第11話 蠢く闇
薄暗い室内に紙燭の火が揺れている。男は目の前の甕を覗き込んでいた。甕は液体で満たされており、その水面は風もないのに細かく波打っている。
不意に扉を叩く音がした。返事をすると彼の部下が入ってきた。
「……猊下……」
「失敗したそうだな」
男は顔も上げずに部下に応対する。その声音は恐ろしいほどに冷たい。
「申し訳ございません」
部下の額には玉のように冷や汗が浮かんでいる。その目に浮かぶのは畏怖。得体の知れない男に仕えている不安。
「構わん。また次がある」
「しかし……あれだけの者を再び集めるには時間が掛かりますゆえ……」
「ふむ……、あの程度の者をいくら集めても然程変わらぬな。ならば、切り札を用意するまで」
男は部下に向き直った。視線を感じて部下の体が硬直する。
「儀式の支度だ……今度は少し規模が大きい。供物はいつもの三倍用意せよ」
「さ……三倍で……ございますか……」
声が震えている。彼が要求している供物の内容を考えるならば無理はない。
「左様。それで我等は切り札を手に入れる。
皆に伝えよ。儀式は次の新月。場所はかの村」
「ははっ!」
部下は一礼して一目散に退出した。男は甕に視線を戻す。
「そろそろ気付いたか。せいぜい力を蓄えるがいい……」
男の細い目は水面に映し出される親子三人をまるで獲物を狙うかのように観察している。音を拾えなくなったのはこちらの思惑に気付いたからだろうが、とくに問題はないだろう。
今回は協力者が思ったよりも早く合流したためか中々手強い。彼女があちらに着くと面倒だ。早い段階でこちらに取り込まなければ。
男は儀式の手順を確認しながら出立の支度を始めた。
◇◇◇◇◇
「おい、いい加減に起きろよ!」
「ん……、よお寝たわぁ~!」
目覚めるとツグミはいつもの寝台の横、床の上にいた。フィアードに起こされるまで、硬い床でぐっすり寝ていたのだ。
「お前……凄いな。部屋の状態もあり得なかったけど、俺達が遠慮した意味がないじゃないか……」
例え父の師匠だとしても、この女を敬うことは出来ない気がする。
仮にも唯一の女性から寝台を奪う訳にもいかないと思い、ティアナをコッソリと移動したのだ。
にも関わらず、彼女は寝台から転がり落ち、そのまま爆睡していた。驚きである。
「いやぁ、何もない床は寝心地ええからなぁ~」
ケタケタと笑う一見少女に、フィアードは内心で舌打ちした。これは女じゃない! 見た目に騙されるな!
「で、ちゃんと案内してくれるんだろうな!」
「あったり前や!」
結局、年齢以外は何も教えて貰えなかったのだ。気になることが多すぎて疲れているのに殆ど眠れなかった。
「ていうか……その前に、なんかええ匂いしてんねんけど!」
ツグミはクンクンと鼻を鳴らし、目をキラキラさせている。
「お! 起きたか。メシ出来てるぞ」
声に振り返ると、アルスが机に配膳していた。昨日の獲物の水鳥と野草の炒め物とスープ、そして昨夜から仕込んだ釜焼きパン。
室内は昨日以上に片付き、床も壁も丁寧に拭かれていた。
「アルス~! 結婚して~!」
ツグミは半泣きになりながら赤毛の男に抱きつき、鬱陶しそうに振りほどかれていた。
「ありえねぇ……あの女……!」
フィアードの苛立ちは最高潮に達していた。自分とアルスはそれなりに出来ることを分担してきた。もちろんアルスの負担の方が大きかったが、フィアードも努力してきた。それが共同生活に必要だと分かっていたからだ。
しかし、この女はどうだ。もしも一緒に行動したら、全ての雑務が自分たちに降りかかるのが目に見えている。
寝起きの姿そのままに食卓につき、ちゃっかりと朝食をとっている姿に溜め息をつくと、膝の上のティアナと目が合った。
「……ツグミが気になる?」
昨日から不機嫌なティアナは、器用に片眉を上げて問いかけてきた。本人には聞こえない程度の声で呟く。
「腹立つ……」
「ふ~ん……」
ティアナは不機嫌なまま、フィアードが食べさせるアルス特製のパン粥をモリモリと完食したのであった。
◇◇◇◇◇
午前中に荷物を纏め、碧の村へ出発することになっていた……が、ツグミの荷物が纏まらず、出発が遅れていた。
「だから、獲物の皮とか角とかいらないだろ?」
「持って帰ったら武具に使えるやん! せっかく採ったんやし、置いて行ったら勿体無いやんか!」
「多すぎるって言ってるんだよ!」
先ほどからツグミとフィアードの間でそんなやり取りが続いている。
「まぁ、俺が持つからいいよ」
アルスが折れたが、フィアードは譲らなかった。
「アルス、甘やかすな! 俺達はこれ以上持てないだろ! 優先順位考えろよな!
