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第123話 魔獣の咆哮

 自分を慕う少女がいた。


 彼女は圧倒的な力を持ち、世界を統べるべく君臨する女帝でありながら、酷くあどけなく、脆かった。だが、穢れの無さが眩しく、とても美しかった。


 何故、自分なのだろう。彼女にはもっと相応しい相手がいる筈だ。

 そう思いながらも、いつの間にかその思いが当然のように感じる自分に愕然とした事もある。


 だが結局、自分に向けられる熱い想いを受け止める事が出来ず、いつも目を逸らし続けて来た。歳の差を理由に、妹扱いして誤魔化し続けてきた。

 他の女を抱き、情熱を傾ける事で、少女の想いから逃れようと足掻いていた。

 たまたま気持ちを分かち合える女に出会い、その女に溺れて少女を一時忘れた事もある。だが、少女はそれでも常に美しかった。

 少女を受け止めようとしたが、その無垢な姿の前に穢れきった自分が浮き彫りになるのが辛かった。


「フィアード……、大丈夫?」


 色違いの目で覗き込まれ、フィアードはボンヤリとその少女を見上げた。

 よく知っている少女とは何処となく雰囲気が違う。何が違うのだろう。


「……ダイナ様……?」


 名を呼んだつもりが、少女の表情が凍りついた。何故だろう。

 そうだ。彼女は妻になった筈だ。呼び方を間違えたのだろうか……。

 手を伸ばし、その愛らしい頰に手を添え、ゆっくりと口付けようと身を起こそうとすると、少女が身を捩った。


「……ダイナ……様?」


 こちらを見つめる色違いの目が揺れている。


「フィアード……、私は……誰?」


「え……誰……?」


 問われて初めて疑問が浮かぶ。そうだ。この少女は誰だ? よく知っているあの少女とは何かが違う。

 たおやかで細く、折れそうだった筈の少女の肢体は、しなやかで程よい肉付きの猫のような怪しい色香を放っている。

 ふと視線を落とし、その手を見てハッとする。記憶にある少女は白魚のような手だった筈だが、この少女の手は節くれ立って筋が浮き上がり、力強い。この手は……剣を握る手だ。


