第148話 最終決戦・後編
残酷な描写があります。
怒りで目の前が真っ赤に染まっている。
何のために、あのサーシャが自ら毒を口にしたのか。この目の前の男を葬り去る為だった筈だ。
なのに……この男はそれを「無かった事に」してしまった。だが、それでもサーシャは蘇らない。歪んだ形での復元で、サーシャのものであった白銀の左目はこの男の眼窩に収まってしまったのだ。
男は自分に馴染んだ色彩に満足してほくそ笑んでいる。その姿に、ティアナの理性の糸がプツリと切れた。
「許さない……っ!」
感情が高ぶり、身体の中から凄まじい力が溢れ、その力の反動で今まで無意識で力を押さえつけていた枷が吹き飛ぶのを感じた。
ーーあ……っ!
身体に蓄えた力を全て放ったと思った筈なのに、次から次へと力が湧き上がり際限なく怒りの矛先である男に襲いかかる。
それまで知らなかった神の力の……化身の本質。
彼女はあくまでも「神の化身」であり神そのものではない。神の力は世界を創り出し、滅ぼす事ができる無尽蔵の強大な力だ。「化身」はその力を汲み出して使うが、ティアナは人間の良識の範囲内でしか行使するつもりは無かった。
だが、完全に枷が外れ、方向性だけが定められた今、無尽の力がティアナの身体を素通りしてそのまま目の前の男に際限なく襲いかかっている。
借り物とはいえ、色彩を揃えた男は必死に抵抗している。普通であればとうの昔に消え去っている筈の男は恐怖に震えながらも同じように力を無尽の泉から汲み出しながら抵抗していた。
だが、やはり男の色彩は所詮借り物。徐々に無理が生じ始め、男の左目が本来の色を取り戻し始めたのである。
力の拮抗が崩れ、デュルケスの顔が恐怖に強張った瞬間、ティアナは危険を察知した。
ーーダメだわ……っ!
このままでは行き場を失った力は溢れ出し、世界そのものを消してしまう。誰よりもこの世界を守らねばならない自分が、滅びの引き金を引いてしまった事に動揺した。必死に枷を掛け直そうとするが、勢いよく流れ続ける魔力を止める事が出来ない。
身体は硬直し、指先一つ動かせずにただひたすら魔力の媒体として神の力を放出し続ける自分を消してしまいたい。
どうしよう……! このままでは、全てを壊してしまう……!
そう思った瞬間、いきなり視界が反転した。
自分達を乗せていたドラゴンに振り落とされたのだ。身体の硬直が取れた事に気付いたティアナは咄嗟に持っていた細剣の柄で思い切り自分の鳩尾を突いた。
「……カッ……ハァッ!」
激しい痛みと嘔吐感とともに呼吸が止まる。力の暴走を止める為に、自分の意識を刈り取る事しか思い付かなかった。
ーーサーシャ……ごめんなさい……!
