第145話 決戦への序曲
サーシャを伴って転移した先は、丘に囲まれた開けた土地。ティアナが三歳までを過ごした碧の村の跡地である。
ティアナは何処からともなく寝台を取り寄せ、そっとサーシャを寝かせると、その額に手を当てた。
「……ティアナ様……」
脂汗で冷え切った額とは裏腹に、熱に浮かされたように呟く叔母の唇は青ざめている。
「……サーシャ……頑張って……」
身体を巡る猛毒を浄化したい気持ちを押し殺しながら、彼女の痛みだけを取り除きながら様子を見る。
愛する身内から出来るだけ苦痛を取り除きながら、その全身に毒が回るのを待つなど、正常な精神状態で出来る筈がない。
そうだ……目だけに毒を集めてしまえばいい。
ふと思いついたそれは名案に思えた。そうすれば、デュルケスだけに毒を送り込む事が出来るのではないか。そうだ、そうしよう。
ティアナは今は空洞になってるサーシャの左眼窩に毒を集中させる。彼女はまだ繋がっていると言っていた。如何なる方法か分からないが、空間を司るデュルケスならば可能なのだろう。
ジワリジワリと全身に広がりかけていた毒を集め、ただひたすらに一点に集中させる。あの男に繋がる場所に毒をドンドンと送り込む。それがどんな結果をもたらすか考えず、ただ、叔母を苦しみから解放するために。
サーシャの臓腑から毒が抜け、その顔色が少し良くなったのを見てホッと息をついた瞬間、パシィと音がして上空が爆ぜた。
「き……貴様……何をした……!」
血に染まった左半分の顔。僅かに覗く奪い取った白銀の筈の眼球がどす黒く変色している。
鬼のような形相で空中からティアナを見下ろす青年は目の周りを結界で遮断し、腰の剣を抜いた。
「……許さんぞ……ティアナ!」
「それはこっちの台詞よ! デュルケス!」
シャリン、と涼しげな音と共にティアナは腰の細剣を抜き放った。
◇◇◇◇◇
「アルス! 貴方は下がってて!」
「馬鹿野郎! お前一人で戦わせられるか!」
帝都の外れ、二人の人影が大きな赤い異形と向き合っていた。
全身から炎を吹き上げる巨体。真っ赤な髪は一本一本が燃え上がり、爛々とした金色の目は敵意に満ちている。
「……宮殿を焼かせる訳にはいかないからな」
愛剣を構え、ジリジリと巨人に近付くと、その赤毛の先端がチリチリと焦げる。
「アルス! 貴方には無理よ!」
愛する夫を庇って立つのは乳白色の髪に空色の目の少女ーーヒバリだ。
「これは、魔物や魔獣とは違うわ! 私がなんとか食い止めるから! 貴方は宮殿の守りを固めて!」
アルスは近付くことすら出来ない巨人を睨み付け、忌々しげに舌打ちする。自分の身体が人間なのがこれ程もどかしいとは思わなかった。
こんな異形の相手をこの愛らしい妻に任せる事など出来るだろうか。
「しかしっ……!」
アルスが何か言いかけた刹那、巨人がニヤリと笑ってその右手を振り切った。
ゴウッ! と轟音がして、辺りが炎に包まれる。
「アルス!」
咄嗟に抱きついたヒバリがアルスの身体を魔術で守り、キッと巨人を見上げる。
「貴方を守りながらじゃ……戦えないわ……」
炎が徐々に収まる中、アルスは心底悔しそうに歯軋りしながら辺りを見渡した。辛うじて帝都を守る結界は無事なようだ。
「……分かった……」
アルスは煤けた頬を乱暴に拭ってゆっくりと身体を離し、ヒバリの唇に自分の唇を軽く重ねる。触れるだけの口付けを残し、額をコツンと合わせた。
「無事で……戻れよ」
赤銅色の目が不安に揺れる。ヒバリは薄っすらと笑って頷いた。
「ええ……」
そっと身を離すと、アルスはこれ見よがしに愛剣を振り回し、巨人を睨み付けた。
「危なかったぜ。だけどな……生憎と、俺には同じ手は二度と通用しないぜ……」
足手まといになるのはアルスの矜持が許さない。アルスは敢えて巨人の意識を引きつけながら、ジワリジワリとヒバリから距離を取り、ヒバリが巨人の視界から消えた事を確認する。
「俺だって、遠距離攻撃出来るんだ……ぜっ!」
構えていた愛剣を巨人に投げつける。白刃が空を切って一気に迫った。
「……!」
巨人は咄嗟に剣に向かって炎を放とうとし、足元が凍り付いている事に気付いて息を飲む。
ザシュリ!
アルスの剣が巨人の右腕に深々と突き刺さる。反対側から切っ先が出て、ボタリ、と鮮血が地面に滴り落ちた。
「グガガ……!」
巨人は呆然と腕から滴る血を見て咆哮を上げた。そしてすかさずアルスに反撃をしようとし、その姿を見失って一瞬動きを止める。
「こっちよ!」
いつの間にか背後に回ったヒバリの風刃が巨人の身体を切り刻んだ。
シュバババ!!!
凄まじい勢いで縦横無尽に駆け巡る真空の刃は、巨人の髪を切り、頬を、腕を、脚を裂き、身に纏っている鎧をズタボロにして吹き飛ばした。
しかし、巨人の強靭な肉体には刃は届かず、皮を裂くだけで肉を断つ事は叶わなかった。
「ギャアーー!」
屈辱に頭に血が上った巨人はがむしゃらに腕を振るい、炎の塊を四方八方に飛ばし始め、辺りは火の海になった。
「……っくっ!」
ヒバリが慌てて竜巻を起こし、その炎を全て上空に巻き上げようとした次の瞬間、伸びてきた炎の鞭に絡め取られてしまった。
「……キャっ!」
咄嗟に自分の身体を凍らせて身を守るが、それが仇となった。その場に自らを縫い止めてしまった事に気付いた時には、巨人が腕から抜き去ったアルスの愛剣を左手に構えてこちらに振りかぶった所だった。
ーーアルスーー!