 複雑に絡み合った記憶の中から一筋の糸がスルスルと結び付く感覚があっり、カチリ、と目の前の少女に当てはまった。


「……ティアナ……」


 ポツリと呟くと、目の前の少女の口から安堵の溜め息が漏れた。


「フィアード……、大切なのは……これから……だから……」


 少女は枕元の水差しから杯に水を注ぎ、フィアードに差し出した。


「ああ……そうだ……な」


 相変わらず眩しいほどに穢れない少女だが、かつて感じていた脆さが無い。凛とした姿勢に鍛え上げた肉体から滲み出す自信。

 これほど魅力的な女性に化けるとは思いもしなかった。


「……ティアナ……ありがとう」


 フィアードは寝台から身を起こし、差し出された杯を受け取って水を飲み干した。


 もう少しで記憶の波に溺れ、自分を見失うところだった。


 気が付くと、着ていた服は汗でびっしょり濡れており、寝台も湿っていた。


「……温泉に入ってくる……」


 フラつく脚で立ち上がると、ティアナがそっと支えてくれた。


「ええ。その方がいいと思うわ」


 支えてくれる手から癒しの波動を感じ、フィアードはその少女の手にそっと自分の手を添えた。


「……フィアード?」


「……いや……、ちょっと驚いただけだ」


 その真摯な視線から思わず顔を背け、フィアードはフラフラと部屋を出て行ってしまった。



 ダイナ、と呼ばれた瞬間、言いようのない不安と切なさが胸を襲った。あの輝かしい日々が、自分だけの幻想ではなかった事を実感し、眩暈がするようだった。

 かつて自分に向けられていた目で見つめられ、一瞬、自分も記憶の波に飲み込まれそうになった。


 ティアナとして自分と向き合ってきたこの七年が無ければ、彼と二人で記憶の波間に身を任せてもいいかと思える程の甘美な誘惑だった。


「……フィアード……」


 その名を口に載せるだけで胸が焼け付くような気持ちになる。

 彼は、かつての記憶をどのように受け止めるのだろう。自分とのこれからの関係を、どのように築いていくのだろう。


 ティアナは彼が眠っていた寝台にそっと手を置き、深い吐息をついた。




 温泉に浸かりながら、フィアードは傷の無い自分の身体をゆっくりと見つめ直していた。

 記憶の淵から湧き上がる泥沼のような憎しみが全て幻であるかのように、自分の身体には目立った傷が殆どない。


「……これが……今の俺……か」


 背中に触れても、スベスベとした自分の肌を感じるだけだ。指に引っかかるように皮膚に深く刻まれていた、気候の変化で痛みを伴うあの醜い火傷の痕も無い。


 そして、身に纏っている二種類の精霊の気配。それにより明らかに増幅している自身の魔力。


「……違いすぎて、かえって分かりやすいな……」


 複雑に絡み合った記憶の糸は解けていない。だが、()に繋がる糸だけは他の糸とはハッキリと区別できる。


「……兄ちゃん……起きてたのか」


 温泉に入ってきた人影に声を掛けられ、フィアードはフッと口元を緩めた。あの後、村人達と飲んでいたのだろう。弟の足取りは少し覚束ない。


「そうだった……。お前もいる(・・)んだったな」


「……?」


 すっかり歳上になった弟かザブザブと近付いてきて、フィアードは肝心な事を聞き忘れていた事を思い出した。


「そうだ、レイモンド。レイチェルの具合はどうなんだ?」


 あれから七年。確か、癒しの魔法を毎日唱えるように伝えていたが、ちゃんと効果は出たのだろうか。病気は進行していないのだろうか。


 レイモンドは少し視線を彷徨わせ、ほうっと酒臭い息を吐き出した。


「……飲み過ぎだ……。たいして強くもないくせに……」


 フィアードは弟の肩に手を触れ、水の精霊で彼の体内の酒気を取り除いてゆく。


 トロンとしていた青緑の目に徐々に光が戻り、レイモンドはパシャリと顔を洗った。


「……あっ……と……、少し病巣は大きくなってるが、定期的にリュージィさんの診察を受けて、モトロが治癒してる」


「……そうか」


 ホッと胸を撫で下ろし、フィアードも顔を洗う。


「毎日治癒と浄化を掛けてるから、基本的には大丈夫だけどな。病巣はゆっくり育ってるから、いずれは取り除きたいってリュージィさんは言ってる」


 確か、あの病気は病巣がある程度大きくなると、そこから吐き出される毒素で命が縮むとあった。

 日々浄化する事でその毒素は無効化されるだろうが、病巣の成長までは抑えられない。ティアナの施した術でも完全に成長を止める訳にはいかなかった。成長期の体内の一部だけ時間を止める訳にはいかないから致し方ない。

 いずれは徐々に肥大化する病巣により他の臓器が圧迫されるであろう事は容易に想像できる。


「分かった。……リュージィは今は何処にいるんだ?」


 レイモンドの口から出てくる名前が、フィアードの記憶をより鮮明にしていく。


湖畔の村(ボーデュラック)だが、近々出来上がる宮殿に、醫師(いし)として入ってもらう予定だ」


 成る程、と頷いていると、次々と自分を取り巻いていた懐かしい顔が浮かんでくる。


「母さんたちは?」


 そうだ。()は、自分もティアナも、母親が健在なのだ。そう思うだけで、心が強くなる気がする。


「母さんとレイチェルにも宮殿に入ってもらう。それで治療もやりやすくなるだろう。ルイーザとセルジュは協会(ギルド)の仕事があるから、基本的にはティーファを拠点にする予定だ」


