第105話 死霊の導き
「じゃあ、ちょっと部屋に戻るわね」
ティアナは身支度をするために宿の部屋に転移した。
「あ……やべ。俺も忘れ物してた……」
レイモンドは長老に渡す資料を忘れていた事に気付く。いくら盲目と言っても、資料を渡さない訳にはいかないだろう。
長老の所に行くのはそれほど急いではいない。レイモンドとモトロは宿に向かって歩き始めた。
宿の部屋に戻ったティアナはその異様な静けさにゴクリと息を飲んだ。
「……あ……」
色彩のない部屋の寝台に、薄緑色の髪の青年が腰掛けていた。
「やぁダイナ、また会ったね」
「デュカス……」
ゾクリ、と背筋が震える。逃げないと、そう思った瞬間に両手を捉えられていた。
「ふふ……やっぱり、あんな岩だらけの所じゃ、何も出来ないもんね……」
グイッと引き寄せられて、そのまま寝台に押し倒される。大抵の事ならば対応できるつもりだったが、ティアナが身構える隙を与えてくれなかった。
「や……イヤ!」
色彩の無いこの世界で動けるのは自分達だけ。その事実に恐怖を覚える。青年の唇がティアナの首筋に押し付けられ、色違いの双眸から涙が溢れる。
「やめてっ!」
「くく……。いいね。まだ綻び始めた所なのがそそる……」
青年の手がその細い腰を弄り始める。着衣の中に入り込んだ手が身体を這い回る。恐怖で体が竦んで何も出来ない。
「イヤ……、やめて……! 助けて……!」
自分が思った以上に無力で、ティアナは愕然としながら、悠然と見下ろすデュカスの顔を見上げた。
「あれ? おかしいな。何度もやり直してるんだろ? まさか初めてじゃないんだろう?」
「……!」
ギクリ、とティアナの身体が強張ると、デュカスはその漆黒の目を見開いた。
「へぇ……初めてなの? それはいいねぇ。じゃあ……」
男の手がティアナの膨らみ始めた胸を包み込み、その頂に触れる。
ビクリとして身体を引き、ティアナは首を振った。違う、この男じゃない。
「……イヤ……」
「君は僕の花嫁だよ。ちゃんと身体に教え込んであげるね」
ニヤリと笑い、その身体がティアナの脚を割り開こうとしたその時、ピシリと空間に亀裂が入った。
『ティアナ……どうしたっ!』
耳に聞こえてきた声にハッと我に返る。この声は……彼だ!
「フィアード! フィアード! 助けて!」
『ティアナ!』
空中に手を伸ばした瞬間、逞しい腕がその身体を抱き寄せた。
「フィアード! フィアード!」
助けてくれた青年の背中に両手を回し、その胸に顔を埋める。周囲に色彩が戻ってくる感覚があり、邪悪な気配が消えていった。
「……ティアナ……」
「フィアード……!」
ポロポロと涙をこぼしながら、そっと顔を上げ、ゴクリと息を飲む。
「あ……レイ……モンド……」
逞しいレイモンドの腕にしっかりと抱き締められていた。そうだ。フィアードの腕がこんなに逞しい訳がない。だが、声が……。今初めて気付く。声がこんなに似ていたなんて。
「……あ……ありがとう……。助けてくれて……。デュカスが……」
レイモンドはフッとティアナから目を逸らし、厳しい顔で窓の外を見やった。
部屋の中から声が聞こえ、慌てて飛び込んだらティアナが一人で寝台で暴れていたのだ。
一人だったはずだが、ティアナの髪と着衣は乱れ、首筋には赤い痕がある。何があったのか一目瞭然で、とても正視出来ない。
まさか、時空の狭間から直接手出しが出来るとは思わなかった。
「……ごめん、レイモンド。貴方だって気付かなくて……」
「……ふん……。とりあえず……早く名付けないとな」
いつの間にかすぐ隣に来ていたモトロがティアナの首筋をそっと撫でると、赤い痕が消えた。
「……触れられた所は何処ですか? 全部清めておきましょう」
モトロの声はゾッとするほど冷たい。デュカスに出し抜かれた怒りに肩が震えている。
「ごめんなさい……私が油断してたわ。転移する時に一瞬時空の狭間を掠めたんだと思う……」
ティアナは身体を水の精霊に隅々まで浄化され、少し気持ちが落ち着いてきたようだ。
