第127話 海上の逢瀬
一日遅れの更新となりました。
第六章に突入です。
潮風に結い上げた髪を靡かせ、少女は海面を厳しい目付きで見つめていた。
隣に控える乳白色の髪の青年と鮮やかな緋色の髪の青年は彼女の号令を待っている。
「……いるわ……」
ポソリと少女が呟くと、帆先の物見櫓から伝声管を通じて男の声が響いた。
『左前方に魔獣の影を発見。恐らく魔石を取り込んだイルカだろう。数は三十!』
「了解!」
少女の短い応答に、脇の二人は身を引き締め、それぞれの属性に応じた杖をギュッと握った。
魔石を使って作られたその杖は、それぞれの属性の魔術、魔法の威力を増大させる。
これまで、人間や獣を殺傷するに十分だった攻撃魔術は、魔石で身体を強化された魔獣には傷一つ付けられなかった。
女帝が帝国を築くために内政担当者が奔走する中、護衛兼側近たる彼らはひたすらその魔術の殺傷力を上げるための研究に明け暮れたのだった。
異国の地を目指し、船に乗って半日。その姿を現した魔獣の影に、ようやく試し切りならぬ、実践の場を得て、二人はペロリと舌舐めずりする。
『間も無く接触! ダイナ様、船底が壊されないように結界をお願いします!』
「了解!」
ティアナは手早く結界で船全体を覆い、波飛沫を上げながら近付いて来る背ビレの集団に警戒を向けた。
何度か船が大きく揺れた。甲板が傾き、波飛沫が頰に掛かる。
船底に体当たりされたようだ。結界を張っていなければ、あっという間に船底に穴が開いていただろう。
揺れる甲板で、マストに摑まりながらティアナが号令を放った。
「来るわっ!」
バシャーン!
一旦海中に深く潜ったそれが凄まじい勢いで空中に飛び上がり、飛沫を上げながら海面から二メートルはある甲板にその身を回転しながら打ち付けてきた。
流線形の美しい肉体に、額に第三の目を持つその異形が姿を現して船を破壊しようと体当たりしてくる。
ビターン!!
全身が筋肉で出来ていると言われるイルカを更に強化した肉体が、凄まじい勢いで尾びれを振りながら次々と飛び上がった。
「させますかっ!」
モトロの指先から放たれた冷気は凝縮し、氷の礫となって空中を舞うイルカ達の身体を次々と海に撃ち落とす。
甲板で暴れているイルカの頭を次々とディンゴの青白い炎が貫いた。
「……旋回してるわね……」
先発部隊以外のイルカは様子を見ながら海中をグルグルと回っている。力で叶わないと分かったのかもしれない。
「イルカは……元来、とても頭の良い動物です。前回もこの海域で彼らの群れに会いました」
羅針盤と海図を手に、戦いを見守っていたランドルフがイルカ達を見つめている。
「恐らく、前回も威嚇していたのでしょうが、攻撃の術がなかったのでしょう。何度か鳴いて去って行きました」
「そっか……。魔石で攻撃の術が出来てしまったから……」
「ええ。それで襲って来たのでしょう」
ティアナは甲板に横たわるイルカの死骸を見つめた。彼らはこの海の住人だ。海域を荒らした魔物を倒し、新たな力を手に入れてしまったのだ。
「……悪い事をしたわね……」
「いえ、身を守るのは当然の事。ここで気に病まれる必要はありません」
ランドルフに言われ、ティアナは軽く甲板を蹴って宙を舞い、帆先の物見櫓で周囲を警戒しているフィアードの元にやって来た。
「ティアナ……?」
「どう? イルカ達は……」
「だんだん旋回する範囲が広がってる。そのうち離れて行くだろう……」
フィアードはティアナの表情に気付かないふりをして淡々と状況を説明した。
「……ねえ、どう思う?」
ふわりと狭い櫓の反対側に降り立って、ティアナは躊躇いがちに口を開いた。
「何が?」
「私達の方が侵入者よね……」
悪い事をしてしまった。彼らは縄張りを守っているに過ぎないのに。ティアナはキリリと唇を噛み締めた。
「じゃあ、大人しくやられるか? それとも魔獣相手に話し合いでもするつもりか?」
フィアードは肩を竦めた。冗談じゃない。こちらにだって権利はあるはずだ。
「……それは……」
「今回は気付くのが早かったから、大きな被害は出ていない。でも、結界が遅れたら、船底には大穴が開いていただろうよ」
それでもいいのか、とフィアードが皮肉気に笑う。
「……イルカ達の被害は、甲板で死んでいる五体だけ。モトロは無傷で撃ち落としただけだ。簡単に殺せるくせにな……。あいつは、お前への負担を考えたんだ」
フィアードの言葉にティアナは力なく頷いた。モトロはいつも、出来るだけ惨い倒し方をしないように心を配ってくれる。
「……そうね……」
「魔獣相手に、新しい術式を試す格好の機会を逃してまで、お前の気持ちを優先した。それでいいのか?」
フィアードとしては、出来るだけ早く術式を確立したい。なのに実践の場をみすみす手放すなど、研究者として中途半端な行動は腹立たしいものだ。
「……レイモンドみたいな事言うのね……」
ティアナの心が船酔いで臥せってこの場にいない弟に向いた事に、フィアードは苛立ちを隠せない。
「なんだ……あいつ、そんな事言ってたのか?」
「そうよ。ちゃんと自覚しろ……目を背けるなって……。フィアードにまで言われたら……」
拗ねるような少女の顔に、若干の苛立ちを覚え、フィアードは冷ややかに目を細めた。
「じゃあ……貴女は昔と同じようにお飾りの女帝でいいんですか? ダイナ様」
フィアードがかつての自分の口調を再現すると、ハッキリとティアナの顔色が変わった。
「フィアード……!」