「……フィーネ様は……どうするんだ?」


 自分はあれ以降会っていなかったが、まさか彼女が村の復興を担ってくれるとは。驚きである。


「……生母として、宮殿に入って欲しかったけどな。ギーグとの間に二人子供もいるし、神族の村(ヴィーダガーベ)に残ってもらう事にした」


 レイモンドの話はとても分かりやすい。フィアードは面識のないギーグという人について、二、三質問し、そして、今一番会って話したい人物の名を上げた。


「アルスは?」


 アルスはどの記憶においてもアルスだった。まさか、彼がティアナの父親だとは思いもしなかったが、ティアナと自分に深く関わる運命だった理由が分かった気がした。


「一家で宮殿に引越しだ。アルスさんは将軍、ヒバリさんは魔術師として働いてくれる事になってる」


 建国後の人事について、私情を挟まずに冷静に語るレイモンドの案を聞きながら、フィアードは自分の頭の中を整理した。

 この七年の事を聞く事で精一杯で、先の事まで聞いていなかったのだ。

 そしてここまで聞いてようやく、新しい帝国を思い描く事が出来そうだ。


「……お前は?」


 出来ることならば、この調子でグイグイとティアナを押し上げて貰いたいと思ったが、そうはいかないだろう。

 フィアードの予想通り、レイモンドは肩を竦めた。


「俺には冒険者協会(ギルド)も学校もあるからな。……内政は兄ちゃんとランドルフに任せる」


「……そうか。……色々迷惑をかけたな」


 ここまでお膳立てして貰ったのだ。しっかり引き継がなければなるまい。

 フィアードが頼もしい弟を見上げ、ニヤリと笑うと、レイモンドもつられて笑う。


「ティアナが本気になってくれたからな。……じゃないと、ここまでは出来ないだろ」


 確かに。本気ではない彼女を担ぎ上げるのは不本意であり、ダルセルノと同じ穴のムジナにはなりたくなかった。

 彼女が本気になって、それを支えていく形での建国を成し遂げなければならない。


 そして、その前に立ちはだかる大きな壁がある。


「ああ。じゃあ、とりあえずは後顧の憂いを断つためにも、デュカスか……」


 フィアードの言葉にレイモンドが訂正を入れる。


「……手始めはこの土地の呪いだろうな」


 兄弟は未だ噴煙を上げ続ける火山を見上げた。


 ◇◇◇◇◇


「……約束を果たしに来たわ……」


「……ふむ。準備は良いな」


 ティアナ達は長老に言われた通りに登山道を登り、火山の山頂付近、溶岩溜まりの近くに来た。


 普段であれば、噴煙が凄まじく、その近くまで行く事が出来ないのだが、ティアナ達の歩みに合わせて噴煙が収まり、まるで彼等を導くかのように道が開けたのだ。


 ティアナは道を行く間、以前は感じなかった、精霊同士のせめぎ合いを足元に感じていた。


 彼女の周りには四人の男性がそれぞれ持てる力を駆使して、不測の事態に備えている。


 ゆっくりと瞑目し、溶岩溜まりから湧き上がる熱に煽られて吹き出す汗を拭った瞬間、獣の咆哮が聞こえてきた。


「グルル……」


「……何……?」


 深紅の毛の大きな獣の群れがジワジワと一行に迫っていた。


 狼よりも一回り大きな体躯はうっすらと魔力を帯び、その額からは角のようなモノが生えている。


 この山頂付近には狼が生息している事は分かっていた。だが、これは何だろう。


 フィアードは杖を構えながら、ジックリと獣を観察する。身体的な特徴は狼とあまり変わらない。

 よく見ると、角があるのは数体で、後ろに控えているのは普通の狼とさほど変わらない。


「……魔石を……喰った……のか……」


 ゴクリ、と息を飲む。


 魔物との小競り合いに勝利した狼が、倒した魔物が落とした魔石を体内に取り入れたのだろう。

 魔石の魔力により肉体が強化され、新種の獣になっている。


「……魔獣ってとこだな……」


 レイモンドはスラリと剣を抜き、ティアナの傍らに控える。


「また勝手に名前を付けやがって……」


 フィアードは杖を構え、レイモンドの反対側で獣に向き直った。


 モトロがティアナの前に立ち塞がったので、ティアナは数歩後退り、溶岩溜まりに近付いた。


「みんな……任せても大丈夫?」


 ティアナの意識は足元に向けられている。邪魔者の相手をする余裕は無さそうだ。


「ギャウンッ!」


「ガウッ!」


 ティアナの声が終わらない内に、ディンゴが金色の軌跡を描きながら犬の姿で群れに割って入り、戦いの火蓋が切って落とされた。

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