ツグミ、獲物はここに置いて行け。村に着いたら転移してやる! それでいいだろ!」
「その間に盗まれたらどうすんねん!」
「その時は諦めろ! ていうか、誰も盗まねえよ!」
二人が睨み合っていると、冷たい声が聞こえた。
「いい加減にしてくれない? 早く出発したいんだけど……?」
ティアナである。定位置のフィアードの背中からツグミを睨み付けていた。あえて本来の色彩のまま、威圧するかのように見下ろしている。
ティアナに苦手意識があるらしいツグミは気まずそうに目を泳がせ、慌てて着替えを詰めた袋を手繰り寄せた。
「ほな……行こか……!」
予定より遅れること数十分。ようやく小屋を後にした。
ツグミを先頭にティアナを背負ったフィアード、アルスと続いて小屋から続く獣道を抜けて山道に戻る。
ティアナが不意に思い出したかのように言った。
「あ……そうそうツグミ、ちょっと聞きたいことあるんだけど」
「……はい?」
「貴女の村、空間魔術の阻害してる? フィアードの遠見に反応した奴がいたらしいのよね。
それさえなければ転移で行きたいんだけど……」
ツグミは歩きながら少し考え込んだ。
「阻害なぁ……うちには分からんけど、出来そうな奴はおるな。
そこそこ距離もあるし、全員で転移は危険ちゃう?」
「じゃあ……歩いて行くのね」
「まさか!」
即座に否定され、ティアナは首を傾げた。
「じゃあどうするの?」
「もう少し先に行ってからな」
なだらかな坂を登り切ると、見渡しのいい高台に出た。気持ちのいい風が駆け抜ける。
ツグミは荷物を降ろし、おもむろに両手を広げた。澄み渡る青空に向かって声にならない程の声で呟く。
「空を統べる精霊よ、風となりて我に集え。我が思いを形となし我に力を貸したまえ」
言葉に呼応するかのようにツグミの周りに風の精霊が集まり始め、徐々に形を為していく。
「出でよ天翔る馬!」
詠唱が終わると同時に眩い光が辺りを満たして消えていく。
精霊達が具現化した大きな空色のペガサスが四人の前に悠然と翼を休めていた。
「さ、乗った乗った」
ツグミはさっさとペガサスの背中に登り、その太く逞しい首を撫でた。ペガサスは僅かに目を細め、気持ちよさそうに首を振る。
「すご……!」
「うわぁ! やるじゃない! カッコイイ!」
フィアードは素直に感心し、アルスは初めて見る大魔術に呆然としている。ティアナも初めて見たらしく、その華やかな姿に感嘆の声を上げた。
フィアードはいそいそとペガサスの背中に登るが、アルスは珍しく躊躇っている。
「アルス? どうしたんだ?」
「あ、えっと……、これで行くのか?」
「歩いたら一ヶ月はかかるで」
ツグミの一言でアルスは諦めたようで、恐る恐るペガサスの背に跨った。
大人三人が乗ってもまだ余裕がある。
「準備はええか? 振り落とされんようにしっかり掴まっときや~!」
ツグミの合図でペガサスは大きな翼を広げて羽ばたかせた。旋風が巻き起こり、その巨体は一気に上空へと舞い上がる。
「わぁ! すげぇ!」
フィアードはその高さに感動する。背後のアルスは目をギュッと瞑ったまま、その大きな身体を縮こませている。
「行っくでぇ~!」
ツグミの声にペガサスは翼を広げ、そのまま気流に乗って空を駆ける。
眼下に広がる広大な景色にフィアードは目を奪われた。遠見でも俯瞰は可能なのかも知れないが、そのような使い方を考えたこともなかった。
川に沿って草原が広がり、所々にこんもりと森林や繁みがある。
「ねぇアルス苦しい! ちょっと離れてくれないと何も見えないんだけど~!」
気が付いたらアルスはフィアードにしがみついていた。間に挟まれたティアナが耐えかねて悲鳴を上げている。
「すまん! でも、無理だ!」
アルスは目を瞑ったまま、青い顔で首を振っている。大きな体は小刻みに震えているようだ。
「目、開けろよ。勿体無いぞ」
フィアードはその様子が可笑しくてたまらないようだ。しかし、そのままだとティアナが可哀想なので結界を張ってやる。
「これで少しは楽だろ?」
風が直接当たらなくなっただけで、アルスの顔色は幾分マシになった。
相変わらず目を瞑ったままだが、少し体を起こしてティアナを解放する余裕は出来た。
「ふぅ、助かった! わぁ~すご~い!」
一方のティアナは風を切って空を駆ける感覚に大はしゃぎだ。昨夜からの不機嫌が嘘のように満面の笑みを浮かべている。
「あの山の向こうや」
ツグミが前方の高い山を指差した。その山の頂きにはまだ雪が薄っすらと残っている。
「あの山を越えるのか?」
「流石にそれは無理やから迂回するで! しっかり捕まって!」
ペガサスは身体を傾けて、ゆっくりと進路を変えようとした、その時……
上空から何かが降下してきて、フィアードに体当たりした。
「グッ!!」
「フィアード!!」
フィアードの体が傾き、そのまま力を失ってずり落ちる。アルスは慌ててその体を抱き起こす。
「フィアード大丈夫か!?」
「ダメ! 気絶してる!」
ティアナはフィアードの背中を必死で叩いているが、反応がない。
「何なんや……今の!」
ツグミは周囲を見渡す。一瞬太陽の光が遮られ、ハッとして叫んだ。
「また来る!」
彼女の言葉にアルスが反応するよりも一瞬早く、一羽の鷹が再び上空から急降下して、今度はペガサスに体当たりした。
ペガサスは光の粒子となって霧散した。
◇◇◇◇◇
魔法陣が描かれた地にはおびただしい血と、幼い子供達の骸が横たわっていた。
「……片付けておくように」
男の指示を受けて、兵士達は無言で頷いた。下手に逆らっては自分達の身が危ない。
男は祭壇から起き上がった女性に手を差し伸べた。
「気分はどうだ。待たせて悪かったな」
「……とても爽快です。今までの悩みが嘘のよう……。呼び戻していただいて感謝します、義兄上」
女戦士はその白銀の目を細め、口もとに笑みを浮かべた。




