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第6章

「はあ、はあ、これでも、学生時代は、運動部だったんですけどね。さすがに、衰えたもんです」

 遭遇から約20分後、最後の坂を登り切り彩音は正門の前に辿りついた。急な運動と追われる恐怖で膝はがくがくと震え、心臓は張り裂けんばかりに脈打っていた。今なら夜鷹の言っていたことがよくわかる。霊に憑かれることがどれほど怖いか、どれほど心細いか。ならばこれは一つの罰なのかも知れない。被害者の心情を考えず見捨てた自分へ、その恐ろしさを知らしめるための。

「当てつけもいいとこですっての。うざったいですね」

 鎌首をもたげようとする罪悪感を憎まれ口で押さえつけた。そんなことで心改めるくらいなら、とうの昔に妥協している。忌わしい過去を払拭するためには、恥も外聞も誇りも人情も捨てると決めた。ここで気を緩めてしまえば、それこそ今まで捨ててきた全てに申し訳が立たない。彩音は自らに科した枷を心の中で強く自分に言い聞かせた。

 呼吸を整えながら坂の下をあえてふてぶてしく見下ろすが、見える範囲に『暗がりの男』の影はなかった。また少し距離を置けたのだろうが、かといって安心していられる状況でもない。彩音はすぐに後ろに向き直り、校内への入口を探した。それほど遅い時間と言うわけでもないのに、教師たちも既に帰ってしまったらしい。校内は無人の静寂と暗闇に包まれていた。当然のごとく正門は閉ざされており、よじ登ることも難しそうだ。とりあえず正門に沿って歩いてみると、門柱の横に小さな扉が付けられているのを見つけた。門を施錠した後に出るためのものだろう。試しにドアノブを捻ると、小さな金属音を軋ませ戸は内側に開いた。ゆっくりと、しかし迷わない足取りで彩音は敷地内に踏み入った。ほんの数メートル境界を越えただけにもかかわらず、校外とはまるで違う異質な雰囲気が漂っていた。

「何とか、間に合ったみたいだね。無事でよかった」

 不意に背後から声をかけられた。振り向くと、制服を着た男子学生が彩音の開けた戸を静かに閉めているところだった。突如として現れた人物に、しかし彩音は安心していた。その声が先ほど聞いたものと同じだったからだ。

「あなたが、電話の……」

「そうだよ。やっと会えたね、彩ちゃん」

 そう言って少年は朴訥な微笑みを浮かべた。彩音のそれと違い全く嫌味な感じがしない。そしてその声には確かな思いやりと親しみがこもっていた。そのせいか、ずいぶんと気さくな呼び方だったが不快感はなかった。

「とは言っても、初めましてではないんだよね。僕にとっては」

「どういうこと、ですか?」

 人の顔と名前を覚えるのが得意な彩音だが、少年の顔にも声にも覚えはなかった。しげしげと少年を目するが記憶の中に思い当たるものはない。ただその代わりに、少年の着ている制服が夜鷹のものと少し違うことに気付いた。校章や全体的なデザインは斑坂高校の制服に間違いないが、細部が所々異なっている。かといって改造しているという風には見えない。むしろどこか古ぼけた印象を持たせた。

「わからないのは無理もないよ。あのときは見えてなかったろうからね。でも、まさかこけしと間違われるとは思わなかったな」

 胸ポケットから名刺を取り出し、少年は笑った。その名刺は間違いなく彩音のものだった。こけしと名刺。彩音の中で数日前の記憶が蘇った。

「ま、まさか……、部長、さん?」

「ピンポーン、大正解」

 上ずった声で聞くと少年は嬉しそうに相好を崩した。そしてすい、っと宙に浮かびあがり両手を広げた自己紹介をした。

「改めまして、僕の名前は古畑稔。斑坂高校オカルト研究部初代部長にして永久欠番。今はわけあってこの学校にとり憑いてる自縛霊をやってるよ」

 古畑の口上を聞きながら、彩音は当時のやり取りを思い出していた。あの時、あの部屋の中には古畑の霊も一緒にいたのだ。そして彩音だけが古畑を認識できていなかった。夜鷹の言葉も決して嘘やごまかしではなかった。それがわかっても、こけしに名刺を渡した自分の間抜けぶりに彩音は赤面した。

「わっかりにくいんですよ、あの人は! あの言い回しで気付くと思いますか、普通!」

「いやぁ、鷹くんのあれは素でやってると思うよ。当たり前にいるもんだから、たまに忘れちゃうらしいんだよね。普通の人には僕が見えないってこと」

 古畑は楽しそうに苦笑して、次に表情を引き締めた。

「けどね、僕が見えるようになったってのはあまりいいことじゃないんだ。眠っている霊感が活発になるってのは、とり憑かれて霊気にあてられた影響だよ。どうにも想像以上に深く憑かれてるみたいだね。うーん、何がそんな縁を結んだんだろう」

 さかさまに浮いたまま古畑は腕を組み、考え込んだ。見るからにおかしな光景だが、それに違和感を覚えないほど彩音の心は麻痺していた。悪霊との追いかけっこを切り抜けた今となっては、よほどのことでないと心動かない自信があった。

「まあ、ここで考えてても仕方ないか。とりあえず、部室に行こう。校内にいればまず大丈夫だけど、あそこが一番安全だからね」

「あ、あの、そこがまずわからないんですけど。そもそも何でこの学校は安全なんですか? 普通、夜の学校ってちょっとした心霊スポットじゃあないですか」

「まあ、余所はそうだろうね。けどうちは違うんだよ。歴代のオカルト研究部員たちが僕の指示のもと、校舎や敷地の至る所にお呪いを仕掛けているからね。ちょっとやそっとの霊は近づくこともできないんだ。あ、冴ちゃんが連れてきてるのは別ね。あれはあの子が入るのを許可しちゃってるから」

「まさしく結界ってやつですね。その集大成が、あの部室ってことですか」

「そういうこと。だからこの学校には七不思議ってのもないんだよ。冴ちゃんは残念がっているけど、おかげで鷹くんはすごく快適みたいだね。鷹くんをここに誘ったのは冴ちゃんなんだけど、そのことをまだ恩に思ってるみたい」