「成る程……ならば、転移で向こう側に行くのも危険だな……」
「そう言う事になるわね……。とにかく早く名付けないと……落ち着かないわ……」
名付ける事で、デュカスからの手出しを抑える事が出来るならば早い方がいいだろう。
「そうだな。このままじゃ、俺もゆっくり寝られないしな……」
ティアナがうなされる現場を見るのも兄と間違われるのも、もう御免だ。レイモンドは苦々しい顔で溜め息をついた。
◇◇◇◇◇
村の外れに小さな小屋があった。そこが長老の住居だと言う。
周りにはこの土地でも栽培できる芋畑が広がっているが、さしたる手入れの必要も無いのか人気はまばらだ。
レイモンドはティアナを従えてその小屋の扉を叩いた。
「……ソルダード殿よりご紹介に預かりましたレイモンドと申します」
「……うむ。入りなされ」
しわがれた声で返答があり、レイモンドは扉を押し開けた。ギギギ……と鈍い音がして扉が開き、真っ暗な部屋が広がっている。
「そのまま真っ直ぐ歩くんじゃ」
レイモンドは恐る恐る部屋に足を踏み入れた。ティアナはスッと目を細めた。彼女には中の様子が手に取るように分かるので、確かな足取りでレイモンドの後を歩く。
「……うん? お連れの方はどなただね?」
その迷いのない足音に驚いたのか、老婆は意外そうな声を上げた。
「……あ……、私の弟子です」
どう答えるか悩む間も無く、口を突いて出た答えは嘘ではない。レイモンドは全てを見透かすような声に冷や汗をかきながら、ジリジリと歩を進めた。
「……そこに座りな。それから、お嬢さんはわしの前に来なされ」
ギクリと二人が身を固くする。何故足音が女性だと分かったのだろう。剣を帯びているので、カチカチと金属音がした筈だ。普通なら剣士だと思うだろう。ティアナはゴクリと息を飲み、闇に佇む老婆を観察した。
とりたてて何の特徴もない年寄りだ。盲目だからか、身なりに拘りがないというのは分かる。だが、その全身を覆う雰囲気は並々ならぬものであった。
「……ようやく……約束が果たされますな……」
ポツリと老婆が呟き、ティアナはその目から透明な雫が流れ落ちるのを見た。
この老婆は知っている。ティアナは直感してその目の前にゆっくりと腰を下ろした。
「……お初にお目にかかります。……貴女は何者ですか?」
ティアナの言葉に老婆は口元を吊り上げ、閉じていた目を開いた。
「……!」
一見黒に見える深い緑色の目。そして全身から溢れ出す魔力。髪はすっかり白くなっているが、恐らく元の色は漆黒だ。
「貴女は……黑の魔人……ですね……」
「うむ」
大地の精霊から無尽蔵の生命力を受け、魔人の中でも最も長命と言われる黑の一族。その長老である彼女が何故、このような人間の村で暮らしているのか。
レイモンドはようやく闇に慣れた目で二人を交互に見やる。何かとんでもない所に居合わせている気がして、胸が早鐘を打つ。
「……約束……とは何のことですか……?」
ティアナの言葉に、老婆はゆったりと笑い、そして深い溜め息をついた。
老婆が幼い頃、世界は大きな大陸で繋がっていた。大陸の四隅には魔族がそれぞれ村を構えて暮らしていたのだと言う。
人間は脆弱で短命だった為、厳しい自然の中で生き抜く事に精一杯で、次世代に何かを残す余裕などなかった。それ故、魔人達は人間など歯牙にも掛けなかった。
だが彼等は念のために、いずれ神の化身を産み落とす可能性のある神族の元には見張りを置くことにした。
公平を期すために、全ての魔族の血を引く存在を作り出し、神族の元へ送り込むことに成功した。しかし、待てど暮らせど神の化身は産まれない。
やがて直情的な緋の魔族が魔力を振りかざし、人間を支配して奴隷のように使い始めた。慎重な黑の魔族はそれを諌めて、人間との共存を唱え、両者の関係は悪化した。
一方人間との関わりに激しく反対したのは閉鎖的な皓の魔族である。奔放な碧の魔族は我関せず。人間などと関わり合いにならずに好きに暮らせばいい、と飄々としていた。