「よくないだろう? 何のためのやり直しだ? ……だから、ちゃんと前を向いて欲しい」
「……はい……」
「お前の発言は思っている以上に影響力がある。ダルセルノがいた時とは違う……それは自覚しておいてくれ」
ティアナは大きく頷き、キュッと唇を噛み締めた。そして吐息をつくと、意を決したようにゆっくりと口を開いた。
「……覚えてるの?」
「……ハッキリとは覚えてないけどな……」
フィアードの口元が歪む。少し苦しそうな事に気付かず、ティアナは思わず身を乗り出した。
「どの程度?」
「印象に残っている事が幾つか重なっていて、前後は繋がってない。詳しく思い出そうとすると苦しいから、それ以上は考えないようにしてる……」
それでは、殆ど思い出せていないのではないか。ティアナは少しホッとしたような、残念なような不思議な心地になった。
「……そう……」
「ただ、言えるのは……予備知識が無ければ、気が狂っただろう……って事だ」
その穏やかではない表現に、ティアナの顔色が悪くなる。
フィアードは予めティアナからやり直しの事を聞いていた。だからこそ、溢れる記憶を取捨選択してなんとか現在の自分を取り戻す事が出来たのだ。
「だから……サーシャの事を……」
サーシャは火の砦で穏やかに暮らしているらしい。顔を出すと混乱すると思い、あれ以降足を運んでいない。
「ああ……。彼女が耐えられるか分からなかったからな」
既に記憶を歪められている。その事があの誇り高い叔母を傷付けるに決まっている。
ティアナはかつて、彼女の蘇生を諦めた事を思い出した。
「……フィアードは……混乱してない?」
「ああ……。幸い、今回の俺には分かりやすい違いがあるからな。それだけで混乱しないでなんとかなる。今の自分さえ保てれば大丈夫だと思う。……お前のお陰だ」
「違い……?」
ティアナは眉を顰めた。確かに今回はフィアードにとって、人生そのものが大きく変わっている。だが、そんなにハッキリと区別できる何かがあるのかピンと来ず、目の前の青年を見上げた。
「……脱げばわかる事だ」
フィアードはその無邪気な視線に居心地の悪さを感じて、フイッと目線を逸らした。
「……!」
ティアナの脳裏にある一夜の濃厚な思い出が蘇り、みるみるその頰を赤く染め上げる。
「……あ……、そう……ね……」
彼女にとってはそれはたった一度見たものであったが、彼にとっては以前の人生にずっと付いて回っていたものだ。それに思い至り、ティアナの胸は早鐘を打ち出す。
「……ご……ごめんなさい……。変な事……思い出させて……」
狼狽えるティアナの様子を見て、フィアードは思わず吹き出した。
「変な事じゃないだろ?」
「……だって……お……覚えてるの?」
ティアナの目が泳ぐ。あの時、自分は一体どんな姿だったのか思い起こし、顔から火が出そうになる。
「目に焼き付いてる」
フィアードはニヤリと笑って、ティアナの手首を掴み自分の方へ引き寄せた。
「……!」
「なぁ……ずっと聞きたい事があったんだ……」
肩を抱かれ、顔を覗き込まれる。それだけで腰が砕けそうになるのを必死でこらえ、ティアナはゴクリと息を飲んだ。
「お前は、どうして俺が良かったんだ?」
「……フィアード……」
「俺は……自分で言うのも何だけど、最低な男だったぞ?」
「……そんな事……」
「適当に声を掛けてきた女を抱いて捨てて、腹の中に殺意を抱いたまま、ダルセルノとその娘のお前に渋々仕えてた」
「……それは……」
ティアナの心にチリチリと痛みが宿る。分かっていた事だ。だが、面と向かって言われると……辛い。
「俺にとって女なんて、ただの性欲の捌け口でしか無かったしな」
淀んだハシバミ色の目に見据えられ、ゾクリと背筋が凍りそうになる。
「でも……ツグミは……」
「ツグミとは……たまたま目的が一致したり、共通の敵がいたりしたからな……親近感や連帯感……要するに共犯者だな」
「でも……今回だって……」
ティアナは二人の仲睦まじい様子に耐え難いものを感じていた、それがただの共犯者ではないのは一目瞭然であった。
「……それは、お前が俺たちを意識させたんだろう?」
「……え?」
ドキン、と胸が鳴った。自分は二人に対して何を言っていただろう。
「俺たちには何かあったらしい……そういうお前の言動で、妙に意識する事になって、まるで暗示みたいに惹かれあった……」
いきなり責任を転嫁され、ティアナは顔色を失った。
「そんな……」
「だから……よく分からないままに中途半端に体を重ねてお互いを傷つける事になった……」
「……私のせい?」
フィアードは答えず、皮肉気に笑った。
「ツグミは結局……ヨタカの子を産んで……俺を拒絶した。今のあいつにとって、汚れた記憶を持つ俺はお呼びじゃないって事だ」
「そんな……」
ティアナの目が大きく見開かれた。二人がどの状況で出会っても惹かれ合い、結ばれると思っていたからこそ、自分が苦しんできたと言うのに。
「……計算通りなんじゃないのか?」
グイッと青ざめたティアナの身体を抱き寄せ、その耳に唇を寄せる。
「フィアード……」
「お前は……何をしたかったんだ? 望み通り、十五の誕生日に俺と結婚すれば満足か?」
ゾクリと背筋が震え上がった。
フィアードの顔は苦痛に歪み、様々な感情が溢れ出そうとしているのが分かる。記憶が混乱し、人格に影響を及ぼしているのかも知れない。
ティアナは投げ掛けられた言葉の棘を一身に受けながらも、震えた手で自分の肩を抱くフィアードを突き放す事が出来なかった。