 日常から溢れるほどの霊を目にしている夜鷹にとって、この校内は静かな生活を送れるただ一つの空間だった。霊は怖いのだと断言した夜鷹には、この高校の存在はどれほどの救いになったのだろうか。そのことを考えると夜鷹の冴崎に対する態度も納得できた。

「それじゃあ、行こうか。疲れたろうから休憩しよう。それにあれも返さなきゃいけないからね」

「あれ、と言うと?」

「君の仕掛けた盗聴器だよ」

 子供の悪戯を見通すように、古畑は余裕のある微笑みを浮かべていた。夜鷹にも冴崎にも気付かれなかった仕込みだが、見えない部長にはしっかり見られていたらしい。彩音は言い訳も思い浮かばず、苦笑いを浮かべるしかなかった。


 それから彩音は古畑に続き、下駄箱から校舎に入って行った。上履きは持っていなかったが、古畑が構わないといったので言葉に甘えて土足で上がり込んだ。静まり返った校舎には彩音の足音だけが響く。霊とはいえ、古畑がいなければ心細さに潰されてしまったかもしれない。隣に浮かぶ半透明の少年を、彩音は心の底から頼もしく思った。

「…………っと、まずいねこれは」

 そんな古畑の顔が曇ったのは、教室棟の階段を上がり二階まで上ったときだった。もう一階上り、渡り廊下を進めばすぐに部室に辿りつく。にもかかわらず、古畑は難しい顔をしたまま宙に止まり動こうとしなかった。

「どうしました?」

「……いやあ、それが入ってきちゃったみたい。あいつ」

 申し訳なさそうに伝えられた言葉に彩音は固まった。すぐさま窓から校庭を見下ろすが、怪しい影は見当たらない。しかし返り見る古畑の表情から、それが性質の悪い冗談ではないことがわかった。

「入ってきたって、だって、入れないんじゃなかったんですか!? 結界はどこ行ったんですか!?」

 彩音の声が校舎に反響した。すぐさま古畑が口に指を添え、厳しい表情で彩音を諌めた。

「静かに。まだあいつはこっちの正確な位置を掴んでない。向こうでうろうろしてるだけだよ。ここは霊を迷わせる作りにもなってるからね。けど、場所が知られたら一気に近づいてくるよ」

 いつになく険しい表情の古畑に、彩音は自分の口を両手で塞ぎこくこくと頷いた。しばしの沈黙。自分の耳に聞こえる音がないことを確認して、手を離し息をついた。彩音はひそめた声でできるだけ強く抗議した。

「どういうことですか! 歴代のお呪いは効かなかったってことですか!?」

「うーん、正確に言うとね、この学校に張っているのって結界と言うよりも障害なんだよね。壁があるってイメージじゃなくて、そうだね、すごく嫌な音や臭いがするって感じ。大抵の霊なら耐えられずに近づけないものなんだけど、強い意志があればできないこともないんだ」

「それを早く言ってくださいよ! じゃあダメじゃないですか! 全然安全じゃないじゃないですか!」

「いや、本当によほどのことがない限り入ってこれないんだよ。ここ30年で初めてのことだよ。よっぽど強く結びついちゃってるんだね」

「もういいですよ、それは! 霊と結ばれたって全く嬉しくありません。それよりも、早く移動しましょう! 確か部室はもっと強固な結界なんでしたよね?」

「うん、そう。そうなんだけど…………」

 ぽりぽりと頬を掻きながら、古畑は言いにくそうに明かした。

「今あれ、部室の方にいるんだよね」

「嘘でしょ…………」

 がっくりと彩音はうなだれた。あげてから落とされた衝撃に打ちのめされて、今までの疲れが一気にぶり返してきた。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。もういっそ、捕まってしまった方が楽になれるのでは――

「彩ちゃん、いけない!」

 古畑の声に彩音ははっと顔を起こした。今自分は何を考えていたのか。思い返し、即座に自分の不覚に思い至った。霊は弱い心に忍び寄る。一瞬でも垣間見せた彩音の弱音は『暗がりの男』にとって絶好の隙だった。

「まずいね、見つかった」

 古畑の言葉の簡潔さが事態の深刻さを物語っていた。そしてそれ以前に彩音ははっきりと感じ取っていた。どことも知れない彼方から、しっかと向けられた意識を。それは電柱でやり過ごしたときよりもはるかに色濃く、息遣いを感じさせるほど確かなものだった。

「仕方ない。ここは僕が何とか時間を稼ぐから、彩ちゃんは迂回して部室に向かうんだ。鍵は開けておいたから、部室に入ったらすぐに鍵をかけて何があっても開けてはいけないよ」

「でも、部長さん、大丈夫なんですか!?」

「あんまり喧嘩事は得意じゃないけどね。まあ何とかしのいでみるよ。ここは任せて、先に行けってやつさ。これ、生きてるうちに言ってみたかったんだよね」

 もはや死亡フラグの金字塔とも言える言葉を告げ、古畑は豪胆に笑った。その顔には心なしか冷や汗が流れているように見えた。死んでからの年月は古畑の方が長いだろうが、相手は既に何人もとり殺しているような悪霊だ。古畑が戦い、勝利する姿は到底イメージできなかった。彩音の脳裏に、これが最後の別れになるのだという直感が浮かび上がった。

「ダメですよ、部長さんだけ置いていけません! 一緒に――」

「三倉ぁ! 伏せろ!!」

 古畑を連れて行こうと言いすがる彩音の声は背後からの怒号にかき消された。急に呼ばれた自分の名前に、彩音は内容を把握するより早く振り返った。その鼻先数センチを、風切り音とともに高速回転する木刀が突っ切る。そして同様に振り向いた古畑の眉間に鈍い音を立ててめり込んだ。

「ぐぎゃん!」

 古畑は無様な声を上げて木刀と一緒に吹き飛んでいった。彩音はあっけにとられ、音もなく廊下に倒れ込む古畑と、からからと軽い音を立てる木刀を眺めていた。

「間に合ったか」

「…………よだか、さん?」

 暗い廊下の先から姿を現したのは、ファミレスで別れたはずの夜鷹だった。彩音の視線を受けて気まずそうに顔を逸らすが、近づく歩みが止まることはなかった。乱れた息や額の汗を袖で拭う様から、彩音同様走ってここまで来たのがわかった。

