第146話 最終決戦・前編
ーー斬られるっ!
夫の愛剣が自分を傷付けるなんて……! ヒバリはその衝撃に目を瞑り、身を縮こませてしまった。
こんな形で命を散らすつもりはないが、白兵戦に不慣れな身体は白刃を前に完全に萎縮してしまった。
ーーあら……?
しかし、いつまでたっても刃が自分を傷付けることはなく、ヒバリは恐る恐る目を開けた。
目の前には分厚い氷が壁のようにそびえ立ち、その真ん中に深々とアルスの剣が突き刺さっていた。
「……え?」
咄嗟に身を守ろうと魔術を使った覚えはない。精霊が勝手に暴走してこのような事をするとは考えられない。
「ぐっ……!」
氷に剣を奪われ、巨人は悔しそうに柄から手を離した。
「……それはアルスさんの剣ですからね。汚れた手で触らないで下さい」
ザリ、と降り積もった灰を踏みながらこちらに誰かが歩いてくる音が聞こえる。ヒバリはその声を聞いて、身体が震えた。懐かしい声ーーに限りなく似ているその声に身体の奥から熱いものがこみ上げてくる。
「……お母さん、大丈夫ですか? 焔の巨人を一人で相手取るなんて、勇ましすぎますよ」
クスクスと笑いながら並び立ったのは、自分に生き写しの息子。かの人と自分のーー想いの結晶。
「……モトロ……ありがとう。助かったわ」
「礼をするには早いですよ。その化け物を倒してから、ゆっくり祝杯を上げましょう」
ヒバリに瓜二つの少女めいた顔にすっかり誤魔化されていた。ヒラヒラとした上着から覗く体躯は彼女の夫ほどではないが、充分に男らしいものだ。細いと思っていたが、しっかりとした肩幅に均整の取れた筋肉。
そのしなやかでありながら逞しい姿にヒバリの口元が自然に緩んだ。スッと身構えるモトロはこの八年間で場数を踏んで、ヒバリの知る皓の魔人の中でも最強の戦士と言える程になっていた。
「そうね。ティアナの為にも、拠点を壊す訳にいかないものね」
「そういう事です」
「私が陽動するわ。貴方は確実に仕留めて」
「了解しました」
ヒバリが言うと、モトロはコクリと頷いた。風魔術を扱えるヒバリは機動力に優れている。それが最善の策だろう。
そして……二人の連携には言葉などいらない。打ち合わせなどせずとも呼吸もピタリと揃う。
「行くわよっ!」
ヒバリは身体を舞い上がらせ、上空から風刃を放った。
◇◇◇◇◇
宮殿には暴徒が押し寄せていた。手に思い思いの武器を持ち、ただひたすらに破壊活動を行おうとするその顔は虚ろで、意思が感じられない。
「……ったく、どういうことだ!」
「何者かに操られてると思われます!」
アルスとレイモンドは暴徒達を次々と戦闘不能にして、宮殿の扉という扉を閉じて回っていた。
「恐らく、デュルケスと接触したことがある者達でしょう。漆黒の欠片持ちは夢で人心を操る事が出来るそうですから……っ!」
襲いかかる暴徒を誘い込んで次々に沈めながら、アルスに状況を説明する。
「……くそっ、とんでもねぇな……!」
アルスは暴徒達の武器を掴んで放り投げ、そのまま力任せに扉を閉めて閂を掛けていた。
「それからお前っ! いい加減にその口調を何とかしろ」
「……長年の習い性です。気にしないでください」
「なんか……ムカつくな。慇懃無礼ってやつか……」
レイモンドは肩を竦めた。アルスは実際に尊敬に値する存在だと思っている。むしろ彼に対して堂々と対等に振舞っている兄に敬意を表したい程だと言うのに。
「暗示が解けるまでは油断できません。宮殿内にいる者が寝首を掻きに来るかも知れませんしね……」
「面倒だな。ティアナの奴、なにチンタラしてるんだ。あのクソ野郎をとっとと片付けちまえ……!」
本当の悪党ではなく、操られている敵というのは実に厄介だ。本人の意思とは無関係に攻撃してくる上、場合によっては死ぬまで攻撃を続ける。
「本当ですよね……」
アルスとレイモンドだけは言霊の制約を受けない。例え名を知られていても操られる事はないが、他の全ての住民が操られる可能性を秘めているのだ。下手をすれば孤軍奮闘を強いられる。
とりあえずは宮殿を破壊しようとする暴徒を押さえつけ、何とか帝都内を落ち着かせなければ。
「外の方はヒバリとモトロで何とかなりそうだけどな……」
「お子さん達は大丈夫ですか? ティアナの一番の懸念事項です」
「ああ。あいつらはそう簡単にはやられないさ。剣術も魔術もある。身の回りの世話を誰かに任せてる訳でもないからな。むしろ、暴徒を叩きのめす側に回ってそうだが……」
アルスとレイモンドは締め切った宮殿内でも喧騒を聞き付けると駆け付け、明らかに操られている輩を次々に捕縛する。
「問題は、こいつらをどうするかだな。ティアナが戻るまで寝かしておくしかないか……」
「ああ……そう言えばそうですね。まとめて魔法で昏倒させておきましょう」
レイモンドは物騒な事を言いながら、縛り上げた暴徒達を次々と眠らせていった。
◇◇◇◇◇
まるで巨大な雲がそのまま落ちてきたかのようだ。
ドラゴンが比翼を羽ばたかせると、グワリと空気が塊で持って行かれていまう。
フィアードはサーシャが眠る寝台と自分を地面に縫い止め、その場に必死に留まったが、ティアナとデュルケスがまるで吸い寄せられるかのように舞い上がっていくのを止める事が出来なかった。
「ティアナ!」
手を伸ばした時にはティアナは空中で体勢を立て直し、ドラゴンの背中に立っていた。そしてその真向かいにデュルケスがうずくまっている。
「……ッチ!」
フィアードは大地を蹴り、二人の元に飛翔しようとした瞬間、全身が総毛立つような悪寒を覚えてサッと身を翻した。
ドラゴンの巨大な爪が空を切り、その勢いでフィアードの服の一部が千切れ飛んだのだ。
「……なっ!」
『邪魔立てするでない。お主の相手はわしがしてやろう……!』
ギラリと自分の背丈ぐらいの目で睨み付けられ、フィアードは全身から冷や汗を吹き出した。こんな……指先一つで人間を肉塊に変えてしまえるようなドラゴンとどうやって戦えと言うのか……!
