第108話 火の国へ
青……青……青……一面に広がる青い水面に、日の光が反射してキラキラと輝いている。
波の音に空を舞う海鳥の甲高い鳴き声が混じり合って、独特の賑わいを演出していた。
時折吹き付ける風はたっぷりと潤いを帯び、そして鼻腔に独特の香りを運んで来る。
「これが……海……!」
赤毛の少年は眼帯で覆われていない漆黒の目を大きく見開いて眼前の風景に見入っていた。
あまりにも大きすぎて、自分の存在が消えてしまいそうだ。このどこまでも続く青が、まだ見ぬ異国と繋がっている。その事実を思うと身体が震え出す。
見慣れている湖も広大だが、うっすらと対岸が見える。しかし、海の向こうには海と空の境界線しか見えない。海は深い青をたたえ、その海上には立派な帆船が三隻浮かんでいた。
浜を見下ろす丘からその帆船を見ていた隻眼の少年は、仲間らしき少年から手渡された分厚い本を抱き締め、心配そうに仲間の身支度を見守っている。
「ランドルフ……大丈夫?」
「はい。言葉はほぼ完璧ですし、建築、測量や生物学の専門家も連れて行きます」
「食べ物とか……」
「彼等からある程度聞いてますから大丈夫ですよ。ティアナ様は意外と心配性なんですね」
「意外とって何よ! 私が仲間の心配しても何も悪くないでしょ!」
「ありがとうございます。ティアナ様は、私が作った辞書でしっかり異国語を学んでおいて下さいね」
少年がニコリと微笑み、詰め直した荷物を肩に担ぐのを見ながら、ティアナは辞書を持つ両手の指をモジモジとこすり合わせた。
「わ……分かってるわ。読むのはいいけど……喋るのは……まだ……」
「駄目ですよ、演説出来るくらいになって下さい。それでは、そろそろ参ります」
ランドルフは浜に降りると、数名の仲間と共に、異国人が舵を持つ小舟に乗り込んだ。
小舟がゆっくりと岸を離れ、帆船に近付いて行くのを静かに見守りながら、ティアナは彼が作った辞書を抱き締めた。
「……ティアナ様……」
「モトロ……。視察って……どれくらいかかるかしら。異国の地でも風魔法で連絡取れるかしら……」
自分の思い付きで、仲間が危険な目に合うかもしれない。ティアナの小さな身体がその重圧に震えている。
「海の上は風が巻いています……。異国の商人の方から手紙の配達を頼まれましたが、やはり無理でした。何か他の方法で連絡を取る手段を考えましょう」
「……そうね……」
「彼等が帰って来るまでに、僕達にもやらなければならない事が沢山ありますよ」
モトロの言葉にティアナが頷くと、ポン、と頭に手が乗せられた。
「……向こうの国の為政者からの接触がまだないからな。下手をすると侵略準備をしているかも知れない……」
「レイモンド……」
「あの商人達の背後にどんな連中がいるのか、全く分からないからな。あいつらが人質に取られる可能性も考えとけよ……」
いつになく難しい顔のレイモンドは帆船を睨み付けている。初めて異国の船を見たが、その立派さに愕然としたのだ。ただの商人にこれだけの物が用意できるものなのだろうか。
そもそも、何を目的としてこの地で交易を行っているのかも気になる所だ。最初は漂流して来たらしいが、その後、交易開始までの手際が良すぎたとギーグは懸念していた。
「もし……侵略が目的だったら?」
「あいつらは帰って来ないか……、若しくは怪しい奴を連れて帰ってくるだろうな……」
レイモンドの言葉を胸に刻みながら、ティアナは辞書を強く抱き締めた。
ランドルフ達が乗った小舟がそのまま帆船に引き上げられていく。彼等の旅はその時始まった。
ランドルフら視察団が船着場から異国に旅立った二年後に後発隊が為政者宛の書簡を携えて視察団の後を追った。
それから二年の月日が流れたが、彼等の帰還の報告はまだない。
それが、異国への訪問準備が遅れているもう一つの理由であった。
◇◇◇◇◇
三人はソルダード達からロバを譲って貰った。食糧事情の悪い火の国ではロバが一般的な家畜らしい。