「どうして、夜鷹さんが…………」

「部長に呼ばれたんだよ。携帯で、お前がやばいって。しかしぎりぎりだったな。もう少しで――」

 転がる木刀を拾いながら、自分の打ち倒した相手を見て夜鷹は言葉を止めた。ふむ、と顎に手をあて思案する。

「…………部長に似てるな」

「部長さんですよ!!」

 とぼける夜鷹にあらん限りの声でつっこんだ。

「何をしてくれちゃってるんですか! 助けてくれた恩人に向かって! せっかくあんなに格好よく決めてたのに、部長さんぐぎゃんとか言っちゃってましたよ! かっこ悪い!」

「いや、恩を感じてるならかっこ悪いとか言ってやるなよ。それに、仕方ねえだろうが。お前がとり憑かれてとか言われて、来てみれば現にすぐ横に霊がいるんだから。そりゃ木刀も投げるだろ」

「最低限の確認くらいしてくださいよ! て言うか投げた木刀もぎりぎりだったじゃないですか! 伏せろって言ってましたけど、あれ伏せてたら私に当たってましたよね!? 振り返って半身になったから良かったものの!」

「お前に当たれば部長は助かったのにな」

「夜鷹さんが気を付けていれば誰一人傷つかずに済んだんですよ!!」

 彩音の怒声が校舎にこだました。さすがにバツが悪いのか、所在なさげに夜鷹は目を泳がせた。掛け合いが終わると、途端に話すことが無くなりぎこちない間が続いた。

「…………何で、来たんですか?」

 先に口火を切ったのは彩音だった。俯き表情を見せないまま、夜鷹に問いかけた。

「何で、助けに来てくれたんですか? だって私は」

「うるせえよ」

 皆まで言わせず、夜鷹が遮った。彩音が顔を上げると、決まりが悪そうにふいと横を向いた。

「俺は相手がどんなに嫌な奴だろうと、霊害にあってるなら助けるって決めてんだよ。お前のことはぶっちゃけ嫌いだが、それとこれとは別の話だ」

「……そう、ですか」

 言葉の割に夜鷹から悪感情は読み取れなかった。そのことが妙に嬉しくて、彩音はむずむずと眉尻が下がるのを感じた。けれどそのことを夜鷹に知られるのが何故か癪に思えて、自然のものではない作り笑いでごまかした。

「私も見習わなければいけませんね。昨日の一件も、ああいうあばずれはぶっちゃけ大嫌いなんですが、それはそれとして仕事は仕事と割り切るべきでした。自分の肥やしになるのだと思って、やり過ごしておけばよかったと反省しています」

「…………まあ、いいよ、それで。お前はその方がしっくりくる」

 どこまでも打算的で計算高い。そんな言葉だからこそ、どんな美辞麗句よりも信用できた。あれほど嫌悪していた胡散臭さも今となっては程良く馴染み、居心地がいいとさえ思えた。こうして、決別したはずの二人はどちらから謝ることもなく和解した。

「うんうん。二人とも仲直りできたみたいでよかったね。僕も気をまわしたかいがあったってものだよ」

 横手から聞こえた声に、夜鷹も彩音もぴしりと硬直した。気後れしつつも目を向けると、廊下の隅に膝を抱えて古畑が座り込んでいた。その瞳に深い悲しみを秘め、どこか遠くを眺めていた。

「まあ僕のことは気にしないでよ。所詮はとうに死んだ人間だからさ。誰にも気付かれないなんていつものことだしね」

「あの、なんか、すいません……」

「ご、ごめんなさい……」

 痛ましい自虐ネタに居たたまれず、とりあえず謝った。二人の謝罪を受けて、古畑はぷっと吹き出して浮かび上がった。顔に残った憂いを払拭して、肩をすくめて朗らかに笑う。

「ごめんごめん、冗談だよ。ちょっといじけて見せただけ。本当によかったと思ってるんだ。部室で見たときから、二人はいいコンビだと思ってたからね」

「そ、そうっすか?」

「うん。けど今度から気をつけてね鷹くん。君の木刀は、僕らには本当によく効くから。危うく昇っちゃうとこだったよ。まあ、今はそれが頼もしくもあるんだけどね」

 古畑は表情を引き締め、背後の廊下を睨みつけた。つられて彩音も目を向け、不自然な光景に気付いた。宵闇の降りた廊下、だがそれでも完全な真っ暗闇というわけではない。窓からは仄かな光が入ってきているし、細部は見づらくとも縁取りくらいは判別できる。にもかかわらず、ある一角だけは完全な暗黒に塗りつぶされていた。

「あれって……」

 思わず後ずさる彩音に呼応するように、ずるりと闇が忍び寄ってきた。その中央に白い顔が虚ろな表情を浮かび上がる。

「闇の中に現れるんじゃなくて、闇を引き連れて動くようになったか。霊化が進んで、人間離れしてきたな」

 彩音と古畑をかばうように進み出て、夜鷹は『暗がりの男』と正対した。じわじわ忍び寄る闇に睨みを利かせながら、ポケットに手を入れ食塩の小瓶を取り出した。古畑に連絡を受けた後、学校に向かう途中に寄ったファミレスから拝借してきたものだ。量は一握りあるかなしか。振りかけて使うことはできないだろう。そう判断した夜鷹はビンの中蓋までとり払い、廊下を横切るように塩で一本の線を引いた。

「何ですか、それ」

「塩は清めの象徴、そして空間を区切る線は境界を示す。簡易的な結界だね」

「多分、あんまり効かねえだろうけどな」

 塩の境界に闇が触れた。バチバチと音を立て青白い光がほとばしるが、闇に引き下がる様子はない。どころか逆に境界の塩が上部からだんだんと黒く染まり始めた。

「行くぞ、長くは持たねえ」

「うわっ、ちょ!」

 彩音の手を掴み、夜鷹は走り始めた。彩音が離れると背後の音はより激しくなった。追いすがろうとする意志に震えがこみ上がる。そして数メートルと進まないうちにガラスが割れるような音がして、音と光が止んだ。