魔族と人間の関わり方で揉めた魔族同士の争いは徐々に激しさを増した。やがて水は枯れ、大地は痩せ、風は淀み、太陽の光は翳った。
そんな自然の変化に人間は翻弄され、その人口を三分の一にまで減らしたと言う。
そしてその醜い争いは他ならぬ人間の手によって終止符を打たれたのである。
魔人を恨んだある呪術師が、争いに巻き込まれて命を散らした人間達の死霊を束ね、母なる大地に叩き込んだのだ。
大地は風を巻き込み、火を噴きながら割れ、その間に水が流れ込んで深い海溝を成した。
死霊の怒りで渦中にいた緋の魔人数人と黑の魔人の数人が取り残され、切り離された大地は流されて何処かへ消えて行ったと言う。
呪術師は言った。
「神が来ぬ限り、この火が消える事は無い。この火がある限り、切り離された眷属と再び見える事はないだろう」と。
大地の割れ目には吹き上げた溶岩が流れ込み、荒涼とした新たな大地が形成された。噴火のたびにその大地は広がり続け、広大な不毛の平原となった。
緋の魔人達は噴火をものともせずに火山を越え、切り離された大地に向かうと言って広大な不毛の平原に消えて行った。
黑の魔人達も仲間の元に戻る為に、必死で火山を越えようと彷徨い、そして噴火に巻き込まれてその殆どが命を落とした。
幼さ故、残った彼女は一人、人間に紛れて暮らす事を余儀なくされた。幸い、纏っている色彩は他の魔族よりも人間に溶け込みやすい。孤児となった彼女は村人に迎え入れられた。
やがてその寿命により村の誰よりも長命となった彼女は村外れに居を構え、村の意見番として一目置かれる存在となった。
数多の年月を経て、彼女はある答えを導き出した。呪術師の言葉を思い返すと、「神が来ぬ限り、この火は消える事は無い」つまり、「神の化身がこの地を訪れたら、火は消える」という事なのではないか。
そして、時間を掛けて見出した呪術師の末裔を通して「死霊となった後でも、神の化身をこの地に導く」という約束を交わしたのである。
老婆の長い話を聞き、ティアナはゴクリと息を飲んだ。その呪術師の死霊がデュカスを操っているのか、それとも、デュカスそのものなのか。
確かに彼によって、ティアナはこの地に導かれた。しかし、今の彼女には死霊の怒りを鎮める力は無い。
「……私には、今、神の化身としての力はありません」
「ふぉふぉふぉ、これだけ力に溢れておっても、力が無いと言うのか」
今、肌で感じるのは普通の魔人程度の魔力。人の身であれば充分過ぎるほどの魔力である。
「これは名付けによって得た魔力。本来の私の力は火山の向こう側に封じられています」
「ほぉ……名付けとな……」
皺だらけの顔に更に皺を刻みながら、老婆は興味深げに目を輝かせる。
「ええ。土地に名付けるとその土地から魔力を得る事が出来るんです」
「初耳じゃな。……それはお主が神の化身じゃから出来る芸当じゃろう。他の誰かに真似できるものではなさそうじゃ」
ティアナは目を細めた。彼女はデュカスの事を知っているのだろうか。彼ならば名付けなど簡単にこなしてしまいそうで恐ろしい。
「今の魔力では、封印を解きに行く事も出来ません。この村に名付ければ、封印を解く為に火山を越えられる。そうすれば、その約束を果たす事も出来るかも……」
「ふむ……」
「お話を聞かせて下さってありがとうございます」
名付けのヒントを貰うつもりが、とんでもない話を聞く事になった。ティアナは今聞いた話を整理しながら、老婆に頭を下げる。
「封印が解けたら……また顔を見せてくれ。そしてこの火を止めてくれ……」
「……分かりました。それから……色々協力して欲しい事があります……」
「ふむ。その男の出番という訳じゃな」
「ええ」
ティアナは呆然としているレイモンドの腕を引き、老婆の前に座らせて自分はその後ろに控えた。
「……あ……ええと……」
完全に出鼻を挫かれたレイモンドはしどろもどろになりながら冒険者協会について説明し、なんとか老婆から営業の許可を引き出す事に成功した。