ロバならばこの洞穴も比較的問題なく通れるので、何故か懐かれているモトロが荷物を括り付けたロバを引いている。
「あちらでは何処に何があるか分からないんだろ? 地図も無しにどうするんだ?」
「ザイールが迎えに来てくれる事になってるわ」
「ああ、成る程な。で、ティアナはどういう位置付けになるんだ?」
連絡に関わっていなかったレイモンドは詳しいやりとりを知らない。
「ザイールの孫のダイナよ。とりあえず、表向きは冒険者協会と学校の普及のために来た事にしてる。ソルダードにもそう言ってるし……」
「それで、水面下で建国準備……か。封印を解くのは、ある程度の名付けを済ませてからだな」
「封印を解いたら各地に連絡。一斉に建国に向けて動く、という事ですね……。都の建設はどうなってるんですか?」
「区画は終わって、城の基礎は出来てる。それから、やっぱり城壁を作ることにした。水路はお前に任せる」
かつてダルセルノが都を築いた土地は、やはり地理的にも風土的にも都に最適な土地であった。三人はそこを訪れた際に様々な計画を立て、秘密裏に都の建設を進めている。
かつての宮殿と異なるのは、城を中心にしてぐるりと城壁を築く事にしたことだ。その内部に移住した人々によって町が築けるように区画している。
全ての準備が整い次第、森を切り開いて道を繋げる予定だ。
レイモンドが持つ松明の火がユラユラと揺れ、三人の影を揺らす。ロバは何食わぬ顔で荷物を黙々と運び、その蹄の音が洞穴に響き渡った。
「……視察団の帰還報告はありましたか?」
ふとモトロが思い出したように言うと、ティアナは難しい顔になる。レイモンドはゆっくりと首を振った。
「……まだだな」
「ねぇ、どうして帰りが遅いのかしら……誰か一人くらい帰って来てもおかしくないでしょ……? あの後も何隻も船が着いてるし。でも、来た人達に聞いても何も分からないらしいし……」
「恐らく……異国も一枚岩ではないのでしょう。もしかしたら、ランドルフが視察している国と、後発隊が行った国が違うのかも知れません」
もしそうだとすると、為政者にと持たせた書簡が余計な争いの火種となっている可能性もある。
彼等が交流を持ったのが商人だったため、そのような事情が分からなかったのは致命的だ。
「移動手段が商船だからなぁ。案外、のんびり各地を巡ってるのかも知れないぞ?」
「貴方が侵略の可能性を心配してたんじゃないですか。また、随分と呑気な話ですね」
「だから、あらゆる事態を想定しとけって事だよ。船が難破したり、病気が蔓延してたり、何者かに捕まってたり、現地で恋人ができて引き止められてるかも知れないだろ? ティアナの未来見でもよく分からないんだしな」
レイモンドの言葉に二人は目を丸くした。モトロにはそのような柔軟な発想はない。ティアナも流石に恋人までは考えなかった。
「そうね。私達の行動で未来が大きく変わるって事だと思うわ。封印が解けたら、遠見である程度の事は把握できると思う」
結局、現段階で出来る事は限られている。この先の土地についてはまだ未知な事も多く、デュカスの出方次第では異国どころではなくなるのだ。
ティアナはふと長老から聞いた話を思い出した。この火山は大地の割れ目だったのだ。そして流れ出た溶岩で出来た土地が火の国という事は……。
「火の国も海に面しているのよね……きっと……」
「そういう事になるな……」
「こちら側に異国船が流れ着いてるって可能性もあるのかしら……」
先ほどの「難破」という言葉で思いついた事だ。そもそも、この大陸に来たのも漂流して来たのだから、あり得ない事ではないだろう。
「あり得ますね。季節によって海流も変わりますし、風も変わります。彼等の船は帆船でしたし、こちらに漂着しているかも知れません」
「そう言えば、異国についてはザイールに確認してなかったわ。迎えに来た彼に聞いてみましょう」