「階段だ、上に行くぞ!」

 廊下の端に辿りついた夜鷹は、彩音の手を引いたまま階段を駆け上った。彩音も引っ張られるまま必死について走る。踊り場を越え、3階に上り着いても夜鷹は足を止めず、次の段に足をかけた。

「あの、部室は3階ですよ! どこまで行くんですか!?」

「今さらこもったってらちが明かねえよ。屋上に出る! 部長、鍵を」

「任せて」

 夜鷹に呼ばれて、古畑は先行して飛び上がった。階段の先にある扉に腕だけすり抜けさせ、ドアノブを内側から解錠した。古畑の開けたドアを抜け、走り出るなり生温かい風が吹き付け二人を出迎えた。平時なら気持ちのいい場所なのだろうが、今は分厚いな雲に見下ろされ不吉な空気がたゆたっていた。

「屋上って、ここに何があるんですか?」

「何もねえよ。何もねえから、存分に振れるんだろうが」

 彩音の腕を掴んでいた手を放し、夜鷹は両手で木刀を握りしめた。屋上の中央まで進み出て、すうっと息を深く吸い込む。適度に全身の力を抜き、腰を少し落とす。鋭く光る眼光が完全な臨戦状態に入ったことを示していた。

「お前は後ろ見てろ。相手はもう人間の習慣を忘れ始めてるからな。ドアから出てくるとは限らねえぞ」

「それじゃ、僕は上から見てるね」

 古畑は浮かび上がり、彩音と夜鷹は背中合わせに周囲を見張った。付きまとっていた霊気は今でも強く感じられる。ただあまりに濃い存在感に正確な位置を掴めずにいた。じりじりとひりつくような恐怖がにじり寄ってくる。

「……お出ましだ」

 夜鷹の眼前に何の前触れもなく暗い影が落ちた。廊下で見たときよりも大きく、周囲の光を食らいながらぞわぞわと渦めいていた。先も見通せない暗闇の中、男の顔だけがはっきりと見てとれた。感情の読めない空っぽの視線を、夜鷹の肩越しに彩音へ向けていた。その虚ろな視線から守るように、夜鷹が彩音の前に割って入った。改めて面と向かった『暗がりの男』に、夜鷹は確信を持った。

「……間違いねえな。こいつは噂でできた霊体じゃねえ」

「どういうことですか……?」

「実体、霊相手に実体ってのもおかしな話だが、こいつは霊としての軸を持ってる。噂から作られた後天的な霊じゃねえ」

「そんな、だって、浄霊は成功したはずじゃ……!」

「そこなんだよな。わからねえのは」

 あの夜、公園での浄霊は確かに成功していた。『暗がりの男』こと長臣雄介の霊は完全に消滅した。だからそれ以降の目撃例は、噂から生まれた二次的な霊障のはずだった。しかし目の前にいる男には作られたものではない、生々しいほどの迫力があった。

 本来、人々の流言から生まれただけの怪異は大した力を持たない。それこそ全国的に知られるほどメジャーなものなら話は別だが、一部地域で流行っているくらいの怪談ならば目撃談が増える程度だ。しかし作り話ではなく実際に霊がいる場合は話が違ってくる。もともとの霊に人々の念が加わり、より強力な霊障を引き起こすようになってしまう。現に相対した『暗がりの男』は、以前に公園で見たものより遥かに禍々しい威圧感を放っていた。

「まあ、やることに変わりねえけどな」

 木刀を構えたまま、夜鷹は一歩踏み出した。相手が誰だろうが、正体が不明だろうが、夜鷹の方針は変わらない。ただひたすら木刀で打ちのめす。身についたスタイルに気負いも緊張もない。事前の走り込みで適度に筋肉はほぐれ温まっている。戦闘開始にはベストと言えるコンディションだった。

「ちょっと待ってください!」

「ああ!?」

 今にも斬りかからんとする夜鷹の出鼻をくじいたのは彩音だった。夜鷹は少し脇にそれ、横目で彩音に視線を返した。

「今からするのって、除霊ですか、浄霊ですか?」

「さあ、除霊になるんじゃねえの? こいつの浄霊は前に一回失敗してるからな。同じ方法じゃあ、完全に清めることはできねえだろうし」

「それじゃあダメです」

 場の空気にも物おじせず、彩音はきっぱりと言い切った。

「除霊じゃあダメです。それじゃあ何も変わらない。同じことの繰り返しです。今、ここで、完全に浄霊してしまわないといけません」

 ここで夜鷹が霊を祓えば、彩音の安全は確保される。だが彩音から剥がれた『暗がりの男』が次に誰に憑くかはわからない。そしてその誰かが対応を誤れば、また犠牲者が増えてしまう。霊障の恐ろしさを経験した今となっては、その危険性を容認することはできなかった。

「何より、これ以上被害者が増えれば私の失点は取り返しのつかないものになってしまいます」

「ああ、よかった。いつものお前だった。誰か憑依してんじゃねえかと思ったよ」

 似合わない綺麗事を言い出したので、割と本気で心配していた。

「失礼ですね。私にだって公益に奉仕する心はありますよ。雀の涙に含まれる塩分くらいは」

「限りなく0に近いじゃねえかよ。まあいい。で、どうすんだ。清めようにも、あいつが誰だかわからねえとどうしようもねえぞ」

「私が突き止めます。その間、夜鷹さんは時間稼ぎをお願いします。手駒は手駒らしく、肉体労働に勤しんで下さいってことですよ」

「はっ、上等だ。だが急げよ、手加減するのは苦手だからな。早くしねえとすぐに終わらせちまうぞ」

 そう残して、夜鷹は今度こそ駆け出した。数歩で間合いを詰め、勢いをそのままに跳躍する。速度と体重を乗せ、上段から木刀を振り下ろす。切っ先は男の纏う暗闇にめり込み、ゴムのような鈍い感触が返ってきた。

「ちいっ!」

 木刀を押し返された夜鷹は、四肢を使って着地した。すかさず腕のように暗闇が伸びる。床を転がってこれをかわし、同時に距離を稼ぐ。立ち上がり体勢を整える夜鷹に脇から薙ぐように暗い腕が迫った。両手で構えた木刀で受け止めると、衝撃に夜鷹の身体が浮き上がった。床を滑り勢いを殺す夜鷹に再び黒い腕が掴みかかる。夜鷹は木刀を斜めに振り下ろし、腕を打ちすえた。しかし完全に止めることはできず、向きを逸らした腕が夜鷹のズボンを擦った。