ティアナの身体は空中に投げ出され、空に燦然と輝く満月に照らされながら、大きく開かれたドラゴンの口に目掛けて落ちて行った。
◇◇◇◇◇
「ティアナ……!」
抱きとめたティアナは意識を失っていた。力の暴走を止める為に自ら意識を刈り取ったのだとすぐに気付き、フィアードはティアナが握っている細剣を鞘に収めた。
「ぐわぁぁーーー!!!」
凄まじい叫び声にハッとして見下ろすと、ドラゴンの大きな口が閉じられ、鮮血が吹き上がった瞬間だった。
「……なっ……!」
歯の隙間から腕が見え、全てを悟った直後に込み上げてくる嘔吐感を必死で押さえ込む。あの男の最期に相応しい死に方だとは思うが、だからと言って平然とそれを見届けられるほど強靭な神経ではない。
ドラゴンは二又に別れたどす黒い大きな舌でベロリと口周りに跳ねた血を肉片ごとを舐め取った。
「……うっ……」
喉がゴポリと嫌な音を立てるが、すんでのところでそれを堪えて目を逸らした。
クチャクチャと敵であった男の肉を咀嚼する音が聞こえる。
『ふん……。大して美味くもないな……』
嚥下するように大木のような太い喉が上下した直後、その巨大な目が自分を捉えている事に気付いた。
「……っ!」
その視線でドラゴンが自分を敵とみなしているのが分かり、ゾクリ、と背筋が震える。気絶したティアナを抱えて、この巨大な敵から逃げおおせる事が出来るのだろうか。
「……もう……いいだろう?」
ティアナは気絶し、デュルケスは死んだ。これ以上戦う意味はない筈だ。フィアードが言外に問うと、ドラゴンは面白くなさそうに吐き捨てた。
『いや。暴れ足りん』
「……何だと……?」
『戦いたいと言っておろうが。われの体の上で好き勝手に暴れ、自滅した馬鹿な化身どもなどどうでもよいわ!』
チッと舌打ちしてフィアードはティアナの顔を覗き込んだ。
力の暴走で相当疲弊したのだろう。汗をびっしょりかき、青ざめた唇は固く閉ざされている。これでは当分目覚める事はないだろう。
フィアードはティアナを空中で抱き上げ、ドラゴンの方を向き直って戦慄した。
ドラゴンがその大きな口をカパアと開け、魔力を収束させていたのだ。
「なっ……!」
『耐え切ったら見逃してやろう。我が他の幻獣どもに言って聞かせてやる。人間には手を出すな、とな』
くくく……と笑うような声が聞こえ、フィアードは舌打ちした。せめてティアナを無事に帝都のアルスの元に送り届けたかったのだが、その隙を与えてくれるとは思えない。
巨大な口の奥に凄まじい魔力が蓄えられていくのを感じ、フィアードも必死で余った魔力をかき集める。
『いくぞ……人間!』
「……っくしょう!」
大きく開かれたドラゴンの口から吐き出されたのは凄まじい冷気。
月光を浴びてキラキラと輝くその吐息をなんとかかわし、上空から一気に舞い降りてドラゴンの真下から無数の石の槍を突き上げた。
槍は硬い鱗に阻まれ、粉々に砕け散ってパラパラと落ちて行く。無駄と分かっていた攻撃だったが、あまりにもお粗末だ。
『ふん……痒いな……』
身を翻してフィアード達の上から吐息を吹き下ろす。
ゴォォ……、と音がして、平原が一瞬にして凍り付き、真っ白な氷の大地が広がっていく。
僅かに吐息が掠った肩は凍り付き、腕が動かない。フィアードはすぐに凍結を溶かして治癒を施し、ドラゴンを見上げた。
「……くっそ……」
ドラゴンはバサリと比翼を羽ばたかせてゆっくりと高度を下げ、フィアードの目の前で静止した。
『逃げてばかりではなく、正面からぶつかって来い。我は氷の吐息を吐く。貴様はあの白炎でも放ってみることだな』
わざわざ真正面にきて口を開けるドラゴンを睨み付け、フィアードは呟くように言った。
「……耐えきれば……いいんだな……」
声が掠れている。これだけ体格差があるのだ。はっきり言って部が悪すぎる。逃げて逃げて、相手が消耗するのを待ちたかったが、そうはさせてくれないらしい。
『そうだ。分かりやすい勝負だろう?』
分かりやすいが、負ければ死ぬのは確実だ。フィアードは片手を開けるためにティアナを肩に担ぎ上げた。こんな扱いをしている事をアルスに知られたら殴られるだろうな、と思いながら、右手に魔力を集中させる。