空色の目に迫ってくる白刃が写り、ヒバリは思わず目を瞑った。
◇◇◇◇◇
夜の帳が下りて間もなく、夕餉の片付けを終えた少女は不穏な空気を感じて窓の外に目をやった。
「どうした……?」
息子の声にハッとして、少女はその空色の目を彷徨わせる。
「……何か……変やない?」
母の言葉に少年は首を傾げ、同じように窓の外を見やった。
「……風?」
「そうや……」
そう言われてみれば、ザワザワと木々が風に揺れる音の他にも何かが聞こえる気がする。
「……大きい……鳥? ……お袋のペガサスより……大きい羽音が聞こえる……」
まだ年端もいかない少年が大人びた表情で耳を澄ませる。こめかみの一房の黒髪がはらりと頰に掛かった。
「何だろう。お袋、様子を見に行った方が良くないか?」
幼いながらに村の自衛団の一員でもある少年は眉を寄せ、出掛けられるように着替えに手を伸ばしたが、やんわりと制される。
「……お袋……?」
少女は食後の茶を飲み終えるとおもむろに席を立ち、ニコリと息子に笑い掛けた。
「……まあええわ。ヨタカ、あんたはもう寝とき」
「……なんだよ。お袋一人で行くつもりか?」
ムウっと不機嫌になった息子の頭をポンポンと叩き、母親は呆れたように肩を竦める。
「いや……行かへんよ。あんたを寝かしつけるのもうちの仕事や……」
渋る息子を立たせ、寝室に続く扉の扉を開け、食卓の灯りを落とした。途端に家が夜の闇に包まれた。
「子供扱いするなよ」
引きずられるように寝台に連れて行かれ、ポイッと寝台に放り出される。戦士として名高い母親にはまだまだ叶わない。少年は唇を噛み締め、同じ寝台に横になった母親から目を逸らした。
「はいはい。いくら大人びとっても、身体は子供や。夜更かしはあかん」
キッパリと言い切られ、少年は仏頂面で寝台に潜り込んだ。眠ってしまったらきっと、母は行ってしまう。だから眠る訳にはいかない。
そう思い、暗い寝室で添い寝している母を凝視するが、母は平然として少年の身体を優しくさする。
「……ほら……。明日も狩りに行くんやろ……? ちゃんと寝ないとあかんで……」
優しく囁かれ、抗えない睡魔がジワジワと迫ってくるのを感じながら、少年は心の中で舌打ちした。
「おやすみヨタカ……」
薄れゆく意識の中、母の声を聞いた……気がした。
◇◇◇◇◇
キィ……ン!
鋭い金属音が空間のあちこちから響く。僅かに起こる砂埃が、目に見えぬ戦いの動きを後追いしている。
「……なっ……!」
転移してきたフィアードは月明かりの中、あちこちから聞こえる金属音に翻弄された。
デュルケスとティアナ。剣の達人同士が神族の力を使ってぶつかっているのだ。凡人の目で追える筈もない。
ぐるりと周囲を見渡したフィアードは意外なものを見つけてゴクリと息を飲んだ。
「サーシャ!」
かつて暮らしたことのある広い草原にポツリと不自然に置かれた寝台の上、彼のよく知る女性が横たわっている。
「……あ……!」
寝台に駆け寄り、口元に僅かに笑みをたたえながら冷たくなっているその女性を見て、フィアードは込み上げてくるものを抑えることが出来なかった。
これで何度目だ! 何度彼女を死なせればいいのだ!
非道な手段で蘇生した彼女が何事もなかったかのように生き長らえるのは厳しい事だとは思っていた。だが、こうして目の当たりにして耐えられる程、自分は冷酷ではない。
そっと手を胸の上で組ませ、出来る限りの浄化を行った。そもそも、漆黒の力のない自分には蘇生は不可能……。そして、彼女は命の終焉を願っていた。
「サーシャ……。また……会おう。今度はきっと幸せになってくれ……」
言霊に乗せて、サーシャの魂に想いを届ける。彼女の次の人生が幸せなものとなり、それを知る事が出来ることを切に願う。
キィン、ガッ、ザシュリ!
穏やかではない音と共に、パッと赤い飛沫が飛んだ。
「ティアナ!」
どちらのものか分からない血の匂いにハッとしてフィアードは顔を上げる。
ポタポタと地面に赤い斑点が落ち、それまで不可視だった二人の動きが徐々に緩慢になって、人影が浮かび上がる。
そして、一人の侵入者を認めた二つの人影は動きを止め、仕切り直し、と言わんばかりに向き直った。
彼の視線の先には、頬を一文字に切られた汗びっしょりのティアナが肩で息をしていた。その向こうには顔の左半分を真っ黒に染めて息も絶え絶えに剣を引きずる男の姿がある。
三人の薄緑色の髪が夜風に吹かれ、月の光に照らされる。
デュルケスが負けを意識して顔を歪めた瞬間、月の光が遮られ、大きな影が落ちた。
「……っ!」
思わず空を見上げたティアナはそこに現れた大きな影に言葉を失った。
「……ドラゴン……!」
『……なんだ。随分と苦戦しているようだな……。手を貸してやろうか? 恩人よ……』
その声ならぬ声を聞いて、デュルケスの顔が昏く笑った。