 速さも堅さも威力も、以前のものとは比べ物にならない。暗闇の腕も人間の長さを越え、長く伸びるようになっている。いよいよ化け物じみてきた相手に、思わず苦笑いが零れた。

「……手加減してる余裕はもとからなさそうだな」

 対して彩音は夜鷹たちから距離を置き、屋上の隅でタブレットを開いていた。下りてきた古畑が傍に立ち、横から覗きこんできた。

「それで、どうなの? 心当たりはあるの?」

「ここにきて全く無関係の霊が混ざり込んでくるとは思えません。あれが長臣の霊でないとすれば、他の関係者のものと見るのが妥当でしょう」

 タブレットの画面上には、今回の霊害に関わる人物の名前が並んでいた。

・霊害の発端:長臣雄介(泥酔の上、用水路に転落、事故死)

・第一の犠牲者:工藤茜(女子中学生、長臣の死体を発見)

・第二の犠牲者:蓮杖美保(女子中学生、工藤茜の友人)

・第三の犠牲者:竿田勝也(大学生、蓮杖美保の家庭教師)

・第四の犠牲者:鈴本カンナ(女子高生)

 関係者と言っても長臣以外全てが犠牲者の名前だった。本人のプロフィールや家族構成、友人関係に略歴など、冴崎からもらった情報に自分で集めた内容も加えられている。しかしそれらのどの情報も報告書作成時に目を通したものばかりで、目新しい発見はなかった。

「あと残っているのは……」

 わずかに浮かんだ躊躇いを振り払い、彩音は「鈴本カンナ」のフォルダを開いた。そこには警察から貰い受けた事件の概要と、被害者に関する報告が入っていた。夜鷹に会うため、最低限のものしか読んでいなかった彩音は、残りのファイルを一つ一つ確認していく。被害者の個人情報、最近の人間関係、死体発見時の様子。目に入る文面を瞬時に読み取り、必要か否か判断していく。目まぐるしく変わる画面に、横から見ていた古畑は目をちかちかさせた。

「……あれ?」

 鈴本の資料を見始めて数分、タッチパネルを操作する彩音の指が止まった。開いているのは鈴本の死体が握りしめていたという携帯に関する報告資料だった。送り先の名前は通称が用いられており、本名は不明。ただ過去の履歴を見るに恐らく交際関係にあったものと推測されていた。未送信で残された文面は暗闇と恐怖を伝えるもので、読むだけで彩音は重苦しい気持ちに苛まれた。

 しかし彩音が目を止めたのはメールの内容ではなく送信先のアドレスだった。無機質に並んだ半角の英数字に、彩音は見覚えがあった。彩音はつい先ほどまで開いていたファイルを開き直し、もう一度読み返した。記憶を頼りに探すと、数分とかからず目当てのアドレスを見つけ出した。

「あった……」

 それは第三の犠牲者、竿田勝也のものだった。鈴本カンナが最後にメールを送ろうとした相手、二人は交際相手と思われるほど親しい間柄だった。途切れていた繋がりが一本の線となって結びついた。

「……これで、繋がりましたね」

「どういうこと? 確かに、3人目と4人目の間にミッシングリングがあったのはわかったけど。それは前の人たちと同じだし、新しい発見ではないんじゃない?」

「いえ、わからないことがわかったんです。最初から整理していきましょう。当初、私達は冴崎さんから『暗がりの男』を連鎖型の怪談として聞いていました。けれどこの時点で、一点不可解なことがあったんです。それはどうして話を聞いたうち、一人の前にしか霊障が現れないのかということです」

「確かに、珍しいことではあるね。冴ちゃんも言ってたけど、連鎖型の怪談っていうのは普通聞いた人全員に広がっていくものだから」

「ええ、そしてこの疑問点は先ほどの事実でより大きなものになっていきます。3人目の犠牲者である竿田勝也さん。彼は霊を信じない口だったのか、悩みを打ち明けない性質だったのか、ともかく『暗がりの男』に憑かれた後もその話を誰かにすることはありませんでした。親交のあったという鈴本さんも『暗がりの男』については何も知りませんでしたしね」

「被害者たちは全員繋がっていた、けれど怪談話は途中で途切れていたってことだね」

「そうです。この点に関して、私達は初め3人目と4人目を別の霊害として考えていました。3人目までは長臣雄介の霊によるもので、4人目は噂から独立した霊害によるものだと。それは4人目の霊害が確認される前に一度『暗がりの男』の浄霊に成功していたからです」

 四日前の夜、次のとり憑き先を追うことができない彩音たちは、降霊術で手掛かりを探すことを試みた。その結果は成功か失敗か、彩音たちは予期せず『暗がりの男』と相まみえることになる。どういうわけか結界を抜けてきた『暗がりの男』を夜鷹はそのまま浄霊してしまった。そのため、それ以降の『暗がりの男』は流言から発生した別のもの、独り歩きした怪談と見なしていた。

「でもそうじゃなかったわけだよね。現に鈴本って子はとり殺されるほどの影響を受けているし、さっき鷹くんが言ってた通り、あれは霊としての核をもった悪霊だよ。被害者に繋がりがあったことを考えても、全ては同一の霊害と考えた方がいい」

「そうです。そこで湧いてくるのは二つの疑問です。まず一つは何故浄霊したにもかかわらず霊害が続いたのか。もう一つは何故鈴本さんのもとに連鎖が繋がったのか、ということです。けれど二つ目に関しては見方を変えることで説明がつきます。つまりこの霊害は話を聞いた人のもとに現れるのではなく、被害者の知り合いのもとに現れるものだったんです」

 霊害を起こす霊が害意を持って相手にとり憑くことは実はそう多くない。ただ自分の死を受け入れられず、周りの人間に救いを求めた結果とり憑いてしまうケースがほとんどだ。溺れた人間が他の人間にしがみつき、ともに溺れさせてしまう状況に近い。そのため生前親交のあった人間は頼る対象として、得てしてその被害に遭いやすい。