「……分かった……来いっ!」
とにかくティアナを守りぬかなければ。彼女の両親に約束したのだから。
キッと目の前の巨大な敵をそのハシバミ色の目で睨み付けると、ドラゴンは嬉しそうに喉を鳴らした。
『クァハハハ! いい目だ!』
ドラゴンは大きく息を吸い、そして一気に吐息を吐き出す。
フィアードは右手に巨大な白炎を作り出し、それをドラゴンの吐息に向けて放った。
ドォーン……という反動と耳をつんざくような爆音。そして爆風。
全身が凍りつくかと思ったら今度は焼き切れるほどの灼熱を感じ、そして身が引きちぎれるかと思うような衝撃と共に一瞬意識が飛んだ。
次の瞬間、フィアードは空高く宙を舞っていた。
「……ティアナ!」
担いでいたはずの彼女がいない。
慌てて首を巡らせると少し離れた所で人形のように力なく宙を舞っている少女の姿があった。
「ティアナーー!!!」
必死で手を伸ばし、なんとか服の端を掴んで手繰り寄せる。
爆風の煽りで上昇しながら、全く自由の効かない状態でなんとかティアナの身体を抱き寄せ、ホッと息をつく。
そして気付いた。
空中で全く身動きが取れないという事実。空間を司る薄緑の欠片持ちである自分が……動けない。
魔力が……枯渇している。
この上空から二人で安全に着地するために風の精霊を使役するだけの微々たる魔力も残っていない。
爆風に煽られ、緩やかに上昇を続ける中、フィアードは真っ青になってゴクリと息を飲んだ。
辺りを見渡すと、吹き飛ばされたドラゴンが重力に逆らえずに落下していく。その傷だらけの比翼はピクピク痙攣しているが、羽ばたく気配はない。
ティアナの瞼は閉ざされたままだ。
ギュッとティアナの身体を抱き締め、眼下に広がる氷の大地を見る。元は柔らかだった筈の藪ですら凍り付き、まるでその葉先が刃物のようにこちらを向いている。
このまま落下したら間違いなく終わりである。
ーーここまで来て……、何てことだ……!
せめて僅かでも魔力を残していれば……そう思うが、あの段階でその余裕など無かった。魔石も持ち合わせていない。
ーーせめて……ティアナだけでも……無事に……!
少女の身体を抱きすくめると、トクトク、と規則正しい鼓動を感じる。フワリと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
ーー畜生……!
落下を始める身体がどんどんと地面に吸い込まれるように加速していき、息苦しさも増していく。
ーーティアナ……!
抱きすくめたその薄緑色の髪に口付けし、ギュッと目を瞑る。
彼女と共に過ごしてきた永遠とも思えるような時間が、まるで走馬灯のようにフィアードの脳裏を駆け巡る。
切ない眼差しを向けながら、必死で頂点に立ち続けるかつての女帝の姿。
幼いながらに求婚して頰を染める愛らしい姿。
妙に大人びた目でこちらを見上げる赤ん坊の姿。
記憶を失いあどけない顔で全てを委ねている幼い姿。
鍛え上げた身体に裏打ちされた自信に満ち、雄々しく戦う姿。
驕り高ぶらず、人の上に立とうと努力するひたむきな姿。
ようやく二人で並び、歩んで行けると、そう思っていたというのに……!
ズゥゥ……ン、とドラゴンが地面に叩きつけられる音が響き、空間全体が大きく揺れた。
氷が砕けて舞い上がり、その反動で落下の速度が緩んだが、二人はまたすぐに地面に吸い寄せられていく。
風を切る音が徐々に大きくなり、落下速度が上がってくる。
地面が迫ってくるのを感じる。
ああ……もう……終わりだ……。
生命の終わりと全てへの別れを観念した刹那、唐突に沸き起こった優しい風がふわりと身体を包み込むのを感じた。
「……え……?」
ふわりふわりとまるで羽のように宙を漂い、氷の大地に音もなく降り立つ。
「……っ!」
覚えのある感覚に、フィアードは弾けるように空を見上げた。
パタタタタ……。
凍った木の枝に止まっていた一羽の鳥がひらりと舞い上がり、軽やかな羽音を残して夜空に消えて行く。
「……ツ……」
フィアードは唇にその名を乗せようとして……そっと噤んだ。