『クワハハハ! せっかくこうして自由を手に入れたのだ! 楽しませてもらうぞ!』
バサリ、と比翼を羽ばたかせて上昇するドラゴンをただ見つめていると、空高く舞いがってすぐにそのまま急降下してきた。
「マジかっ!」
あれだけの巨体で急降下だ。背中に乗っているティアナがどうなったのか心配でならず、フィアードは目を凝らしてホッと吐息をついた。
『化身の小娘が心配か。なかなか麗しい関係だな』
ドラゴンがクックッと笑う気配がする。フィアードはギリリと奥歯を噛み締めた。この巨体を何とかしてティアナに加勢する算段を取らなければならないのだ。
「幻獣の王ともあろう貴様が……何故、あの男に肩入れする」
下手な探り合いは逆効果だ。素直に疑問を口にすると、ドラゴンの目が少し優しげになった。
『奴は我らを開放してくれた恩人ぞ。神は我らを封印した敵。化身には罪はないが、我らがどちらに肩入れするかは明白なことだ』
成る程。フィアードは目を細め、一旦ドラゴンから距離を取る。声での会話ではないから、離れてもとくに問題はなさそうだ。
「決着が着くまでは黙っている筈だっただろう?」
『状況が変わったからな。まさかこやつが揃えるとは思わんかった。愉快な事を考える』
「っ! ふざけるなっ!」
『そうそう……その意気じゃ。せっかく開放されたのだ。思い切り戦いたいと思うのも当然だろう? お前なら相手に取って不足はない……』
有難くない褒め言葉にフィアードは舌打ちした。どうやら、どうあっても邪魔立てするつもりらしい。
「冗談じゃないぞっ!」
『問答無用!』
ドラゴンの腕が振り切られ、その爪の先が脇腹を掠めた。
「……っぐぅ!」
掠っただけだというのに、身に付けていた青銅の鎧は砕け、朱が散った。
「っくしょうっ!」
ジクジクと痛む傷口に手を当てると、パックリと皮膚が裂けている。即座に治癒と空間魔術を併用して傷口を閉じ、その様を観察しているドラゴンの巨大な目に向かって白炎を放つ。
『おおっ!』
突然の灼熱に流石のドラゴンも身を翻して顔を腕で覆う。白炎は分厚い鱗に覆われた腕に遮られ、ヂリヂリと音を立てて消えた。
「……なっ!」
金属をも溶かす白炎が通用しない。フィアードはドラゴンの全身を覆う鱗の強さに圧倒され、ゴクリと息を飲んだ。
◇◇◇◇◇
足場にしたドラゴンが飛び回るから、踏ん張りがきかない。
ティアナは剣を構え、目の前の敵と対峙する。
デュルケスはもう虫の息だ。毒は完全に全身に回っている。
「いい加減に諦めたらどうなの?」
「冗談じゃない。せっかくここまできたんだから……」
デュルケスはフラフラとした足取りでなんとか立とうとするが、ドラゴンが動くたびにその場に崩れ落ちる。
その姿がむしろ哀れに思え、二の足を踏んでいるティアナを男が嘲笑った。
「馬鹿だね。千載一遇のチャンスを逃すなんて……」
俯いていた男の肩が揺れる。可笑しくて堪らない、というように。
「……何……?」
ティアナが眉を顰めると、みるみる内にデュルケスの全身に力が漲り始めた。
「……えっ……?」
ドラゴンの身体からデュルケスに物凄い勢いで魔力が流れていく。
魔力の循環で体を蝕んでいた毒は薄められ、徐々にデュルケスの顔色が良くなってきた。
「貴方……何をしているの……?」
ザワリ、と全身が総毛立つ。デュルケスの身体が闇に包まれた。
「ああ……完全に元通りには戻れないな。僕の左目は焼いちゃったのか。じゃあ……仕方ない」
「させないっ!」
ドラゴンから得た魔力で漆黒の力が発動した事に気付き、ティアナは慌てて斬りかかりながら、白銀の力でその方向性を相殺する。
「……っ!」
闇と光がぶつかり合い、音ならぬ音が辺りに響き渡る。耳をつんざくような不快な感覚だけが襲った。
「……流石に、そう簡単には無かった事には出来ないか……」
むしろ邪魔をされた事を嬉しそうに言い、男は大仰に肩を竦めた。毒は消え、左目は白銀の輝きを取り戻している。
ーーそれじゃあサーシャは……?
何のために毒を口にしたのか。ティアナの目の前が真っ赤になる。
「許さない……! 絶対に……! お前だけは許さないっ!!」
ティアナの色違いの双眸が輝き、ズルズルと今まで感じた事がない程の力が引きずり出されていくのを感じた。
「……っ!」
デュルケスの顔が恐怖に歪む。初めて本気の神の力を目の当たりにし、自分自身の存在そのものが消滅の恐怖に怯えた。
「……お前は……お前だけは……許さない……!」
神の化身たる少女の口から紡ぎ出される呪詛はまがい物の化身の身体をがんじがらめにした。