「霊害の話を聞いた、つまり相談を受けたってことはそれだけ信頼されてたってことだろうから、確かに納得できるね。でもさ、だったらどうして被害者の知り合いに繋がるのかな。長臣って人の知り合いに出るのならまだわかるけど」

「そこなんですよ。それこそが、全ての帰結点です。浄霊の後に霊害が続いたことも、連鎖が私に繋がったことも、もっと言えば4日前の夜、『暗がりの男』が夜鷹さんの結界を抜けたこともその点に起因しています。いえ、今にして思えば、答えは全て4日前に出揃っていたんですけどね」

 彩音の頭の中に当時の記憶がフラッシュバックした。些細な会話、微細な違和感、それらを拾い上げていけば一つの絵図が出来上がる。腑に落ちなかった部分が当てはまり、全てのつじつまが合わさった。あとはこの答えを夜鷹に伝えるだけだ。

 自分の仕事を終え、後を引き継がそうと顔を上げた彩音の視界を夜鷹が横切った。車にはね飛ばされたような勢いで屋上のフェンスに叩きつけられる。金網が軋み、支柱が歪んだ。夜鷹は咳こみながら、身を起こそうとするが思うように身体が動かない。そこに追い打ちで黒い腕が叩きこまれた。既に4mまでに伸びた腕が夜鷹の喉を掴み、空中に引きずりあげた。

「夜鷹さんっ!」

「くるんじゃねぇ、タコ!」

 走り寄ろうとした彩音を声を振り絞って止めた。フェンスに突っ込んだ際、支柱にぶつけた額から赤い血が流れ落ちた。口の中も切ったらしく、鉄の味が口内に広がった。少しずつ回復する腕力で抵抗するが、喉に食い込んだ指を引き剥がすことはできない。愛用の木刀は『暗がりの男』の足元に転がり、とても手が届く距離ではない。そんな八方ふさがりの状況で、しかし夜鷹は口角を吊り上げた。

「舐めるなよ悪霊。この程度の修羅場、くぐってねえとでも思ったか」

 夜鷹は全身の力を引き絞り、両の拳を握りしめた。暗い腕の手首部分を狙って、両側から同時に殴りつける。かつて人間だった頃の名残か、筋肉のない腕でも作りは人間のものと同じだった。筋を圧され緩んだ指から夜鷹は身を捻って地面に降り立った。

「お前は頭脳労働、俺は肉体労働だろうが。人の仕事にしゃしゃり出ててねえで、自分の仕事を全うしやがれ!」

 夜鷹は彩音に怒鳴り付け、すかさず木刀めがけて駆け出した。『暗がりの男』も腕で追うが、長く伸ばしすぎたために追いきれない。その隙に夜鷹は足を止めず木刀を拾い上げた。

「わかってますよ! わかりましたよ! そいつは、そこにいるのは長臣雄介の霊ではありません!」

 彩音も声を張り上げ返した。

「それは、霊害によって命を落とした、犠牲者たちの複合霊です!」

 夜鷹が床を踏み切飛び上がる。型も何もない、力任せの一撃で男の顔面を打ちすえた。びしり、と男の顔面にひびが入り、亀裂からどろりと闇が湧きあがった。伸びた腕を元の長さに戻し、『暗がりの男』は手で顔を覆う。しかし亀裂は止まらず、顔中に広がっていく。暗い指の隙間からぼろぼろと白い顔の欠片が零れ、最後には全て崩れ落ちた。ゆっくりと腕を下ろしたあとには暗い闇が顔の輪郭を残すだけとなり、人の形をした暗闇がゆらゆらと佇んでいた。

「名前を教えろ。俺は覚えてねえ」

 振り返らず、暗がりを見張りながら夜鷹は彩音に呼びかけた。彩音は首肯で応え、タブレット上に並ぶ名前を静かに読み上げた。

「一人目の犠牲者、工藤茜」

 暗闇の中にあどけない少女の顔が浮かんだ。

「二人目の犠牲者、蓮杖美保」

 暗がりの中に活発そうな少女の顔が浮かんだ。

「三人目の犠牲者、竿田勝也」

 暗晦の中に人の良さそうな青年の顔が浮かんだ。

「四人目のの犠牲者、…………鈴本カンナ」

 暗陰の中に大人びた少女の顔が浮かんだ。

「……最初に情報を貰い過ぎてたってわけか。なるほどな、通りで俺の結界を抜けられるはずだ」

 霊は人々の念に縛られ形を変える。冴崎から怪談を聞き、長臣の顔を覚えた夜鷹たちは『暗がりの男』の姿を先に思い描いてしまっていた。そのため現れた『暗がりの男』はそのイメージに縛られた姿となり、夜鷹はその正体に気付くことができなかった。もしも先入観を持たずに出会っていれば、それが複合霊であることは見破っていただろう。

 ただ、まったくヒントがないわけではなかった。夜鷹の作り上げた「蓮杖美保の部屋」、本人の霊しか入れない結界の中に『暗がりの男』は引っかかりながらも入り込んできた。結界を越えられたのは霊群の中に蓮杖美保がいたためであり、すんなりと抜けることができなかったのは他の霊を引き連れていたからであった。しかし夜鷹はそのことに思い至らず、『暗がりの男』=長臣雄介の霊と捉えたまま浄霊を行った。その認識ゆえに夜鷹の攻撃は長臣雄介にしか届いていなかったのである。

「あのとき、浄霊は確かに成功していました。けれど浄霊できたのは長臣雄介だけだで、他の取り込まれた霊、被害者の霊たちは清められることなく現世に残っていたんです」

 元凶が消え去っても彼女達は成仏することができなかった。それまでと同じように自分たちを救ってくれる相手を探し求め、闇の中を彷徨い歩く。助けてほしくて、救ってほしくて、かつて親しかった相手に縋りつき結果としてとり憑いてしまう。そこには悪意も害意もない。ただ悲痛なまでの懇願の表れだった。

「だからどうした」

 事もなげに夜鷹は言いきった。口に溜まった血を吐き捨て、うっとおしそうに四つの顔を睨みつける。

「だからどうした。それが何だ。救ってほしかっただけだ? 助けてもらいたかっただけだ? 悪気はありませんでした、だから悪くありませんってか。ふざけんのも大概にしとけ」

