き上げた。
「……それならいいが。それよりフィアード、あの男……見たことある気がするんだよな……」
「先代……、神族の歴史上、最強と言われてた欠片持ちだ。俺がいつも読んでる本の著者だ。俺が生まれる前に死んだ筈だ。名前は……何だったか……?」
酷い頭痛だ。考えようとしても頭が働かない。
「親父のことも叔父貴のことも知ってたな……やりにくいぜ。……そう言えば俺が餓鬼の頃欠片持ちがよく来てたな……あいつか!」
アルスは思い出して舌打ちした。
「私も噂は聞いたことあるわ。世界中を飛び回る欠片持ちがいるって。ねえ、おとうさん」
ヒバリはヨシキリに確認する。
「そうや……確か……名前は……あれ?」
ヨシキリは首を傾げた。あれだけ話題になった人物だ。相当有名だった筈なのに名前が思い出せない。
「……やっぱり、名前が思い出せないのは俺だけじゃないのか……」
フィアードは頭痛のせいで思い出せないのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
フィアードが考え込もうとした時、赤ん坊の泣き声が聞こえた。その懐かしい感覚に顔を上げると、ヒバリがフィアードの顔を覗き込んでいた。
「……とにかく、中に入りましょう。貴方の具合も心配だし、ラキスがお腹を空かせているわ」
◇◇◇◇◇
水車小屋に入ると、作業員達がアルスに説明を求めて来た。どうやら水車が止まった原因をアルスが調べに行ったのだと思っているようだ。
アルスが適当に誤魔化しながら話し出した。話が長くなりそうだと判断したヒバリはフィアードを促して先に地下室に向かうことにする。ヨシキリがアルスの代わりに眠ったティアナを寝台に運ぶ。
「フィアード、貴方も寝た方がいいわ」
グラミィが泣いているラキスをあやしながらフィアードに言った。
「……まだ気になることがあるので……」
酷い頭痛と戦いながら、フィアードは与えられた情報を整理している。ヒバリはラキスをグラミィから受け取りながら溜め息をついた。
「しばらくは魔術を使わない方がいいと思うわよ」
フィアードは素直に頷いて、ふと疑問を感じて顔を上げた。ヒバリが授乳していたので慌てて目を逸らす。
「あ、ごめん」
フィアードの頬が赤く染まる。
「いいのよ。何?」
ヒバリはそのフィアードの反応に吹き出した。
「いや、どうして魔力の拒否反応とかって分かったのかと思って……。魔人にはそんなこと起こらないだろ?」
フィアードは顔を背けたまま、チラチラとヒバリを見る。母親として息子を抱くヒバリが新鮮で、どう接していいのかよく分からない。
「ああ、それね」
ヒバリはクスリと笑った。
「お父さんから聞いたのよ。ヨタカもよく子供の頃倒れてたって」
「……ああ……そういうことか……」
フィアードは納得した。半分人間のヨタカにとって、魔人と同じように魔術を使うのは大変な事だっただろう。
「むしろ気になるんはあの男のことやけどな……」
ティアナを寝かせたヨシキリが戻ってくる。グラミィは食べ損なった夕食を温めて机に並べた。
「……あの人は人間としては考えられないくらい長く生きた欠片持ちなんです。多分漆黒の能力を使ってたんだと思います。
魔力も高くて、欠片持ちの能力について色々な研究をして本を残してくれた、神族にとっては本当に素晴らしい人なんです……」
フィアードの声音は低い。そんな人物と敵対することになるとは……。初めからティアナに記憶が無ければ、迷わずに彼の考えに同調していただろう。
「それは大体知っとる。魔人並みに長生きの欠片持ち。……でもな、それより……」
ヨシキリは珍しく厳しい顔をしている。腕を斬り落とされたのだから無理もない。
「分かってます。名前……ですよね?」
フィアードは吐息をついた。覚えていた筈の名前が思い出せないのは由々しきことだ。敵の術に嵌まっている可能性が高い。
「そうや」
「……これは俺の推測なんですが……、それでもいいですか?」
「かまへん」
この場にいる誰もがフィアードの分析能力を高く評価している。
「俺達が、敵対してる相手の前でティアナの名前を呼ばない理由は分かります?」
「……名前を知られると不都合があるのよね?」
確かに相手の名前を知っていると、回復量が多かったり、追尾型の攻撃などでは便利なことがある。精霊も対象を特定しやすいのだろう。
それ以上の不都合はあまり分からないが、神族には何かあるのかも知れない、とヒバリは授乳を終えて話を聞く姿勢を整えた。
「あいつは『隠匿』って言いました。気になったので、試しにあの場で名前を呼ぼうとしてみましたが、ティアナの名前が出てこなかったんです」
「……え?」
意識的に名を呼んでいないつもりだった。まさかそんな仕掛けが施されていたとは……ヒバリは息を飲んだ。
「つまり、ティアナ本人が名乗らない限り、敵には名前を知られることがないということです。多分、ティアナの意思で隠されているんでしょう。そして、あいつもそうすると言った……。
ここからは俺の仮説ですが、思考誘導や精神支配などの漆黒の能力は、相手の名前を知っていないと使えないのかも知れません」
「そう考えると、ティアナの名前を変えた理由も説明できるわ」
グラミィが頷く。彼らは執拗にダイナと呼んでいた。なんとしても支配したかったのかも知れない。
「ええ。それで、あいつは俺達の記憶から自分の名前を消して、ティアナからの干渉を避けようとしてるんじゃないかと思うんです」
つまり、名前を知っていた筈のフィアードとヨシキリは記憶に干渉を受けたということ。あの男はわざわざこちらの名前を呼んできた。それにはそんな意味もあったのか……とヨシキリは舌打ちした。
「記憶以外に干渉されてへんやろうな……」
「……それは分かりませんね……。俺も危なかったと思いますし……」
とにかく自覚が無いのが恐ろしい。ティアナが治癒と同時に解除してくれていることを願うばかりだ。
「それにしても、薄緑と漆黒両方の欠片持ちなんて……、殆ど化身じゃないの……」
「アルスと、ダルセルノが誰かを蘇生したんじゃないかって話はしてたんだ。でも、まさかあの人だなんて……」
薄緑の魔術は殆ど彼の本で勉強したのだ。はっきり言って師匠のような存在のあの男に太刀打ちできるとは思えない。
重苦しい空気の中で冷め切った食事に手を付けた時、アルスが作業員達への説明を終えて帰ってきた。
「お、俺抜きで作戦会議かよ」
少し拗ねた様子で食卓につく。グラミィがアルスの分の食事を用意する為に席を立った時、彼の口から衝撃の発言が飛び出した。
「でもよ、あのデュカスって奴は本当にヤバいな……、うん? どうした?」
全員の視線がアルスに集中する。
「そうだ……デュカスだ……!」
フィアードの口からポロリと名前がこぼれ出る。何故、名前が思い出せなかったのか不自然なほどに普通に。
「……え? でも何で?」
ヒバリはその空色の目を大きく開いて夫を信じられないものを見るような目で見つめる。
それまでそこにいた全員が思い出したくても思い出せなかった名前をあっさりとアルスが口にしたのだ。
フィアードは穴が空きそうなくらいアルスを見つめていたが、それまで話していた四人とアルスの大きな違いに気付いて溜め息をついた。
「そうか……漆黒の能力は、相手の魔力に作用してたのか……」
彼らの誤算……魔力皆無のアルスにとって、漆黒による記憶操作は無効であった。そしてアルスは子供の頃、父親とよく喧嘩していた欠片持ちのことを思い出したのであった。