異国の存在は非常に繊細な問題だ。直接顔を見て話した方がいいだろう。ティアナの提案にレイモンドも深く頷いた。
「そうだな」
三人は荷物を括り付けたロバと共に「火の洞穴」と名付けた洞穴を進んで行った。
◇◇◇◇◇
ザイールは数人の兵士とロバ四頭引きの戦車を従えて洞穴の出口で待っていた。戦車の砲台を取り外し、荷台として使えるようにしてある。
使い込まれた鎧に身を包んだザイールはまさに歴戦の勇者といった風格で、初めてその姿を見たレイモンドは威圧されて立ち竦んでしまった。
モトロもそのただならぬ佇まいに息を飲み、ザイールがティアナに歩み寄るのをただ見ている事しか出来なかった。
「……久しいな……」
あの辛かった日に、優しく語り掛けてくれた声だ。懐かしさと罪悪感が同時に蘇り、鼻の奥がツンとした。
「……ええ。無事で……よかった……」
ティアナの目から涙がポロリと流れ落ちる。自分の無力を痛感したあの時、彼を見捨ててしまった自分の不甲斐なさを思い出すとやるせない。
ザイールは無言でティアナの頭を撫で、アルスによく似た顔で微笑みかける。
「大きゅうなったな……。しかも、強うなった……」
「……はい……」
「長旅ご苦労じゃった。荷物はここに……。ロバは一緒に戦車に繋いでやろう」
ザイールの指示で兵士達はテキパキと荷物を戦車の屋根に乗せ、ロバを繋いで五頭引きにしてしまった。
「さぁ乗れ。歩き疲れたじゃろう」
ザイールに押し込められ、三人は戦車の座席に座らされた。馬車とは違い、足元の悪い道でも走れる幅の広い車輪は力強く戦車本体を持ち上げている。
ザイールも乗り込み、前列にいたティアナの横に座って手綱を取った。後列にモトロとレイモンドが座り、他の兵士達は全て荷台に乗り込んだ。
「え……貴方が御者をするの?」
五頭ものロバをいともたやすく操り、戦車を走らせるザイールの姿にティアナは舌を巻いた。まるで初めから五頭引きだったかのような見事な連携でロバは黙々と戦車を引いている。
「わしが一番上手くてな。奴らは四頭までしか操れん」
「……そうなんだ……」
ティアナはふと、自分が謝罪していない事を思い出し、ザイールに向き直った。
「……あ……えっと……、あの時は本当にごめんなさい……。私がちゃんと隠れていたら、あんな事には……」
「過ぎたことじゃ。そもそも、わしを見捨てたのはアルスじゃろ?」
「あ……」
「どうせ、わしならあの程度で死なんとか言われたんじゃろ?」
「……そう……です……。ごめんなさい……」
言ってから、その後何も連絡しなかった自分を恥じた。
「まあ、親子なんてそんなもんじゃ」
「そうかも……知れないけど……」
「お主とアルスの関係は分からんがな。親子で師弟なのはわしとアルスとて同じことじゃが……」
思わず身を固くしたティアナは、ニヤリと笑われ、顔が紅潮するのを感じた。約束の地からの連絡でアルスとの親子関係は告白したが、どうやらそれ以前からその事に気付いていたような気がしてならない。
「ねえ……いつから……気付いてたの?」
ティアナがポソリと言うと、ザイールは吹き出した。
「最初からな。やけにアルスに似た赤ん坊じゃから、どうせ母親の弟が父親の出自を調べて、生まれた子供を押し付けるつもりじゃろうと思ったんじゃよ」
飄々と言われ、ティアナは呆然とした。もしかして、それ以前にもそのような事があったのだろうか。
「まさかあいつが女装した男に求婚するとは思わなかったが、お前を見て何か感じたんじゃろ」
恐れ入った。ティアナはザイールの洞察力に脱帽し、座席に背中を埋める。
「して、孫のダイナよ。お主はいつ、立つつもりじゃ?」
鉛色の目がギラリと光る。
「……フィアード達を解放したら……合図するわ」
この頼り甲斐のある祖父が味方である事を願いながら、ティアナは荒涼とした大地を見つめていた。
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