 木刀を握りしめる指に力がこもる。怒りが全身を震わせ、気迫となって放たれる。ごきごきと首を鳴らし、夜鷹はゆっくりと息を吸い込んだ。

「いつまでもぐだぐだ甘えたことぬかしてんじゃねえぞっ! そんななりしてまだわかんねえってのか!? 嘘付け、本当はとっくに気付いてんだろうが! 気付いてるくせに目を背けてるだけだろうが! 自分たちがもう死んでるってことに!!」

 怒りを言葉に乗せて、夜鷹が吼えた。びりびりと空気が怒気に震え、立ち尽くす暗闇を叩きつけた。闇に浮かぶ四つの顔が歪み、暗い輪郭が大きくぶれる。悲しみとも憎しみともとれない表情で四人が慟哭を張り上げた。四人分の声が重なり、痛々しい叫び声が轟く。次いで闇の中から一本、二本と腕が生えてきた。四人分の顔を張りつけ、計八本の腕が無造作に生えたその姿は、もはや人としての形をなしていなかった。完全な異形に落ちた怪異『暗がりの男』がそこにいた。

「上等だクソ化け物。そこまで聞き分けがねえってんなら、俺が全員分、思う存分に引導を渡してやるよ」

 夜鷹が床を蹴るのと『暗がりの男』が腕を伸ばすのはほぼ同時だった。『暗がりの男』の腕には既に肉体構造も物理法則もなかった。ありえぬ方向に曲がり、障害物もすり抜けて夜鷹に襲いかかる。上下左右、他方から迫りくる腕をかわし、夜鷹は横薙ぎに木刀を振るった。べきり、ごきんと鈍い音を立てて、木刀の当たった二本の腕がへし折れた。四人のうち、二人の顔が悲鳴を上げた。霊の名前を知ると言うことは、対象と深く結び付くことを意味する。そして正体を認められた霊はより確かな実体を持つようになる。夜鷹にとって『暗がりの男』は既に曖昧な存在ではない。現実にある物体のようにダイレクトに干渉することができた。

「夜鷹さん、下です!」

 彩音の声が届くより早く、床をすり抜けた腕が夜鷹に伸びた。夜鷹は反射的に身をよじるがかわしきれない。左の脇腹に真っ暗な手の平がめり込み、夜鷹は駒のように弾き飛ばされた。相手の正体を知り実体化させるということは何もいいことばかりではない。夜鷹の攻撃が直接効くと言うことは、同じく霊障もより現実的に夜鷹に影響してしまう。与えるダメージも与えられるダメージも増加する。夜鷹にとって浄霊とはノーガードの殴り合いに近い、もろ刃の剣でもあった。

「夜鷹さん!」

「うるっせえ! 黙って見てろ!」

 威勢よく啖呵を切るが、夜鷹を貫いた衝撃は相当のものだった。勢いを殺していなければ骨の一、二本砕かれていただろう。ふらつく足取りで、かろうじて木刀を構える。それを好機と見たのか、『暗がりの男』は残った6本の腕だけでなく本体ごと夜鷹に突っ込んできた。両側から腕で囲い、覆いかぶさるように広がった闇でのしかかる。夜鷹は避けようともせず、これを真っ向から受けて立った。柄の底に片手を添え、狙いを定めて木刀を突き立てる。カウンターで放たれた切っ先は過たず四つのうちの一つ、蓮杖の顔面を貫いた。

 甲高い叫び声が響き、『暗がりの男』は大きく仰け反った。仮面が砕け散るように蓮杖美保の顔が割れ、その破片は淡い光になって消えた。蓮杖の顔があった部分は周囲の闇ごとかき消え、抉られたように大きな穴が開いていた。夜鷹は木刀を引き戻す勢いのまま身体を回転させ、左側を囲っていた腕を殴りつける。骨の砕けるような音がして、腕の一本が叩き折られた。

「まだまだぁ!」

 『暗がりの男』身を引こうとするが、夜鷹は追撃を緩めなかった。逆袈裟で斬りかかり、今度は工藤茜の顔を打ち砕いた。またその周りの闇が削ぎ落され、一際大きな悲鳴が上がった。

「っ!」

 耳をつくあまりに痛ましい声に、彩音は思わず目を逸らした。相手は処理しなければならない悪霊で、それが自分の仕事であることは承知している。けれども目の前のむごたらしい光景を直視することはできなかった。夜鷹はああ言ったが、それでも彼女達は被害者なのだ。わけもわからないうちに巻き込まれ、死んでしまった哀れな犠牲者なのだ。あの腕はきっと救いを求めて伸ばした腕の表れなのだろう。そんな腕もまた一本、見ている間に容赦なく砕き折られてしまった。

「非道いと思うかい?」

 傍らに浮かぶ古畑が問いかけてきた。その瞳の奥にある深い慈愛に、彩音は膨れ上がる後ろめたさを抑えきれなかった。立場上自制しなければならないし、自分はそんなものに付き合う余裕はない。目的を達成するまで他者に関心など持たないと心に決めていた。にも関わらず、一度堰を切って出た罪悪感は留めることができなかった。

「だって、あんまりじゃないですか。彼女達は誰かを殺そうなんて思ってないのに。ただ助けてほしくてもがいているだけなんですよ。いきなり霊にとり殺されて、そんなの素直に受け入れろって方が無茶じゃないですか!」

 タブレットに目を移せば、画面上に四人の顔が並んでいた。全員つい最近までごく平凡な人生を歩んできた、どこいでもいるような一般人だった。家族もいれば、友達もいた。それぞれの生活を笑ったり泣いたりしながら過ごしていた。それが今や人をとり殺し、異形の姿になり果て、木刀で殴り倒されようとしている。どこで踏み違えたのか、歩み進んだ物語の結末はあまりに無残なものだった。

「私だって、このままでいいなんて思ってません。夜鷹さんが悪いわけじゃないのもわかってます。それでも、やっぱりあんなの……」

 木刀で殴って強制的に成仏させる。夜鷹はそれ以外のやり方を知らない。もしこれが名のある高僧や霊媒士だったなら、お経なり説法なりで説き伏せるやり方もあったろう。そうすれば彼女達もまだ安らかに眠ることができたのではないか。そう考えると、どうしてもやりきれないものが残った。

「彩ちゃんはさ、僕らにとって一番つらいことって何か分かる?」

 うなだれる彩音に古畑は優しく語りかけた。彩音を見る瞳には長い時間を感じさせる深みが宿っていた。いつもなら分からなくても口を開く彩音だが、自然と素直に首を振っていた。

「霊にとって一番つらいことはね、誰にも気付かれないことなんだよ。さっきまでいた世界から放り出されて、大好きだった人たちから切り離されて、たった独りで自分の死と向き合わなければいけないこと。永遠に思える孤独が何よりつらいんだ。それでみんなに気付いてほしくて霊障を起こしたり、見える人にとり憑いたりする。だからね、僕は鷹くんの除霊って好きなんだ」

 古畑の見る先で夜鷹がまた木刀を振るった。四本の腕のうち一本に当たるが、先ほどのような勢いはなく、折るには至らなかった。上がる息と全身の生傷が激闘を物語っていた。

「ああ、もう。いい加減、しつこいってんだよ、くそが」

 全身に傷と疲労を負い、立っているだけでも足元がふらつく。そんな状態でも夜鷹の心は依然萎えていなかった。額から流れる血を乱暴に袖で拭い、鋭い眼光を突き立てる。気圧されたように『暗闇の男』がたじろいだ。

「もうそっちにいくのも面倒くせえ。おら、ぶちのめしてやるからかかってこいよ」

 夜鷹は木刀を片手で担ぎ、くいくいと手招きをした。余裕ぶって見せているが、体力が残り少ないのは隠し切れない。『暗がりの男』はぶるぶるとわななき、雄たけびを上げた。二人分になった叫声を受けて、夜鷹は深く息吸い込んだ。荒れる息を無理矢理整え、暴力的に破顔した。

「ああ、それでいい。物分かりがよくていい。せめてもの他向けだ、そのみみっちい未練をこれ見よがしにぶった切ってやるよ!」

 曇天の空に響く絶叫を嬉しそうに受け止めて、夜鷹は目をぎらつかせた。横薙ぎで振るわれた腕を、木刀を使って受ける。今度は受け止めることはせず、勢いを流してコンクリートの床に叩きつけた。バランスを崩した態勢を利用して、そのまま腕を踏み抜く。黒いしぶきを飛ばして腕が千切れ飛んだ。

 しかし『暗がりの男』はもうそんなことでひるまなかった。その間にも突き進み、夜鷹の間近にまで迫っていた。今からでは木刀を振ることはできない。夜鷹は構わず暗がりの中に肩から突っ込んだ。身の毛もよだつ異様な感触とわずかな重みが返ってきた。『暗がりの男』が後ろに押され、わずかに空いた隙間を利用して身を回す。木刀の柄が竿田勝也のこめかみを穿った。よろよろと後退しながら、か細い声を残して竿田勝也の顔が砕け落ちた。散らばった破片は光に溶け、大きく闇が霧散する。二本の腕が何かを求めるように宙に伸び、何も掴むことのないまま消えていった。

「……よお、最後はお前か」

 最後に残った顔に、夜鷹は声をかけた。身を覆う闇の大半をはぎ取られ、八本あった腕も二本にまで減った。その憐憫さえ誘う形貌の中心に鈴本カンナの顔が浮かんでいた。鈴本はもはや声を上げることもしなかった。力なく腕を垂らし、両の目から静かに涙を溢れさせていた。

 夜鷹は木刀の構えを解き、無造作に歩み寄った。互いの間合いに入っても両者に動きはない。彩音が息を呑み緊張する中、夜鷹はどこまでも穏やかな顔をしていた。

「お前には悪いことをしたな。謝って済むことじゃねえし、今さら取り返しのつくものでもねえけど。……助けてやれなくて、すまなかった」

 臆すことなく、夜鷹は謝罪の言葉を告げた。鈴本カンナは何かを言おうとしたが、声を失った口からは呻きが漏れるだけだった。それでもどうにか言葉を紡ごうとする鈴本を夜鷹は制した。

「何を言ってんのかはわからねえが、何を言いたいのかは大体わかる。どうせ怖かったとか、辛かったとか、そんなとこだろ。まあ、わかんねえでもねえよ。誰にも気付かれないのはきついもんだって俺の知り合いも言ってたからな。けどなあ、見てみろよ」

 両手を広げ、夜鷹は満身創痍の身体を晒した。制服のあちこちは破れ、流れ出た血液が付着している。額の流血は止まっていたが、顔の半分を赤く汚していた。外からは分からないが、服の下にはいくつも痣が残っているだろう。

「少なくとも、お前らはここにいたじゃねえか」

 夜鷹はどんな霊に対しても真っ向勝負を挑む。それしかできないというのももちろんあるが、それがせめてもの礼儀だと夜鷹は考えていた。同じ土俵に立ち、同じ目線で対等に向かい合う。当然攻撃されれば痛いし、度を過ぎれば怪我をするが、そうでなければフェアじゃない。自分だけ安全な高みから一方的に高説を垂れるようなことはしたくなかった。

 そしてそれは、何よりも目の前の霊の存在を認めていることに他ならなかった。その身に痛みを残し、傷を刻む。そうして幾多の霊の証しを背負って夜鷹は向かい立つ。それが何年経っても変わらない夜鷹の流儀だった。

「誰が気付かなくたって、お前らはちゃんといたんだよ。証拠がこうして残ってる。他の奴が否定しても、俺がそれを保証してやる。忘れないうちは覚えといてもやるさ。だからもう、大人しく死んでろ」

 ここにきて歯に衣を着せるような真似はしない。夜鷹の真っすぐな言葉を受けて、鈴本は静かに目を閉じた。全てを受け入れるように、全てを委ねるように。その口元には微笑みさえ浮かんでいた。それを見てとり、夜鷹はゆっくりと木刀を構えた。身体を捻り全身に力を込める。せめて苦しまないように、一撃に全力を込める。

「ありがとよ。面倒がなくて、助かるぜ」

 そして最後の一振りが放たれた。木刀は違わず鈴本の顔面を砕き、闇に散らした。薄れゆく闇の中、破片が星のように瞬き、やがて消えていった。

 こうして4人の犠牲者を出した怪談『暗がりの男』はその幕を閉じた。


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